岩槻区上野

宝生院 岩槻区上野6-5-3

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永福寺の詣墓の前から南に進むと古ケ場から上野に入る。この道路は県道65号線の西を県道と並行して走っていて、その先で県道65号線と合流する。300mほど歩くと右手に宝生院の入り口があった。本堂は奥のほうにあり、広い参道はアスファルト舗装で整備されている。入口近く、左側に石塔が並び、右側の墓地の前には二つの小堂が立っていた。

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入口左、真新しい弘法大師像の左に四基の石塔が並ぶが、いずれも江戸時代のものだ。

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左 地蔵菩薩塔 万延2(1861)塔の正面「安産地蔵尊」文字塔の地蔵菩薩塔じたい珍しいが、「安産地蔵」というのは初見。塔の右側面 當所とあり、関根氏の名前。この地域では関根氏は特に多い名前のようだ。左側面には造立年月日が刻まれている。

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隣 庚申塔 天和3(1683)唐破風笠付角柱型。ここに並ぶ三基の庚申塔はそれぞれタイプが違っていて面白い。

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日月雲の下、中央を二重に彫り窪めた中、梵字「ア」の下に「奉待庚申供養所願成就攸」両脇に造立年月日。下部両脇には滅罪、生善と刻まれていた。

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その下には素朴な三猿。江戸時代前期によくある形で、青面金剛等の主尊を欠き三猿のみを彫る、「三猿庚申塔」というべきだろうか。さらに武州植野村とあり、三猿の下に、関根氏をはじめ十名ほどの名前が刻まれている。植野村=上野村、どちらの表記もあるようだ。

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続いて角柱型の庚申塔 享和3(1803)江戸時代後期らしい角柱型の文字塔。塔の正面に大きく「庚申塔」台の正面には三猿が彫られていた。

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塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡上野村と刻まれている。

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三猿が彫られた台の両側面、彫りは薄く読みにくいが、いずれも十数人の名前が刻まれていた。

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最後は庚申塔 貞享2(1685)唐破風笠付角柱型。ここでは唯一の青面金剛像塔。

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やはり中央を彫り窪めた中に合掌型三眼六臂の青面金剛と邪鬼、三猿を彫る。青面金剛は後ろの腕が直角に曲がり、星型の武器?と法輪を持つが、下の手によく見られる弓・矢は見当たらない。邪鬼はかなりラフな造形で、三猿と比べても見劣りがする。二鶏も見当たらず、江戸時代中期以降の標準型が成立する前のものということで、自由な構図が興味深い。右枠部「奉造立供養施主武州植野村」左枠部に造立年月日。

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両側面には蓮の花が彫られ、その下の部分にそれぞれ四名の名前が刻まれていた。

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入口右側、手前の小堂の中に地蔵菩薩立像 寛文5(1665)丸彫りの延命地蔵。錫杖、宝珠ともに健在だが顔のあたりの風化具合は年輪を感じさせる。

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台の正面に「奉造立施主」とあり、その右に七名、左に六名の名前、さらに左の端に造立年月日が刻まれていた。

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奥の小堂の中 六地蔵菩薩立像 文政2(1819)像台ともに美しく揃っている。時代から考えると美しすぎるか?

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六基の全ての台に施主 上野村中とあり、一番左の台に造立年月日が刻まれていた。

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本堂のほうに進むと右側の一角に石塔が並んでいた。卵塔をはじめ歴代住職の墓石がほとんどで、正面に五輪塔を浮き彫りにした石塔なども見られる。

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一番左 光明真言供養塔 寛政7(1795)塔の正面上部 蓮座の上に梵字「アーンク」中央に「光明真言一百萬遍」右脇に唱満行者、左脇に峯雲法師。

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塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡上野村と刻まれていた。    

宝生院埋め墓 岩槻区上野3-5

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宝生院からさらに南に400mほど進むと道路の右手に墓地があった。永福寺同様、宝生院も両墓制の風習を残しているようだ。やはり個人の供養のための墓石などは無い。写真左に大きな石塔が、右隅に小堂が立っているのが見える。

