西福寺 岩槻区南平野1-33


県道2号線を東に進み元荒川を越えてすぐの信号を左折、川沿いの道の右側に西福寺があった。入口から長い参道の奥に本堂が見える。参道の左側に墓地がひろがっていた。


参道に入ってすぐ、左側に墓地の入り口がある。中に入ると塀の前に地蔵像が並んでいた。


左から 地蔵菩薩立像 明和2(1765)舟形光背に合掌した地蔵菩薩像を浮き彫り。蓮台以下の台の部分が四段になっていて、その上に舟形光背型の石仏というのはあまり見ない。光背が無く丸彫りなら普通だと思うのだが・・・


台の正面 中央に「奉建立地蔵尊」その両脇に造立年月日。右下に本願主、左下に妙保尼と刻まれている。左側面に願文、右側面に6つの戒名、僧名が刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像 宝暦11(1761)こちらも舟形光背、合掌型の地蔵菩薩像。やはり台が四重になっていて、二つの地蔵菩薩像はとても良く似ている。


台の正面 中央に「奉造立地蔵菩薩一躰」その両脇に造立年月日。右下に本願主、左下に妙因敬白。こちらは右側面に願文、左側面に6つの戒名、僧名が刻まれていた。


その先に六地蔵菩薩立像。地面にじかに置かれた六地蔵はすっかり風化が進み表面は丸くなっている。台が無く銘は見当たらないため詳細は不明。


その奥 六地蔵菩薩立像。こちらは台もしっかり残っているが、銘が見当たらなかった。像の裏も見てみたのだが、なにか見落としているのだろうか?


参道を進むと左側、参道沿いに宝篋印塔と地蔵菩薩塔が並んでいた。


右 宝篋印塔 寛保2(1742)基礎部正面 中央「宝筐印陀羅尼塔」両脇に造立年月日。


左側面と裏面に願文。右側面中央に「奉納法花経六十六部日本回國成就攸」両脇に三界萬霊、六道四生。さらに右脇に武陽埼玉郡岩附領平野邑 願主宥憲居士。左脇に岩平山西福寺法印宥敝代と刻まれていた。


左 地蔵菩薩坐像 寛保3(1743)全体に白カビが多い。円光背を持つ丸彫りの地蔵像。左膝を立て、錫杖・宝珠を持つが、錫杖の柄の一部が欠けている。


二段になった台の上のほうの台に銘があるが、白カビが多くはなはだ読みにくい。中央の二行は下に「大姉」「童子」と見えるので戒名。右のほうに南、右、左のほうに左とあり、その下に文字が見えるがこちらははっきりしない。資料を見ると南はとがや江四里、右こしがや江三里、左しおんじ江廿六丁、かうのす江五里半となっていて道標だったようだ。塔の左側面に施主は個人名。右側面に造立年月日が刻まれていた。


参道を進むと本堂近く、左側に「開山堂」があり、中に石地蔵が祀られている。


地蔵菩薩立像 明和5(1768)角柱型の石塔の正面に輪光背を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。錫杖・宝珠を手に静かに佇むお地蔵さまは風化の様子もなく美しい。


塔の左側面をのぞくと造寺銘序で始まる長い銘文が刻まれていた。銘文は裏面に続き、さらに右側面にも渡っている。右側面の最後に造立年月日が刻まれ、當寺中興第十一世法印憲正春誌と結ばれていた。


墓地の北西の隅に古い石塔が集められている。その多くは無縁仏のようだった。


後列、前の石塔に隠れるように聖観音菩薩立像 延宝4(1676)光背上部 梵字「サ」右脇に「奉供養為念佛施主二世安樂也」続いて同行三十人。左脇には造立年月日が刻まれている。


資料では西福寺で最古の石仏ということだったので一生懸命探したが、それらしいものがなかなか見当たらず、3回目にやっと見つけることができた。まるでかくれんぼのようだ。このシチュエーションでは全体を写すことはできなかったが、気品あふれるその表情だけでもご覧いただきたい。



墓地を通り過ぎ本堂のほうに行くと、その左側に多くの石塔が整然と並べられていた。数えてみると全部で22基。近隣のものが集められたのだろう。



左から7基。その後ろに4基。合わせて11基になるが、この11基はあとの11基に較べると、塔のサイズが小さく、それほど大きな台を持たない。特に前列の7基はいずれも台がなく地面に直接置かれている。


