桜区田島

如意輪観音堂(田島観音) 桜区田島3-28[地図]


志木街道の田島火の見下交差点から県道79号を南へ向かい、武蔵野線を越えて200mほど進むと、道路左側に田島観音の入口がある。参道奥に見えるのが如意輪観音堂。入口左脇に小堂がたっていた。


小堂の中 庚申塔 文化12(1815)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。飲料水や造花など、この日は多くのお供え物に囲まれていた。


怒髪・三眼・ドングリまなこの青面金剛。ショケラは足を折り曲げて合掌している。


足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は醜悪な顔で振り向く。その下に直立する三猿。膝を伸ばした立ち姿はまるで人間のようで、まったく猿らしくない。江戸時代も後期になると自由な構図の様々な三猿が現れるが、その中でもこのような直立する三猿というのはかなり珍しいものだ。

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塔の右側面中央に造立年月日。右脇に南 わらび、左脇に西 はやせ。

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左側面には北 与野道。その下に當所 講中。左下に世話人ひとりの名前が刻まれていた。やはり江戸時代後期の石塔、道標になっている。


観音堂の左奥に鐘楼があり、その前に六地蔵の小堂が立っていた。左脇の小堂の中には弘法大師坐像が祀られている。


六地蔵菩薩塔 天明3(1783)舟形光背にそれぞれ地蔵菩薩立像を浮き彫り。六基のうち三基には銘が無く、残り三基に戒名などが刻まれている。


右から3番目の光背右脇に造立年月日。左脇に念佛講中 田嶋村と刻まれていた。

 


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六地蔵の北東奥、歴代住職の墓石が集められていた。一際大きな像塔が見える。



筆子塔 文政2(1819)四角い台の上、角柱型の石塔に地蔵菩薩坐像。角柱型の石塔の正面「法印良運靈」台の正面に「筆子中」と刻まれていた。筆子というのは江戸時代に寺子屋で学んだ子供たちのことで、恩師が亡くなった際にその供養のために弟子たちが協力して造立した墓石ということになる。

 

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如意輪観音のように片足立した坐像。丸顔でおだやかな表情は個人をモデルとしたものだろうか。



観音堂の右側、個人の墓所の中に講中によって造立された石塔が前後に二基並んでいた。前の角柱型の石塔は大乗妙典供養塔 享保9(1724)石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典六十六部日本廻國供養」上部両脇に天下泰平・國土安穏。右下に武刕足立郡與野領田嶋村。左下に造立年月日。下部両脇に願主一名の名前。塔の左側面、一番上に田嶌村、四ッ屋村とあり、その下にやや小さな字で三段に渡って西堀村から内谷村、宮根村までの19の村、与野、浦和、蕨の3つの町、合わせて22の町村名が刻まれている。


右側面には。さらに一切施主現當二世爲安穏 乃至法界平等利益と刻まれていた。


後の石塔、唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典六十六部日本廻國供養」上部両脇に天下泰平・國土安穏。右下に造立年月日。左下に美濃國安八郡善光村 願主とあり一名の名前が刻まれている、塔の左側面中央に「中供養」右脇に武刕足立郡與野領四ッ屋村 願主二名。さらに田嶋村とあり二名の名前。


塔の右側面 一切施主爲現當二親二世安穏 乃至法界平等利益。下部には施主とあり、田嶋村、四ッ屋村、沼影村、曲本村、別所村、内谷村、美女木村、下笹目村、鹿手袋村。こちらは比較的近い9つの村の名前が刻まれていた。

 

田島氷川神社 桜区田島4-12[地図]


志木街道の田島火の見下交差点の信号機のところが田島氷川神社の入口になっている。志木街道から北へ入ってすぐ、一の鳥居が立ち、長い参道の途中に朱塗りの二の鳥居が立っていた。


二の鳥居の少し手前 参道両脇に 幟立石 安政6(1859)左右とも細長い直方体の石柱二枚が平行に並べて建てられている。


4枚の正面はいずれも無銘。右の二枚の外側、右側面(東向きの面)に「伊勢代二」と刻まれていた。江戸時代後期、お伊勢参りが盛んになって各地に伊勢参詣のための「伊勢講」が組織されたという。ときどき「伊勢太太講」とか「太々講」などという銘を見かけるが、「伊勢代二」は初見。太太講の当て字だろうか?右外側の石柱の北向きの面に「天下泰平 國土安穏」と刻まれている。


