香取神社(上) 岩槻区長宮1101



国道16号線で元荒川を越えたすぐ先、南平野交差点を右折すると県道80号線に入る。200mほど先の信号交差点で道は大きく二つに分かれ、右は県道325号線で元荒川沿いに越谷方面に至る。この交差点の付近から県道80号線を左に進みしばらく行くと左奥のほうに大光寺がある。その山門の手前左側に香取神社があった。長宮には東のほうにもうひとつ香取神社があり、こちらのほうを上香取神社、東のほうを下香取神社と呼ぶらしい。鳥居の左側に三基の庚申塔が並んでいた。



左 庚申塔 明和7(1770)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。前回紹介した南平野の西福寺の本堂左の石仏群の中で見た安永5年の庚申塔とそっくりだ。青面金剛は三眼、ドクロの首輪、三角形で右に折れた髪型、腕の付き方、その持物、ショケラの姿勢までほとんど一緒。頭上の瑞雲の処理の仕方も良く似ている。



両手の上に頭を置く丸まった邪鬼も三猿の様子も一緒。二鶏は西福寺のほうは邪鬼よりも高い位置に彫られていたが、こちらは邪鬼の両脇。よく見ると三猿の並び順が言わ猿と聞か猿が逆になっている。較べてみるとこちらのほうが風化が進んでいるのはその置かれた状況が違うためだろうか。



塔の右側面に造立年月日。左側面には長宮村上組講中と刻まれていた。



中央 庚申塔 寛政8(1796)自然石の正面に「庚申塔」下の台はなかば土に埋もれているが、見える。左端に「講」ひと文字が見える。資料によると造立年月日とともに、長宮村講中と刻まれているらしい。



右 庚申塔安政3(1856)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の逆立った髪の毛の中にどくろの顔がはっきりと見える。



髪をわしづかみにされたショケラは青面金剛のももにしがみつき、足下には邪鬼の顔が二つ並ぶ。台の正面にやはりリラックスした形の三猿が彫られていた。



塔の右側面に造立年月日。左側面には長宮村 上組講中と刻まれている。

長宮庚申塚 岩槻区長宮62付近



大光寺の入口から県道80号線を東に進むと、左側路傍、ちょっと奥まったところに庚申塔が並んでいた。雑草が多く、中へ進むのも結構苦労する。



左前 庚申塔 文化4(1807)塔の正面 日月雲「庚申塔」塔の右側面に造立年月日。左側面には世話人とあり、5名の名前。下の台の正面には三猿が彫られていた。



少し下がって後ろに三基の庚申塔が並ぶ。まず庚申塔 寛政10(1798)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の大きな台の正面に世話人二人、さらに おま寿、おかん、おきみなど、いずれも頭におがつく10人の名前が刻まれている。台の両側面にもそれぞれ11人の名前があり、女講中32人ということになるだろうか。



塔の正面を深く彫り窪めて、中に三眼の青面金剛。頭の後ろに円光背を持ち髪を逆立てて恐い顔でにらみつける。不動明王のような風貌。頭上の日月雲から足下の邪鬼まで、寛政期らしく彫りはかなり細かく技巧的だ。



獅子のような顔をした邪鬼。その下に面白いポーズの三猿を正三角形の構図に、さらにその両脇には二鶏が美しく彫られていた。



その隣 庚申塔 享保5(1720)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。後上右手に小さなショケラをかかげ持つ「岩槻型」M字型正面向きの邪鬼とやはり正面向きの三猿。これもよく見る組み合わせだが、二鶏が三猿の下というのは珍しい。