前列 左から二基と後列左端は馬頭観音の文字塔。前左 天保9(1838)前右 天保6(1835)後列左端は塔全体を白カビが覆いつくしていて紀年銘が確認できず年代不詳。三基ともも塔の正面に「馬頭觀世音」と刻まれていた。


前列3番目 庚申塔 寛政12(1800)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。頭上に蛇が見える。髪の毛をつかまれたショケラはもがいているようだ。


足の両脇に二鶏。足下の邪鬼の姿勢がおしりをちょっと突き上げていてユニークだ。三猿は見当たらないが、台のほうに彫られていたのだろうか。塔の左側面には造立年月日が刻まれていた。


前列4番目 地蔵菩薩坐像 。紀年銘は確認できない。合掌した地蔵像は表面が摩耗、丸みを帯びている。下部正面、右 志おんじ道、南 こしがや道。左側面に左 かうのす道と刻まれている。供養塔ではなく道標の役割が大きいようだ。


前列5番目 馬頭観音立像 宝暦7(1757)塔正面はかなり白カビが多いが、頭上の馬、優しげなお顔(慈悲相)、合掌六臂など像の様子は確認することができた。資料によると塔の右側面に造立年月日が刻まれているということだが、写真で見るように隣の石塔がぴったりと寄り添っていてこちらは見ることができない。


前列6番目 不動明王立像 宝暦8(1758)梵字「カーン」の下に右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王立像を浮き彫り。光背右脇に「奉供養不動尊像一躯」左脇に造立年月日。その下に平野村上講中三十七人と刻まれていた。不動明王というと今まで見てきたのは坐像がほとんどで、立像はすぐ思い出せるのは富士見市水子の山崎不動院で見かけたくらいで、ほかはあまり記憶にない。相当珍しいと思うのだがどうだろう?


前列7番目 庚申塔 元禄4(1691)唐破風笠付角柱型の石塔の正面中央を彫り窪めて、その枠上に日月雲。中に青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを持つ「岩槻型」足の両脇に二鶏。足下に正面向きM字型の邪鬼。その下に正面向きの三猿と、「岩槻型」の典型的な構図。元禄年間という早い時期にこの形は成立していたことがわかる。


塔の左側面に造立年月日。右側面に「奉造立庚申像悉地成就所」結衆敬白。裏面には平野村と刻まれていた。


後列左から2番目 庚申塔 弘化2(1845)塔の正面 日月雲「庚申塔」


塔の右側面に造立年月日。左側面に武州埼玉郡平野村と刻まれている。


下の台の正面 彫りは薄いが 此方じおんじ道、向 かすかへ道、此方 いわつき道。前列の石塔と台との距離が近すぎて、いろいろ試みたが見やすい角度から写真を撮ることはできなかった。


後列3番目 普門品供養塔 文政6(1823)塔の正面中央「奉読誦普門品一万巻供養塔」両脇に造立年月日。下の台の正面には平野村講中と刻まれている。


塔の左側面 ぢおんじ道。右側面にかす可べ道。道標の役割も果たしていたようだ。


後列4番目 庚申塔 文化9(1812)塔の正面 日月雲「青面金剛」右側面に造立年月日。左側面に平野村と刻まれている。


下の台の正面には小さな三猿がひっそりと彫られていた。これもかわいい。    

 

奥には十一基の石塔が整然と並んでいた。塔のサイズ、台の規模などもほぼ揃っているように見える。


11基のうち、左から1番目 庚申塔 明和5(1768)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。全体に白カビが多くあまりはっきりしない。足下の邪鬼は比較的大きめで、両手でほおづえをつく。三猿も大きく、両脇の言わ猿と見猿は内を向いている。


塔の右側面には大きな文字で「奉造立青面金剛一躯」


右側面に造立年月日。下のほうに講中とあり、ひらがなで数人の名前が刻まれていた。女講中かもしれない。


2番目 庚申塔 文政11(1828)塔の正面 日月雲「庚申塔」台の正面の三猿は岩槻らしくラフな感じ。資料ではこの台の側面にたくさんの名前が刻まれているということだが、写真で見るように隣の台との隙間が全くなく、確認することは難しい。このあとに続く石塔もみんな同じような状況だ。