右内側の石柱の西向きの面に「同行九拾人」その下に武州足立郡田嶋村 講元と刻まれていた。


左内側の石柱の東向きの面に造立年月日。北向きの面に「五穀豊穣 萬民快樂」住宅の塀との隙間が狭く写真を撮ることはできなかったが、西向きの面にも「伊勢代二」と刻まれている。



参道を進むと三の鳥居が見えてくる。手前には堀があって朱塗りの橋が架けられていた。


境内に入ってすぐ、右手の手水舎の近くに二基の石塔が立っている。


手前 敷石供養塔 嘉永5(1852)角柱型の石塔の正面に三段に合計24人の名前。右側面に「奉敷石伊勢講中」


左側面には三段に合わせて18人の名前。裏面に造立年月日。左脇に世話人 同行中。続いて石工名が刻まれていた。伊勢講42人によって造立された敷石供養塔ということになるが、講員名を両側面にわけて記し、正面に「奉敷石伊勢講中」というのが普通だと思う。そういう意味ではユニークな石塔である。


後に阿夫利大神塔 弘化2(1845)大きな角柱型の石塔の正面に大きな字で「阿夫利大神」塔の右側面に五穀成就 村内安全。


左側面に造立年月日。裏面はなぜか銘をこすって傷つけた跡があって銘が読みにくい、上のほうは「石尊大権現」と思われる。


手水舎 文化11(1814)表の面に「奉納」その右下に伊勢大々講とあり講元二名の名が刻まれていた。裏面右側に造立年月日。側面に講中と思われる名が多く見られる。

 

薬王院 桜区田島5-15[地図]


武蔵野線西浦和駅から北口ロータリーのほうに出て線路沿いの道を東へ進み、150mほど先を左折すると薬王院の本堂が見えてくる。本堂左手前に小堂がたっていた。


小堂の中 六地蔵菩薩塔。舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。白カビは少なく風化の様子もほとんど見られない。像も蓮台・敷茄子までよくそろっていて、いかにも六地蔵という感じがする。光背には戒名以外に銘は見当たらなかった。


下の細長い台の右のほうにかすかに文字らしきものが見える。「講中」かとも思うが確定できない。台にも紀年銘はなく、残念ながら造立年などはわからなかった。


小堂の左脇から墓地に入ると、右側に歴代住職の墓石が並んでいる。その右端、六地蔵の小堂のすぐ裏に小型の石塔が立っていた。


百万遍供養塔 文政12(1829)角柱型の石塔の正面 梵字「キリーク」の下に「百万遍供養・」塔の下部は土に埋もれている。塔の右側面に造立年月日。


左側面に念佛講中 田嶋村。下部、右に志世人、左に世話人とあり、その下に名前が刻まれているようだが、塔が土に埋もれているためにその名前の一部だけが見えている。


歴代住職の墓石の中でも異様に大きな自然石の石塔 寛保元年(1741)石塔部分は自然石そのままで像も銘も見当たらない。台の正面に中興 法流開山とあり、その間に法印賢海。台の左側面に造立年月日が刻まれていた。


続く四基。右から寛文の紀年銘がある卵塔、慶安2(1649)慶安4(1651)の二基の宝篋印塔、貞享元年(1684)の五輪塔。江戸時代初期の墓石が並んでいる。


六地蔵の裏、大きな木の近くに隅飾式の立派な宝篋印塔が立っていた。元禄16(1703)と享保6(1721)の命日を持つ二つの戒名が刻まれていて、個人の家の墓石らしい。近くに「墓誌」がたち、どうやらこの一角はこちらの旧家の墓所になっているようだ。十数基の墓石が東向きに並んでいる。


左のほうは比較的大きな石塔がそろう。中央の地蔵菩薩塔をのぞく墓石は寛永12(1635)から延宝4(1676)の紀年銘が確認できる、いずれもいたって古いものだった。


