岩槻区箕輪・本宿

箕輪公民館 岩槻区箕輪137


岩槻駅方面から国道122号線を蓮田方面に向けて1kmほど進むと、左手に岩槻警察署がある。さらにその300mほど先の信号交差点、見沼区の国道16号線深作南交差点からまっすぐに東北道を越え、元荒川を越え、慈恩寺付近で県道65号線と合流する広い道路に出る。ここを左折して少し歩くと、左側に箕輪公民館がある。公民館の南は墓地になっていて、その入り口に小堂が立っていた。


右から地蔵菩薩立像 享保8(1723)丸彫りの延命地蔵。四角いお顔でゆったりとした雰囲気。手入れがいいのか、カビなども少なく彫りもしっかり残っていて保存状態はいい。


台の正面に銘が刻まれているが、小堂の前の横板のために全体を確認できなかった。右に施主箕・・中央に享保八、左に同行・・と見える。


その隣 やはり丸彫りの地蔵菩薩立像 明和6(1769)こちらはやや小ぶりの延命地蔵。これも保存状態は悪くない。


下の台の正面中央「奉造立地蔵」その両脇に造立年月日。左脇に箕輪村中と刻まれていた。小堂内には大小さまざまなサイズの木彫りの仏像が置かれているが、どなたの仕事だろう?


奥に六地蔵菩薩立像 延享3(1746)右から2番目のお地蔵さまは頭部を補修されていて、全体にやや不揃いの印象を受ける。


右から3番目のお地蔵様の蓮台の下、右の後ろの位置に紀年銘が刻まれていた。この敷茄子の紋様などは結構手が込んでいて細かい。


小堂の脇 六十六部供養塔 延享4(1747)大きな唐破風笠付きの角柱の石塔。正面を彫り窪めた中、上部に延命地蔵の坐像を浮き彫り。


その下の中央に「六拾六部供養塔」両脇に造立年月日。


塔の右側面には武州崎玉郡岩附領と刻まれている。


塔の左側面中央やや大きな字で箕和(箕輪の意味か)住人願主とあり、左脇にそれよりも気持ち小さな字で妙貞信女 延享三・・・と続く。ちょっと意味がわかりにくい。石塔の造立は正面の紀年銘に吉日とあり延享4年で間違いないだろう。箕輪のこの女性が願主で延享3年以下は発願の日を表すのか?それとも延享三年の銘は妙貞信女の命日で、箕輪の村人(名前などはわからないが)が亡くなった女性の供養のためにこの供養塔を造立したのか?本当のところはどうなのだろう。


その隣に二基の馬頭観音の文字塔が並んでいた。


右 馬頭観音塔 明治21(1888)白カビの中になんとか銘が確認できる。塔の正面に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。左側面に三名の名前が刻まれている。

 

左 馬頭観音塔 明治24(1891)やはり正面に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。左側面には個人名が刻まれていた。

 

久伊豆神社 岩槻区箕輪142の北


箕輪公民館の広い道路を隔てた向かい側、細い道を入った先の左手に久伊豆神社があった。この道は国道122号線と平行していて結構民家もあり、この地域では昔から大切な生活道路だったのではないだろうか。


鳥居の先に一対の石灯籠。その奥に手水石が見える。石灯籠は正面に「奉献 伊勢太々連」明治の紀年銘があり、意外と新しい。


手水石 安政2(1855)正面に「奉献」伊勢太々講中。右側面に造立年月日。裏面には當所講元とあり二十名ほどの名前が刻まれている。


左の石灯籠の脇に力石が並んでいた。左は天保6(1835)中央に「奉納三十五貫」箕輪村関根と刻まれている。中央は32貫、右は28貫、それぞれ箕輪村と刻まれているが紀年銘は見当たらない。


境内の右奥の小堂の中に二基の庚申塔が祀られていた。


左 庚申塔 正徳2(1712)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。小堂内は薄暗く全体をきれいに写すのは難しい。顔と股間が黒く塗られている。


発達した瑞雲。頭上には蛇が頭をもたげ、合掌した青面金剛は左手にショケラを高々と掲げ持っている。光背右に「奉供養庚申二世安樂所」左脇には造立年月日が刻まれていた。


青面金剛の足下。正面向きで両腕を横に張った邪鬼。その下にこれも正面向きの三猿。三猿の横に二鶏。岩槻以外の地域では二鶏が邪鬼の少し上か横という配置が多かったが、岩槻区では三猿の脇に二鶏というこの構図をよく見かけるような気がする。さらに三猿の下、中央に法輪と卍を彫り、右に箕輪村、左に施主廿一人と刻まれていた。