塔の左側面 武州埼玉郡岩槻領平野村講中。右脇に 東こしがや道、左脇には 西かうのす道と刻まれていた。


右側面に造立年月日。脇には此方かすかべ道と刻まれている。


3番目 庚申塔 安政5(1858)塔の正面 日月雲「庚申塔」隣の庚申塔と良く似ている。台の正面の三猿は足を投げ出したり、足を組んだりしていてさらにリラックスしていた。資料によるとやはり台の側面に多くの名前が刻まれているらしい。


塔の左側面 武州岩槻領 平野村講中。その右脇に向 こしがやミち、左脇に右 志おんじ道。右側面には造立年月日。その脇に左  加すかべ道と刻まれていた。


4番目 出羽三山供養塔 文政3(1820)塔の正面 日月雲「月山 湯殿山 羽黒山 三社大権現供養塔」下の台の正面に十人の名前。


塔の左側面に造立年月日。右側面には天下泰平 五穀成就 平野村と刻まれている。


5番目 庚申塔 文政6(1823)塔の正面 日月雲「猿田彦大神」下の台の正面に三猿。左の言わ猿だけがソッポを向いている。台の両側面には多くの名前が刻まれているという。


塔の左側面に造立年月日。右側面には武州埼玉郡 平野村講中と刻まれていた。


6番目 庚申塔 享和4(1804)塔の正面 日月雲「青面金剛」下の台の三猿も自由な雰囲気がある。こちらもやはり両側面に多くの名前が刻まれているらしい。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡平野村講中。


7番目 百ヶ所供養塔 安永3(1774)笠付角柱型の石塔の正面を彫り窪めた中、上部に聖観音菩薩立像を浮き彫り。その下に「奉納 秩父 西國 坂東 百箇所供養塔」下の台の正面に同行とあり十一人の名前が刻まれていた。


塔の右側面中央に大きく此方志おんじ道。右脇に造立年月日。左脇 武蔵國埼玉郡岩槻領平野村同行施主十八人と刻まれている。


左側面 下のほうにやはり大きな字で南こしがや道、北かうのす道。その上にはやや小さな字で七つの戒名が刻まれている。


8番目 庚申塔 明治4(1871)塔の正面 日月雲「猿田彦大神」下の台の正面にまたも自由な三猿。


年代的にはあたらしいのだが白カビがかなり多い。塔の右側面に造立年月日。その脇にじおんぢ道。左側面にはうっすらと こしがや道。その奥に武州埼玉郡岩槻藩平野村上組講中と刻まれていた。


9番目 庚申塔 安永5(1776)唐破風笠付角柱型の石塔の正面を彫り窪めて、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の台の正面 中央上に講中とあり、その下にかな文字で多くの名前が刻まれている。


三眼でドクロの首輪をした青面金剛の髪は三角形にとがってやや右に折れている。足の両脇に見事な二鶏。丸まった邪鬼。三猿は両脇が内を向く構図。


塔の右側面「奉造立青面金剛尊像一躯」左側面 武蔵國埼玉郡岩槻領平野村講中十四人。奥に造立年月日が刻まれていた。


10番目 庚申塔 享保8(1723)唐破風笠付角柱型。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを持つ「岩槻型」頭上に蛇がとぐろを巻く。ひざの両脇に二鶏。足元の邪鬼はM字型。その下に正面向きの三猿を彫る。


右側面「奉造立庚申尊像悉地成就処結衆丗一人敬白」その下にひらがなで十数名の名前。


左側面には造立年月日。その下にこちらもやはり十数名の名前が刻まれていた。


最後は庚申塔 享保14(1729)唐破風笠付角柱型の石塔の正面 日月雲の下を凝った形に彫り窪めて、その中に青面金剛立像 合掌型六臂。平らな頭頂部、H型の後ろの二組の腕、ドクロの首輪。川口でよく見たあの独特な青面金剛像。どこまで分布しているのだろうか?とても興味深い。


頭を左にして寝そべりながら顔だけ正面を向く邪鬼。その腕は異様に細い。三角形の構図の三猿と両脇の二鶏。見慣れた光景になんだかほっとする。


塔の右側面「奉造立青面金剛尊像悉地成就祈所」その右脇に天下泰平 風雨順時。左脇に五穀成就 萬民豊樂。


左側面には造立年月日。その下のほうに結衆女 敬白 二十人と刻まれていた。