中央の地蔵菩薩立像 承応3(1654)きれいな形の舟形光背に長い柄の錫杖を持つ地蔵菩薩像を浮き彫り。宝珠もしっかり残っていて白カビも少なく美しい状態を保っている。


右のほうの四基は像塔がそろっている。左から延宝3(1675)の阿弥陀如来立像、貞享2(1685)の聖観音菩薩立像、元禄5(1692)の阿弥陀如来立像、寛文9(1669)の阿弥陀如来立像。こちらの四基は左の地蔵菩薩塔と較べると白カビも多く風化が進んでいた。

 

覚了坊 桜区田島4-19-1[地図]


志木街道の田島交差点から浦和方面に400mほど、道路左側に覚了坊の入口、正面に地蔵堂が立っている。墓地は地蔵堂の裏と、志木街道を隔てた向かいにわかれていた。


お堂の右脇に小堂が立ち四基の石塔が、地蔵堂に向き合うように五基の石塔が並んでいる。


北向きに並ぶ五基の石塔。右端 庚申塔 文化14(1817)角柱型の石塔の正面、梵字「ウン」の下に大きな字で「庚申塔」


塔の右側面に造立年月日。その下に右 浦和 与野 道。


左側面 左 ひきまたみち。やはり道標になっている。下部には世話人二名の名前が刻まれていた。


その隣 日天子供養塔 寛文5(1665)宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「ア」の下に「奉待念日天子諸願成就諸衆」日天子とはもともとは太陽神で、仏教に取り入れられて、十二天の一人として崇拝されたものらしい。


両脇に造立年月日。下部に願主二名の名前が刻まれている。


五基の中央に卵塔を挟み、左から二番目は地蔵菩薩立像。尊顔は整い風化も少ないがどこにも銘が無く詳細は分からない。


左端 法界万霊塔 文政2(1819)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、中央に「法界萬霊」両脇に延命地蔵菩薩経の偈文が刻まれていた。


塔の右側面 発癌 見沼領附嶋産 白宝□念大徳。住職だろうか。
 

左側面は銘が立て込んでいる。右から文政元年の紀年銘。その横に戒名があって、さらにその横に冨山氏。左半分は上に施入とあり、「菩提中」その下に世話人とあり三名の名前。左上に「干時」とあり文政2年の紀年銘。冨山氏と菩提中、二つの紀年銘。よくわからない。

さて、この「法界萬霊塔」だが、その形状をみても単独で造立されたものとは考えにくい。正面に延命地蔵菩薩経の偈文もあり、上に地蔵菩薩像が乗っていたのではないだろうか?



試しに隣の地蔵菩薩立像を乗せてみた。うまくサイズを合わせられなかったが、現場で採寸してみたら横幅がほぼ同じだった。石の色もほぼ同じで、もしかしたら。。。。

 


ブロックの小堂の中には四基の石塔が並んでいた。同じように四角い台の上の角柱型の石塔の上に蓮台、その上に丸彫りの立像というう構成。いずれも輪光背を負う。蓮台の上の像を見比べると左端と右から2番目が少し小さく色もほぼ同じ、右端と右から3番目が大きさも像容も似通っている。


右端 地蔵菩薩立像 寛延元年(1741)錫杖、宝珠とも損傷なく、像は丸みをおびていた。角柱型の石塔と像の色がちょっと違うように見える。


近づいて見ると像全体に縦に筋が何本も入っていて、これは今まで見たことがなく珍しい。


石塔の正面中央 梵字「カ」の下に「六道能化地蔵大菩薩」上部両脇に天下和順・國土安全、下部両脇に造立年月日。


左側面中央に「念佛講光明真言五百万遍志施主」右脇に田嶋村 講中、左脇に菩提中。右側面は隙間が狭く銘は一部しか見えないが、やはり「光明真言・・・・」とあり、こちらの地蔵菩薩塔は光明真言供養塔とすべきかもしれない。


その隣 二十三夜塔 宝暦12(1762)像と蓮台の色が違っていている。


左手に蓮華を持ち右手は与願印の聖観音菩薩立像。像はかなり新しく本来のものではないようだ。蓮台の穴がしっくりいっていない。


塔の正面に「二十三夜」その両脇に造立年月日。右側面に菩提中と刻まれていた。


3番目 馬頭観音塔?宝暦11(1761)頭部が大きくずんぐりした印象を受ける。


胸の前で馬頭観音独特の馬口印を結ぶ。頭上は馬頭かどうかはっきりしない。円形の頭光背の形が右端の地蔵菩薩塔とよく似ていて、よく見るとこちらの像も全体に縦に筋が入っていた。紀年銘をみると20年の隔たりがあるが二つの石像はまったく無関係とは思えない。どんないきさつがあるのだろう?