塔の左側面に造立年月日。右側面「奉造立青面金剛尊容一基善修等輩如意満足祈所」その下に諸檀主敬白。左脇に従是ぢおんじ道すぐと刻まれていた。



その右 庚申塔 寛政6(1794)塔の正面 日月雲「庚申塔」その下の三猿は両端が横向きで足を投げ出している。



塔の右側面に造立年月日。その両脇に武州埼玉郡長宮村と刻まれていた。



その前に庚申塔 文政11(1828)角柱型の石塔の正面 日月雲の下、大きく「庚申塔」その下の三猿は自由で奔放。右の言わ猿は後ろ向き、中央の聞か猿はあぐらを組んで左耳だけふさぐ。左の見猿はだらしない姿勢ですわりソッポを向いている。



下のほうの台の左側面、初めに世話人二人に続き、おみき、おとよ、おつめ、などたくさんの女性の名前が刻まれていた。右側面にもやはり多くの女性と思われる名前が刻まれている。

 

長宮香取神社(下) 岩槻区長宮724



大光寺から県道80号線を東に向かう。川通中学校の少し手前の細い道をを左に入り100mほど歩くと、右手にもう一つの香取神社があった。広い境内の西側のフェンスの前にたくさんの石仏が並んでいる。
 


左から2番目 庚申塔 安永8(1779)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。



 三角形の髪型の青面金剛。ショケラは足を折り曲げ腰のあたりにしがみつく。



足下に首をかしげた丸い体形の邪鬼。三猿は正三角形の構図で、下の二猿は向き合っている。言わ猿の両脇に二鶏を彫り、この下の部分は全体として五角形のシンメトリックな構図になっていた。



塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡岩槻領長宮村施主講中と刻まれている。




中ほどに立つ赤い鳥居の社の右隣 庚申塔 嘉永7(1854)台は一番下の薄いものも入れると三段。三猿を彫った台の下の大きな台の正面に多くの名前が刻まれていた。



日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは細かく技巧的。青面金剛の波打つ髪の中にどくろの顔が見える。髪をむんずとつかまれたショケラは足を折り曲げ合掌していた。



青面金剛の足下には狛犬のような顔をした二匹の邪鬼の頭。下の台の正面に自由で生き生きとした三猿を彫る。二鶏の姿は見えない。



塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡長宮村と刻まれていた。




続いて二基の馬頭観音があり、その奥 庚申塔 宝暦4(1754)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の頭上に梵字「ウン」を彫る。



足を折り曲げ四つん這いの邪鬼は頭と背中のあたりを踏まれていて、そのお尻の上に真っ白な雄鶏が乗っている。三猿は両側が中向きに足を投げ出して座る。



塔の右側面「奉供養大青面金剛」続いて天下泰平 國土安穏 五穀成就。左側面に造立年月日。その脇に長宮村講中敬白と刻まれていた。



さらにその右隣 庚申塔 明和7(1770)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。先日紹介した大光寺の山門脇にあった香取神社の庚申塔とそっくり。造立年月日まで一緒だ。台の正面に名前が刻まれているというが風化が著しく確認できなかった。



青面金剛は三眼で三角形の髪型。腰の脇のショケラは足を折り曲げている。



足下に丸まった邪鬼。その両脇に二鶏。その下の三猿の構成や様子まで全く同じだ。



塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。続いて長宮村と刻まれている。



続いて馬頭観音塔が立ち、その右 庚申塔 安永6(1777)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。白カビが多く、青面金剛の表情なども確認できない。塔の右側面に造立年月日。左側面に長宮村と刻まれていた。



青面金剛の足下で屈服する邪鬼の両側、真っ白な部分は二鶏だろうか。三猿は両端が中を向く構図。



境内の奥の拝殿の左脇の一角にも石塔が並んでいた。左端に小さな庚申塔が見える。



 庚申塔 寛政10(1797)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂。石質が悪いのだろう、塔全体にかなり剥落が見られる。



青面金剛の足下には邪鬼だろう。その右脇には雄鶏が見えるが、左脇の部分は大きく欠けていて雌鶏の姿は見えない。下部には三猿を彫る。左の猿は御幣を肩にかつぎソッポを向いていた。

 

