早宮・練馬・桜台の石仏

本寿院 練馬区早宮2-26-11


環八通りを石神井方面に向かう。平和台駅前交差点から二つ目の信号交差点を左折するとすぐ左手に本寿院の入り口がある。朝早く行ってみるといつも鉄の門扉が閉まっているが、脇の通用口?が開いていた。正面に本堂の大きな瓦屋根が見える。


本堂の手前を右に折れて進むと墓地の入り口左手、雨除けの下に石塔が立っていた。


馬頭観音菩薩坐像 文政6(1823)舟形光背に僧形の馬頭人身坐像を厚く浮き彫り。他に例を見ない非常にユニークな馬頭観音。


光背部分の左側面に施主として三河屋安次郎とある。右側面には駄善孩子と刻み、その両脇に造立年月日。孩子というのは「こども」のことでかわいがっていた仔馬の供養のための造塔と思われる。


やはり墓地の入口付近、僧形馬頭観音の向かい側に丸彫りの聖観音菩薩立像が立っていた。右手に未敷蓮華を持ち左手は与願印。紀年銘は見当たらず造立年などは不明。


像はボリュームがあり、特に下半身に膨らみを持たせているのは江戸時代初期の特徴で、硬い石質も考えあわせると寛文から元禄あたりのものだろうか?

早宮郵便局北墓地 練馬区早宮3-9


環八通りの平和台駅前交差点の次の信号交差点を左折して道なりに進んでゆくと、やがて石神井川を越えて桜台方面に出る。途中の信号交差点の南に練馬早宮郵便局があり、そのすぐ手前、右側に道路に向いて五基の石仏が並んでいた。奥のほうにもまばらに石塔や台石が見える。墓地の跡地なのだろう。荒れた風景ではあるが石仏には花などが供えられていた。


左端 地蔵菩薩立像 享保14(1729)舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。台の正面中央「奉造立地蔵尊」両脇に造立年月日。


台の右側面 武州豊嶋郡、左側面に下練馬之内早渕村と刻まれていた。「早宮」は旧地名 早渕と宮ケ谷戸から作られた地名らしい。


2番目 丸彫りの地蔵菩薩立像。銘は見当たらず詳細は不明。錫杖の先、宝珠ともに欠く。頭部は破損したのだろう、ただの丸い石が載せられていた。


3番目 丸彫りの地蔵菩薩立像 明和4(1767)やや太めの体形で堂々としている。蓮台正面に梵字「カ」台の正面中央に「南無地蔵大菩薩」両脇に造立年月日。


台の右側面は無銘。左側面には念佛講中 願主庄三良と刻まれていた。


4番目 地蔵菩薩立像 安永8(1779)舟形光背上部に梵字「カ」その下にどこか人間臭い顔をした延命地蔵を浮き彫り。台の正面中央「奉造立地蔵大菩薩」両脇に造立年月日。


台の右側面に安永7年の命日と戒名。左側面には念佛講中とあり続いて下練馬村早渕、願主秋岸とこちらは僧名が刻まれている。


右端 庚申塔 寛文5(1665)唐破風笠付きの角柱型の石塔。この時代には板碑型三猿庚申塔をよく見かけるが、こちらは角柱型の三猿庚申塔。


中央上部に梵字「ウン」その下は文字が薄くなっているが「奉供養庚申待衆?」右脇に武州豊島郡下練馬早渕村 左脇に造立年月日。下部をさらに彫りくぼめた中に素朴な三猿が彫られている。


塔の両側面下部にそれぞれ7、8人の名前が刻まれていた。14、5人の講中のようだ。

 

開進小東門付近路傍 練馬区早宮2-1-31


環八通りの平和台駅前交差点からまっすぐに氷川台駅に向かう道は、当時北は戸田から南は雑司ヶ谷、高田を結ぶ「埼玉道」という重要な通りだったようだ。そのちょうど中間あたり、右側に開進第1小学校がある。ここには生徒達が安全に渡れるように歩道橋があるが、学校側に降りきった正面、黒いフェンスの前に石塔が立っていた。


庚申塔 慶応2(1866)駒型の石塔の正面 日月雲。中央部は完全に削り取られていて、その被害は下の三猿の頭部にまで及んでいる。その削れた様子から、文字というよりも青面金剛像だった可能性が高い。これも明治時代の「廃仏毀釈」によるものなのだろうか?