石塔の正面に戒名と俗名が刻まれていた。となるとこれは墓石ということになる。右上にある巳年三月十四日が命日だろう。墓石に馬頭観音というのも今まで見た記憶がない。馬口印を結ぶ=馬頭観音としたのだがもしかしたら違うのだろうか?塔の右側面に刻まれた紀年銘は二月吉日となっていてこちらが本塔の造立年月日だろう。


下の四角い台の正面には歌が刻まれていた。


左端 地蔵菩薩立像 宝暦6(1756)像はほっそりとしてやや小さく、石の色が明らかに違う。この地蔵菩薩像も再建されたものだろう。


石塔の正面 梵字「ア」の下に二つの戒名。やはり墓石である。右側面にある紀年銘は命日だろう。こちらも四角い台の正面に歌が刻まれていた。

この小堂の中の四基、光明真言供養塔から月待塔、馬頭観音の墓石、地蔵菩薩の墓石とバラエティに富み、あえて言えば玉石混交、どういった経緯でここに一緒に並ぶことになったのか興味深い。


入口の右側、東南のブロック塀の前に、無縁仏が集められていた。


大型の板碑型の墓石の二つ奥 大乗妙典供養塔 享保11(1726)隅丸角柱型の石塔の正面 梵字「ア」の下に「奉讀誦大乗妙典一千部成就處」左右両脇に天長地久 鎮護国家 百穀豊登 人民快樂。さらに嘆息 尊海。こちらの讀誦供養塔は酒井さんの「郷土の石佛」にも、旧浦和市教育委員会発行の「石の文化財」にも載っていない。もちろん私もその存在を最近まで知らなかったのだが、酒井さんからお預かりした「石仏ノート」38冊のうちの第20巻の中にこの石塔の記事を見つけた。酒井さんも「石仏ノート」の中で『永年、覚了坊に通い続けているが、今回思わぬ区画で重要塔発見』と書かれている。


裏面にも銘が刻まれていた。中央に「光明真言三十六万遍□□菩提」右脇に造立年月日。右下に願主とあり、左脇に信刕佐久郡・・・・尊海。表裏合わせて考えると、この石塔は大乗妙典および光明真言の讀誦供養塔ということになるだろう。


志木街道の南にも覚了坊の墓地があった。こちらには堂宇はない。


墓地の一番奥、個人の墓所の中に古い宝篋印塔をはじめ多くの石仏が並んでいた。


宝篋印塔の右隣 光明真言供養塔 享保6(1721)前の列の墓石の間からなんとか銘が確認できる。駒型の石塔の正面を彫りくぼめて、中央に梵字「ア」の下「奉念誦光明真言五百万遍浄性海義禅那」右脇に「奉念誦光明真言四十万遍□□□」やはり下部は前の墓石の陰になって見えなかった。


左下に貞厳禅尼、その左脇に小さく造立年月日が刻まれている。左の枠の部分に施主名が刻まれていた。

志木街道覚了坊西路傍 桜区田島4-19-20[地図]


志木街道の田島交差点から浦和方面へ300mほど、覚了坊のすぐ西、アパートの駐車場の端に石塔が立っていた。


馬頭観音塔 文久3(1863)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。


塔の左側面に個人名が刻まれている。その右脇に見える「土合村」は明治22年に田島、西堀、道場、栄和、山窪など11の村が合併して成立した新しい村名で、文久2年にはまだ存在しなかったはず。この馬頭観音塔は再建されたものと思われる。

田島交差点北路傍 桜区田島4-40[地図]