香取神社 さいたま市岩槻区増長1



長宮から県道80号線を東に進み、左手に川通中学校を見て、その先400mほど行くと、右手に香取神社の入り口がある。ここから長い参道を奥へ進んでゆくと鳥居の向こう、参道の左脇に石塔が並んでいた。



五基の庚申塔は、適当な間隔をあけて整然と並んでいる。これだけ離れていると側面も確認がしやすい。



左端 庚申塔 享保2(1717)駒型角柱石塔の正面 日月雲の下「奉造立庚申供養塔石像一躰所願成就」上部両脇に造立年月日。右下に増長村。左下にも文字が見えるが読み取れない。下部には三猿だけが彫られていた。



2番目 庚申塔 宝永6(1709)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。ここでは最も古い。
白カビも多く彫りははっきりしない。 塔の右側面「奉造立供養庚申尊像一躰所願成就」左側面には造立年月日。右下に増長村、左下に同行拾八人と刻まれていた。



足下には白カビにまみれて邪鬼が横たわり、その下に正面向きの三猿。二鶏はいないようだ。

 

3番目 庚申塔 宝暦2(1752)角柱型の石塔の正面を彫り窪めた中に梵字「ウン」その下に「青面金剛尊」両脇に造立年月日。下部に三猿を彫る。下の大きな台には銘は見当たらない。



塔の右側面は無銘。左側面には増長村 講中七人と刻まれていた。



4番目 庚申塔 天明8(1788)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛尊」下の台には銘が無く、三猿も見当たらない。



塔の右側面に造立年月日。左側面には施主 増長村講中と刻まれていた。



右端 庚申塔 安永3(1774)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。像の中心あたりが一番カビが多くショケラなども混沌としている。発達した瑞雲の下、青面金剛は目をむいてにらみつける。



足下に邪鬼、二鶏、三猿だが、やはり風化が進んでいて、おおまかな様子しかわからない。



 塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。続いて増長村願主と刻まれていた。

薬師堂 岩槻区増長147付近



増長の香取神社から東に進み、すぐ先の交差点を右折して南に向かう。右折してから二つ目の路地をまた右に曲がり100mほど歩くと突き当りに薬師堂が立っていた。



お堂の手前左、共通のコンクリートの長い台の上に六基の石塔が並んでいた。右の五基が庚申塔。



角柱型の庚申供養の文字塔が五基続く。まずは庚申塔 元治2(1865)塔の正面 真っ白な中に日月雲。その下に大きく「庚申」塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡 岩槻領 増長村。



下の台の正面に三猿。線香立てが邪魔でよく見えないが左右が中を向く形。台の両側面にはそれぞれ七名の名前が刻まれていた。



続いて庚申塔 嘉永3(1850)塔の正面、日月雲の下に読みやすい楷書体で「庚申」下の台の正面に三猿。こちらも全体は見えない。塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡増長村。



正面に三猿を彫った台の両側面には、合わせて17名の名前が刻まれていた。



その隣 庚申塔 天保3(1832)塔の正面 日月雲「庚申祭」下の台の正面にはこちらも三猿が彫られている。塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡増長村。



三猿の台の両側面に合わせて21名の名前を刻む。



さらに庚申塔 文化13(1816)塔の正面 日月雲「庚申塔」下の台の正面に三猿。塔の右側面に造立年月日。左側面には増長村講中。



台の両側面に合わせて26名の名前。正面の三猿は中央の聞か猿が正面向き、左の言わ猿と右の見猿は外を向いている。まるでかくれんぼの鬼のような恰好でかわいい。石塔の銘の内容、構成はこの四基はほとんど同じだった。



最後は庚申塔 文化2(1805)塔の正面、日月雲「青面金剛」下の台の正面を彫り窪めてその中に三猿を彫る。台の側面には銘はない。



塔の右側面に造立年月日。左側面には増長村講中と刻まれていた。