台の正面、砂埃のこびりついた中、右に願主は個人名、中央に 村内安全、左には當所世話人供と刻まれていた。


塔の右側面 右 上板ばし 下板ば志 道。


左側面には 左 ねりま宿 戸田渡し 道。どこか街道の分岐点に立っていたのかもしれない。裏面に造立年月日。続いて來光院澄□□・・・と見える。

早宮小入口バス停付近路傍 練馬区早宮4-19


開進第1小学校のすぐ南の開進一小前交差点、ここを左折すると錦の金乗院のあたりを通って北町方面へ、右折すると旧宮ケ谷戸を通って豊島園の東にでて、その先は豊玉方面に向かうことになる。北町と豊玉を結ぶこの道は「下練馬道」と呼ばれた古道らしいが今は「早宮中央通り」と名付けられている。さてこの早宮中央通りを豊島園方面に進むと500mほど先に信号交差点があり、ここを左に曲がると前回見た練馬早宮郵便局北の墓地の前に出る。交差点を直進してさらに500mほど先、早宮小入口バス停の付近の右側路傍に小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 享保20(1735)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。小堂の中は上部が薄暗く、全体が見えるような明るさに調整すると、今度は像の脇の銘も三猿の下の銘も読みにくくなっていしまう。


頭に蛇をいただき、つり目三眼、口をへの字に結んだ青面金剛。右脇に「奉造立庚申供養爲二世安樂」左脇に造立年月日。


足の両脇に二鶏を線刻。邪鬼は頭を踏まれて力なく横たわる。正面向きの比較的大きな三猿。その下に武州豊嶋郡 下練馬村宮ケ谷戸 講中拾四人と刻まれていた。

豊島園北東三差路 練馬区早宮3-42


さらに早宮中央通りを200mほど進むと、斜め左に細い枝道がある三差路のところに出る。中央通りと枝道の間の三角形の空き地にコンクリートの小堂が立っていた。


小堂の中に二基の石仏。左 庚申塔 宝永5(1708)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


こちらも頭に蛇をいただき三眼、悪相の青面金剛。彫りは比較的きれいに残っている。像の右脇「奉造立庚申供養二世安樂祈所 欽言」その横に武州豊嶋郡下練馬村之内、左脇に造立年月日。左下に宮谷戸西村 結衆十二人。


足元には正面向き 頭と腕だけの邪鬼。その両脇に立派な二鶏。下部に三猿が彫られていた。


右 地蔵菩薩立像 享保3(1718)丸彫りのお地蔵さまは堂々とした立ち姿。堂内に張られた解説の紙を読むと、このお地蔵様「夜泣き地蔵尊」は子供の夜泣きにご利益があるということで、遠くから多くの人たちが集まるようになったという。


錫杖宝珠ともに健在だが、像の表面は風化の為に摩耗がみられ、近づいてみても顔立ちがはっきりしない。


台の正面中央「奉造立地蔵尊二世安樂所」両脇に造立年月日。


台の右側面に武州豊嶋郡下練馬村。左側面には講中二十七名とあり、願主は個人名が刻まれていた。

 

阿弥陀寺 練馬区練馬1-44-10


豊島園の東の地域はお寺や神社が多いところだ。白山神社入口交差点から東へ坂道を下りてゆくと交差点角の左手に白山神社があり、ここを右折するとすぐ左手に阿弥陀寺の入口がある。阿弥陀寺は区内唯一の時宗の寺院で、康暦2(1380)創建と伝えられる歴史のあるお寺らしい。お寺の入口の前の道はとても狭く、本堂も塀との距離が十分に取れない。入口から入りすぐ右に曲がって本堂の階段の前まで進むと、右側の塀の前、狭いところにしっかりとした石のお堂が立っていた。