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同じ埋め墓でもこちらはきれいに整備されていてそれほど荒れた雰囲気は無い。墓地の中央に立つ大きな石塔に向かう敷石?の道の入口に「宝生院歴史的風土保存区域(両墓制)埋め墓」と書かれた標識が立っていた。

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六地蔵菩薩塔 正徳5(1715)唐破風笠付角柱型。正面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。下部両脇に施主敬白とあり、足下の部分に十人ほどの名前が刻まれている。

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塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉造立地蔵大菩薩六躯為二世安樂也」と刻まれていた。

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墓地右の小堂の中に祀られているのは馬頭観音塔のようだ。

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馬頭観音坐像 安永3(1774)塔の上部に馬頭観音坐像を浮き彫り。その下には造立年月日、施主上野村中、願主として関根氏の名前が刻まれている。

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馬頭を頭上にいただき、馬口印を結ぶ三面六臂忿怒相の馬頭観音。顔の一部と腕のあたりに朱の跡が残っていた。

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さらに一番奥の塀の前に真新しい六地蔵が並び、その隣には小堂が立っている。

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小堂の中 馬頭観音塔 大正3(1914)比較的大きな石塔の正面に「馬頭觀世音」

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 塔の右側面に造立年月日。続いて大字上野改進青年會建之と刻まれていた。

 

永福寺南路傍 岩槻区大字上野961南

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永福寺から宝生院へ向かう途中左手の三差路の角に小堂が立っていた。

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猿田彦大神塔 明治20(1887)塔の正面に「猿田彦大神」

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小堂の側面はアクリル板が貼ってあり、周囲の写り込みが激しくてクリアな写真は撮れなかったが、左側面に志よふぶ 三里半 志の寿 二里、右側面に いわつき 十八丁 おをみや 三里と刻まれている。「志よふぶ」は菖蒲町、地図を見てみると「志の寿」は白岡の北のほうに「篠津」という地名があり多分ここではないだろうか。

宝生院南路傍 岩槻区上野3-10

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宝生院の200mほど南、道路右側の工場の前の電信柱の脇に小堂が立っていた。

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薬師如来塔 明和7(1770)かなり風化が進んでいるが、塔の正面 梵字「ベイ」の下「薬師如来」右脇に造立年月日。左脇に個人名が刻まれている。

県道65号線岩槻工業団地入口交差点角 岩槻区大字上野364

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東岩槻駅の北を通る広い道と県道65号線が交差する「岩槻工業団地入口」交差点の北東の歩道の脇に石塔が立っていた。塔の正面 阿弥陀三尊を梵字で表し、その下に「石橋供養塔」

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塔の右側面に造立年月日。左側面 発願 関根善右衛門 座珍、その脇に上野村中 近郷在町助力と刻まれている。

慈恩寺橋北路傍 岩槻区上野1-1

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県道65号線が通る元荒川の慈恩寺橋。北西の端のたもとに小堂が立っていた。

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小堂の中 猿田彦大神塔 昭和3(1928)塔の正面に大きく「猿田彦大神」

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堂の中のため塔の側面の下のほうはうまく撮れない。塔の左側面 南 岩槻町ニ至ル約二000米 凡ソ半里 西 蓮田ニ至ル約四000米 凡ソ一里、右側面 北 幸手町ニ至ル約一五000米 凡ソ四里 東 大戸ニ至ル約四000米 凡ソ一里。背面には御大典記念とあり、造立年月日が刻まれている。昭和天皇ご即位を記念して建てられたものらしい。

慈恩寺橋南路傍 岩槻区大字上野2

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慈恩寺橋の南、道路の東側にある大きなお屋敷の角のところ、板塀の前に石塔が立っていた。写真左に写っている信号機のあたりが元荒川の慈恩寺橋。

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馬頭観音塔 明治23(1890)塔の正面 梵字「カン」の下「馬頭觀世音」右側面に造立年月日。左側面には上野村とあり関根金次郎建之と刻まれている。