南区四谷

四谷観音堂 南区四谷3-7-34[地図]


田島通りの四谷交差点の南東の角、稲荷神社の脇から奥へ進むと四谷観音堂があった。


参道の左側に水屋と六地蔵の小堂が並んでいる。周りにも多くの石塔が立っていた。


小堂の中 丸彫りの六地蔵塔 宝永2(1705)六体の地蔵菩薩像はよくそろっているが、宝永年間のものとは思えず、おそらくあとからたてなおされたものだろう。


左端の塔の敷茄子に「奉造立六地蔵爲二親菩提」右から2番目に造立年月日が刻まれている。


水屋の左側、入口から入ってすぐ左のブロック塀の前に庚申塔の文字塔が立っていた。角柱型の石塔の正面、日月雲「庚申塔」塔の下の台の正面右のほうに「田」と見えるのは田嶋村か?中央付近にも文字が見えるが台は相当深く埋まっているのだろう、紀年銘も見つからず、造立年などは不明である。


塔の左側面に左 よのミち。


右側面に 右 はやせ道。道標になっていて、江戸時代後期の造立の可能性が高いと思われる。


六地蔵の真後ろ 庚申塔 宝永5(1708)大きな角柱型の石塔の上に青面金剛立像を浮き彫りした駒形の石塔。沼影観音入口付近でみた庚申塔と同じような重制の庚申塔である。


合掌六臂の青面金剛。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。邪鬼は頭と背中を踏みつけられ足を延ばしてうつぶせに横たわり、顔だけは持ち上げて正面をにらむ。三猿は両脇が内を向く構図。左の言わ猿はやや前かがみ、右の見ざるはやや後ろに座っていた。


角柱型の石塔の正面 梵字「ア」の下に「奉造立庚申像爲二世安樂也」両脇に願文。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州足立郡与野領四ツ屋村 施主 惣女中と刻まれていた。


その隣、丸彫りの地蔵菩薩立像 安永2(1773)笠をかぶった非常に珍しい地蔵菩薩像。このあたりでは戸田市美女木の妙厳寺山門裏で見たことがある。


像はかなり溶けだしてして尊顔はあいまい、錫杖と宝珠を持つ両手の指だけがやけにリアルに残っていた。


塔の正面には 四國八十八箇所之内 四十九番 観音寺。四谷観音堂は廃寺となった観音寺の寺院跡である。


塔の左側面に造立年月日。右側面は銘が薄くよみにくいが、越後国□沼郡 知屋川?村 願主 佛念。願主となった僧が越後出身ということだろうか?


六地蔵の小堂の右脇に弘法大師遠忌供養塔 天保5(1834)角柱型の石塔の正面に「弘法大師一千年御遠忌供養塔」


塔の右側面中央に造立年月日。右脇に天下泰平 國土安穏。左脇に四國八十八箇所伊豫國浄土寺模四十九番。


左側面には足立坂東十四番 本尊 聖觀世音菩薩。続いて田嶋村四ツ屋 観音寺と刻まれていた。


観音堂の裏の墓地の奥、個人の墓所の中にきれいな形の舟形光背を持つ二基の石仏が並んでいる。どちらも墓石だが、浦和市教育委員会発行の「石の文化財」(H8年刊)にも紹介されているので取り上げることにした。



左 阿弥陀如来立像。光背上部に梵字「ア」両脇に二つの戒名が刻まれ、その命日は慶安3(1650)と寛文3(1663)造立はそれ以降で寛文期と思われる。


カビも少なく風化も見られない。資料では釈迦如来像となっていたが、両手とも親指と人差し指で輪を作っていて、こちらは阿弥陀如来像とすべきではないだろうか。


右 薬師如来立像。舟形光背の上部に梵字「バイ」その下に腹前に薬壺を両手で持つ薬師如来像を浮き彫り。


光背両脇に二つの戒名。命日は延宝6(1678)と貞享元年(1684)で、造立は貞享か元禄だろう。いずれにしても、武士、僧以外に個人が墓塔を建てることがまだ一般的ではなかっただろうこの時期に、このような立派な墓石を続けて造立できたのは相当な有力な「イエ」だったということだろう。穏やかに笑みを浮かべる尊顔はかぎりなく美しい。

 

稲荷神社 南区四谷3-7[地図]


四谷交差点の南東の角にある稲荷神社。同じ敷地内に「四谷会館」があり、その奥が四谷観音堂になる。


神社の裏、ブロック塀と大きな木に挟まれた狭いスペースに角柱型の石塔が立っていた。


神社のほうに向いた面は石塔の右側面。南 坂下り わらび 道まん はやせ ミち と刻まれている。


正面は西向き。目の前にブロック塀があり、正面から全体を写すことはできなかった。上部に「水神」水神供養塔である。


正面下部には西 あきがせ ひき又道。「西」の下あたりに大きな断裂跡が見える。


塔の左側面はさらに狭く、ピントを合わせるのも難しい。上部に北 橋下り うらわ よの 道。


下部に四ツ屋 願主とあり一名の名前が刻まれていた。本来の台を欠くためか、紀年銘などは見当たらず、造立年は不明。三方向七地名が記された立派な「道標」でもある。

稲荷神社南路傍 南区四谷3-10-12[地図]


四谷交差点から県道79号線を350mほど南へ進む。細い路地を左に入るとすぐその先、左路傍に小堂がたっていた。


小堂の中 庚申塔 文化7(1810)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。前に大きな石が置かれているが、その正面に地蔵菩薩をあらわす梵字「カ」が刻まれていて、どうやら後ろの庚申塔とは関係ないもののようだ。


全体に風化が進み、像は溶けだしている。青面金剛の尊顔ははっきりしないが、持物は矛・法輪・鏑矢・弓で、こちらはなんとか確認できた。


足元の邪鬼はやはり溶けてしまって岩の塊のように見える。両脇に二鶏を線刻。その下の三猿は中央が正面を向き、両脇が内を向く構図。


側面の銘は小堂の壁板の隙間から確認できた。塔の右側面に造立年月日。その横に 右 うらハ道。


左側面 左 よの道。その横に「講中」と刻まれていた。