お堂の中 地蔵菩薩立像 享保14(1729)丸彫りで豊かな体型のお地蔵様。練馬区教育委員会の解説板によると、日を限って祈願すると願いが叶うことから「ひぎり地蔵」と呼ばれ、眼病治療、子育ての信仰を集めたものという。


丸顔に切れ長の目筋が美しい。像全体に大きな損傷がなく、錫杖、宝珠を持つ指の先、衲衣の細かい襞まで彫りは丁寧だ。


台の正面 中央に「念佛講中 拾七人」両脇に造立年月日。右に武州豊嶋郡下練馬村。下部に数人の名前が刻まれているようだ。

阿弥陀寺墓地 練馬区練馬2-10


阿弥陀寺の境内は狭く、墓地はお寺と離れていて、近くの南町小学校の西にあった。坂の多い立地の為、門を入ると墓地は三段に分かれていて正面奥の階段から下のほうの墓地に行くようになっている。


階段手前右側には無縁仏が集められていた。その左脇に一基ポツンと立っているのは六十六部供養塔。塔の正面に「日本廻國六十六部供養塔」脇に観阿浄玄大徳とあるが紀年銘は確認できず詳細は不明。


階段を降りた正面に馬頭観音菩薩立像 宝永4(1707)舟形光背に三面六臂の馬頭観音像を浮き彫り。


頭上の馬頭もはっきり。三面ともに見事な忿怒相。光背右下 武州豊嶋郡練馬村。左下に造立年月日。


蓮台の下の部分が大きく破損しているが、残った銘から考えると10名ほどの名前が刻まれていたのではないだろうか。


馬頭観音のところで左に折れて少し行くと左側の個人の墓地の中に唐破風笠付きの立派な墓塔が立っていた。塔の正面上部、分厚い瑞雲の上に円形の頭光背を持った来迎印の阿弥陀如来立像を浮き彫り。下部には二つの戒名が刻まれている。その両脇に享保14(1729)の紀年銘。造立年月日か命日かは定かではない。


塔の右側面に観音菩薩像を浮き彫り。右半身は塔の中に埋まる形で、左手には宝珠?を持つ。


左側面には勢至菩薩。こちらは左半身が塔の中に埋まり、合掌する姿で彫られている。観音、勢至両菩薩を脇侍に阿弥陀三尊の個人の墓塔はあまり見たことがない。貴重なものと言えるだろう。


さらにその先、個人の墓地に挟まれて名号塔 嘉永2(1849)が立っていた。台の正面には「念佛講中」と刻まれている。


塔の正面 二種類の独特の書体で、競うように「南無阿弥陀佛」左の書体は徳本上人のもの。右の書体もどこかで見たような気がするが思い出せない。塔の右側面には造立年月日が刻まれていた。

 

九品院 練馬区練馬4-25-1


豊島園の東に田島山十一ヶ寺と呼ばれる浄土宗の寺院群がある。浅草にあった誓願寺の塔頭寺院が関東大震災のあと移転してきたもので、通りの左右に11のお寺が軒を連ねていた。左の一番奥には「蕎麦喰地蔵尊」で有名な九品院がある。


門を入ってすぐ右、塀の前に丸彫りの合掌姿の地蔵菩薩立像。銘はなく詳細はわからない。


右の階段を登ると正面に「蕎麦喰地蔵尊」が祀られていた。右には舟形光背型の八体のお地蔵さまが並んでいる。


堂々たる体形の丸彫りの地蔵菩薩立像。いわゆる「焼け仏」のために像全体が溶けていて、銘は確認できず、顔もご覧のようにはっきりしない。寺伝によると文禄元年(1593)小田原の誓願寺の上人が地中から掘り出してその後江戸誓願寺に移したものと言う。明暦の大火で焼けて浅草に移され、その地の蕎麦屋に夜な夜な僧形に身を変えて蕎麦を食べにやってきたという話から「蕎麦喰地蔵」と呼ばれ庶民の信仰を集めたものらしい。大正12年の関東大震災で再び焼かれ、ここ練馬の地に移ったということだ。