右 庚申塔 寛政10(1798)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。左の青面金剛は顔を黒く塗られていたが、こちらの青面金剛は顔を潰されている。


たなびく瑞雲の上に日月。青面金剛の髪型は、ときどき見かける三角型で左に折れた形。大きめなショケラは必死で青面金剛の腰にしがみついていた。


足下の邪鬼は獅子顔で頭を右向きにしてうずくまる。青面金剛は左足で邪鬼の頭を、右足で尻を踏んでいるが、その右足が今にも切れてしまいそうな感じに細くねじれている。二鶏は青面金剛の衣服の波打つすその上にちょこんと止まっていた。さらにその下の三猿は岩槻らしく、自由な空間に遊んでいる。左に見える聞か猿は右手で片耳をふさぐが左手には扇子を広げている。これでは左耳は聴こえているだろう。中央の見猿は右手で目をふさぎながらも左手で踏ん張って岩穴から這い出そうとしている。右の言わ猿は足を組んで座るなんともリラックスしたポーズを取っていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には箕輪村講中と刻まれている。この角度から見ると、青面金剛の衣装の紋様など彫りは細かく、踏み敷かれた邪鬼の様子は尻のほうから見ることになり、これも妙に生々しい。    

城北中学校南スーパー裏 岩槻区本宿421南東


箕輪地区から広い道を慈恩寺方面に10分ほど歩くと、右手に大きなスーパーがある。その先の角を右に曲がると右手の歩道の脇、ブロック塀に囲まれて石塔が並んでいた。


右から 庚申塔 正徳4(1714)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。駒形の石塔の前面は白カビにおおいつくされ、さすがに時代を感じさせる。青面金剛はターバンを巻いたような三角の髪型。塔の上の部分には銘は見当たらない。


青面金剛の足の両脇に二鶏を線刻。足下には小さなサイズの邪鬼が頭を左にして踏みつけにされているが、風化のために顔などの様子はわからない。その下に正面向きの三猿。銘はこの部分に集中していた。右脇「奉講庚申供養塔」左脇に造立年月日。三猿の下の部分、中央に本宿とあり、その両脇に六名の名前が刻まれている。


左 庚申塔 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。さらに白カビがひどく、光背の左が欠けていた。この部分には「歳」一文字以外に文字が確認できず、造立年ははっきりしない。


風化が進み青面金剛の顔も潰されていた。頭上に蛇。光背右かすかに「為庚申供養現世安全也」と読める。


下部も白カビがひどい。正面向きの邪鬼は両腕を折りたたんで横にしてその上に顔を乗せる。その下に正面向きの三猿。三猿の両脇に二鶏。さらにその下の部分、いくつか名前が刻まれているようだが、全体に真っ白で読み取ることはできなかった。


中央 ひときわ大きくまだ新しい聖観音菩薩立像 平成13(2011)ごく最近再建されたものだ。


下の台の左側面に造立年月日。正面中央に「念佛供養」右脇に享保七壬寅年十月廿四日、左脇に本宿村 施主 男女廿五人。本来の観音塔の銘を再現したものと思われる。以前の観音様の様子はどんなものだったのだろう?


その左 地蔵菩薩立像 天和3(1683)光背、像、台いずれもカビで白くなっていた。


舟形光背に延命地蔵像を浮き彫り。右脇 梵字「バク」の下「奉納大樂法華一千部二世安樂也」左脇は梵字「ウン」の下に造立年月日。さらにその下には武州岩付 本宿村とあり、個人名が刻まれていた。


続く二つは不完全なもの。右は舟形の光背に地蔵菩薩像を浮き彫りした上半分と思われる。光背左上が欠け、右脇に文字が見えるがうまく読み取れない。像の左脇は錫杖の上の部分のように見える。


左端、やはり風化のためにはっきりしないが、像の左脇は錫杖の柄の部分だろう。光背の様子、折れた跡の形がほぼ似ていることから、隣の地蔵像の下半分と思われる。双方の台に銘などを確認することはできなかった。