志木街道の田島交差点のすぐ北から東に入る道は志木街道の旧道らしい。その入り口近く、左側のブロック塀の前に石塔が立っていた。


荒堀角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。


下部に銘が刻まれている。読めるのは、右に・・施主棋、左に古田嶋村。真ん中の部分がわかりにくく、南の下に北え(恵の草書体)横に地名と思われるがこれは読めない。その左に西 東え、その横は江戸だろうか?東西南北どうなっているのかよくわからない。いずれにしても道標になっているようだ。

新開橋南交差点西路傍 桜区田島9-18[地図]


新開通りの新開橋すぐ南の信号交差点から西へ進むと、20mほど先、道路北側に鳥居があり、その奥に石塔が立っていた。目の前の道は志木街道の旧道になる。


水天宮塔 嘉永元年(1848)片岩に大きく「水天宮」右脇に天下泰平國土安全。左脇に村内渡船場水難除と刻まれていた。荒川の渡しの安全を祈願したものらしい。


下の四角い台の正面 右端に武刕足立郡與野領田嶋村 十二講とあり、十二人の名前。左上に世話人と刻まれている。


台の右側面 右端に寄進とあり、その横に小さく本村若者中 世話人。続いて一金壹分、一金二朱と寄進額と十人ほどの名前が刻まれていた。


左側面の右端には入間郡 坂ノ下村 馬方中。坂之下は所沢の東の地域でずいぶん遠いようにも思うが、荒川を渡るときにはこのあたりの渡し場を利用したのかもしれない。運送を生業にする人たちにとって渡し場の安全は決して他人事ではなかったということだろう。



塔の裏面、右のほうに造立年月日。左のほうに「荒川改修工事のため大正10年にこの場所に移転した」と刻まれていた。

 

弁天社 桜区田島9-18[地図]


志木街道から新開通りに入って北へ向かうと、鴻沼川に架かる新開橋の手前、道路左側に石鳥居があり、その奥に小堂が立っていた。


小堂の中 左 庚申塔 宝暦5(1755)大きな四角い台の上、唐破風笠付き角柱型の石塔の正面、上部両脇に日月雲。その下を彫りくぼめた中に 青面金剛立像 合掌型六臂。


蛇冠・三眼・釣り目の青面金剛。体形は比較的ほっそりとスマート。持物は柄の長い矛・法輪・弓・矢。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元には全身型のずんぐりしたふんどし姿の邪鬼が寝ている。


三猿は台の正面のほうに彫られていた。両脇の見猿と言わ猿が内を向いて座る構図。中央の聞か猿は両手がふさがっているが、他の二猿は片手使いで、空いたほうの手に蓮の花?を持っている。


塔の右側面に造立年月日。上部両脇に天下泰平。下部に11名の名前が刻まれていた。


左側面「奉造立青面金剛尊」奥に武刕足立郡與野領田嶋村。


下部に13名の名前が刻まれている。両側面合わせると24名。比較的大きな講と言えそうだ。


中央 弁財天塔 正徳3(1713)四角い台の上に反花付きの台を重ね、角柱型の石塔の上に弁財天坐像。総高2mをゆうに超す本格的な石仏。弁財天というと富士見市あたりで多く見かけた記憶があるが、さいたま市ではそれほどでもなく、ここまでは南浦和の「小池弁才天」くらい、このあと出会うことがあるだろうか?


堂内は光量が足りないためきれいな写真が撮れなかった。頭上には鳥居冠、背後に炎付きの二重の輪光背を持った八臂の弁財天坐像。前の手は剣と宝珠。後ろの左手三本は上から矛・法輪・弓、右手は上から独鈷杵・先が鉤型に曲がった刃物・矢を持っている。


角柱型の石塔の正面には梵字15文字が刻まれていた。


塔の左側面、中央に「天下泰平□繁昌」□は何て読むのだろう?右脇に造立年月日。左脇に是より西 ふぢ道。下部に4名の名前が刻まれている。


右側面 武州足立郡 與野領田嶋村。下部に施主とあり、こちらも4名の名前が刻まれていた。


右 風化が進みあちらこちら剥落、原型もとどめず銘も見当たらない小型の駒型の石塔。他のふたつの石塔と同じように御幣が立てられ、水が供えられていた。