成田山不動尊 練馬区4-1


練馬白山神社の道路を隔てた向かいに成田山不動尊があった。入口から参道左側に並ぶ二基の石塔が見える。この写真はつい先日撮ったものだが、前掛けが平成30年元旦となっていて左が赤、右が白になっていた。


左 馬頭観音立像 安永4(1776)三眼慈悲相。頭上の馬頭はくっきりと彫られている。この写真は去年の5月に撮ったもので、平成29年の前掛けの色は左が白、右が赤と左右が逆になっていた。


資料では四臂となっていたが六臂のように見える。第1手は馬口印を結び、第2手は右手に鈴、左手に数珠?第3手はおなかの前で両手を組んで宝珠のようなものを持っている。光背右脇「如是畜生發菩提心」左上に造立年月日。左下に願主 惣兵衛。


右 聖観音菩薩立像 天明8(1788)舟形光背に厳しい顔をした観音像を浮き彫り。


左手に未敷蓮華、右手は与願印。光背右脇「水子供養觀世音菩薩」天明年間というと数年にわたる大飢饉もあり、また天明3年の浅間山の噴火は関東に死者約2万人という大きな被害をもたらしたということで、当時の練馬の人々も生きにくい悲惨な生活を余儀なくされていたのだろうか。「水子供養」という言葉が胸を打つ。光背左に造立年月日。願主 惣兵衛は隣の馬頭観音の願主と同一人物だろう。


お堂の中 不動明王坐像。火焔の光背の前にどっしりとした不動明王。紀年銘などは確認できず詳細は不明である。

弁天通り交差点角 練馬区練馬1-31


西武池袋線の練馬駅の東、千川通りの練馬消防署前交差点から線路をくぐり北へ向かう一方通行の弁天通り、線路から300mほど先の十字路の角に石塔が祀られていた。この交差点から西に向かうと南町小学校の東の広い道路に出る。


竹垣に守られるように庚申塔 宝暦3(1753)唐破風笠付きの角柱型の石塔。笠は一度落ちたものか、若干ずれて載っている。正面を彫りくぼめた中、最上部に梵字「ウン」を刻み、日月雲の下に「奉建立大青面金剛尊諸願成就祈処」その下に青面金剛立像を浮き彫りにしているが、こういう空間の使い方は珍しい。日月雲の下にまずは青面金剛像を彫り、その脇に銘を刻むというのが普通だろう。


正面下部 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛は目をむいて不満そうな顔。腰に縋りつくショケラは西洋人形のような雰囲気でユニーク。お尻を上げ足元にひざまずく邪鬼の顔が青面金剛とよく似ている。その下の部分に三猿が彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州豊嶋郡下練馬村 講中拾四人。さらにその下に願主は個人名が刻まれている。

 

高稲荷公園 練馬区桜台6-40


有楽町線の氷川台駅から石神井川右岸を西へ600mほど進むと左手に高稲荷公園がある。川に沿って整備された遊歩道の近くに庚申塔が立っていた。


庚申塔 元禄2(1689)鋭い角度の駒型の石塔の正面 舟形光背の形に浅く彫りくぼめて、梵字「ウン」の下に 青面金剛立像 合掌型六臂。日天、月天が見当たらない。第2手、第3手は肩のあたりから伸びている。像の右脇、白カビの中に「奉造立庚申待成就所」左脇に造立年月日。


青面金剛は石の台の上に立ち、足元には邪鬼も三猿も二鶏もいない。このあたりは元禄期らしい。その下には10人ほどの名前が刻まれていた。

桜台保育園東路傍 練馬区桜台5-39


高稲荷公園のすぐ西の新大橋を右に折れると早宮郵便局方面、左へ折れると弁天通りを抜けて西武池袋線の練馬駅に着く。この道は狭いながらも都道442号線で、車の通行量も多い。新大橋から南へ進み坂道を登り切ったあたりで、斜めに交差する道がある。ここを斜め左に入ってゆくと左手に広徳寺という大きな禅寺があり、その脇を通って南に進むと新桜台方面に向かう。この道も狭い道だが江戸時代から「埼玉道」と「ふじ大山道」をつなぐ大切な旧道だったらしい。この道筋には個人のものも含めると4か所ほどで古い石塔が見られる。広徳寺の入口を過ぎて300mほど先の交差点の住宅の塀の中に二基の石塔が並んでいた。


左 庚申塔 安永9(1780)風化のためか縁が欠けている駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。全体に彫りは厚く立体的で像も銘もくっきりと明快。日月雲は大きく鮮明。青面金剛の足にすがるショケラの顔がつぶれている。像の右下「奉待庚申供養塔」下の台の正面に庚申講中 拾八人、願主 道玄と刻まれていた。


足元に邪鬼。今までに見たことがない風貌で、右手に頭を載せ左手で片足を抱えている。その下の三猿は指の先まで細かく彫られているが、どこか生々しく不気味。さらにその下の二鶏はかなり大きく構図もユニークで丁寧な仕事がされている。


塔の右側面に造立年月日。左側面に江戸小日向水道町の石工名が刻まれていた。庚申塔に石工名が刻まれることは意外に少なく、これはこの石工にとって自信作なのだろう。


右 日本廻国供養塔 享和2(1802)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめ、阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典日本廻國供養塔」上部両脇に天下和順 日月清明。右下に万人講、左下に「為二世安樂」


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州豊嶋郡下練馬村早淵。続いて横山行者覺全、廻国僧の名前だろう。

開進第二小学校東路傍 練馬区桜台5-2


さらに南へ進むと下り坂になり、やがて道は左に大きく曲がってゆく。その突き当りの塀の前に四基の石塔が並んでいた。ここから右の細い道に入るとその先に開進第二小学校がある。


左端 庚申塔 寛政9(1797)駒型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。石塔全体に痛みが激しく、日月の一部と青面金剛の顔が剥げ落ちていた。


下部も全体に摩耗が見られ、ショケラも不鮮明。青面金剛の足元は邪鬼ではなくて磐座だろう。その下にはかわいらしい三猿が彫られている。


塔の右側面に造立年月日。さらにその脇に右り荒井梅松院道。中野区の新井薬師への道標。左側面には左り雑司ヶ谷道。続いて世話人は個人名、講中九人と刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像 元禄3(1690)きれいな舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。顔はrつぶされ、錫杖の先と宝珠を欠く。光背右脇「奉造立地蔵一宇為逆修也」左脇に造立年月日。その下に敬白と刻まれている。


続いて庚申塔 延享2(1745)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の衣装の様子、腕や足の質感など力強く表現されている。残念ながらこれも顔の一部がつぶされていた。


足の両脇に小さな二鶏。右の雄鶏が内を向き、左の雌鶏が外を向くという珍しい構図。先日越谷市東町の東養寺墓地の庚申塔で同じような二鶏に出会って驚いたばかりだ(2018年5月26日の記事)邪鬼は頭と背中を踏まれ横たわり、その下には三猿が彫られていた。


塔の右側面に造立年。その下に下練馬前湿化味村、願主は個人名。左側面には講中拾壹人と刻まれている。


右端 馬頭観音塔 明治23(1890)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。左側面 願主 個人名が刻まれていた。

桜台駅北路傍 練馬区桜台1-12


西武池袋線桜台駅の北口近くにある大きなマンションの北東の鬼門の位置、生け垣の前に石づくりの小堂が立っていた。


馬頭観音菩薩立像。舟形光背に三面六臂の馬頭観音像を浮き彫り。風化が著しく進み、像の表面は摩耗している。


三面とも顔が崩れていて忿怒相なのか慈悲相なのかわからない。頭上の馬頭も溶け始めていて馬口印を結ぶ手の先も破損していた。


光背右下に武州豊嶋郡下練馬村、左下に紀年銘だが、読めるのは十一月□日だけで肝心の造立年の部分は文字として読み取れない。足の下、蓮を彫った前出の部分、右脇には武田源兵衛、願主だろうか?中央に講中、左脇に三十七人と刻まれていた。