大宮区 大成町

八幡自治会館脇 大宮区大成町1-203[地図]


国道17号線桜木町交差点から250mほど北を左折して西へ進むと八幡神社がある。広い敷地の北の屋は八幡自治会館の脇、交差点の角に小堂が立っていた。


庚申塔 安永9(1780)大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面に「庚申塔」下部両脇に世話人だろうか。二名の名前が刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。その下に講中とあり十名の名前。


左側面に武州足立郡 下大成邑。こちらもその下に講中とあり十名の名前が刻まれていた。正面の二名も合わせると講中22名だろうか。


台の正面に 従是 西 與野三十丁 川越三里 道。左側面に 是ヨリ 北 原市二里 上尾二里 道。


右側面は左から 是よ 東 大ミや六丁 岩つき二里 みち。三面合わせて三方向六地名の刻まれた道標になっていた。

普門院 大宮区大成町2-402[地図]


桜木町交差点から500mほど北の交差点で左折、200mほど先、道路右側に普門院の入口がある。右手前に大きな寺標が立ち、山門までまっすぐに続く参道の両脇に石塔が立っていた。


右 戒壇石 寛延2(1749)正面に「不許葷酒入山門」曹洞宗寺院でよく見られる。左 標石 嘉永7(1854)正面に「大成山道」その下に従是五丁。大成山=普門院で五丁は約500m、南は桜木町、西は大平公園あたりの辻に立っていたものだろうか。参道両脇は駐車場になっていた。東の駐車場は隣接する幼稚園のための駐車場だろうか。西の広い駐車場の南に無縁塚、西には開山堂があり、多くの石仏が並んでいるが、こちらは次回にまとめて見ることにする。


参道を進むと山門左脇の塀の前の小堂の中に六地蔵塔 平成7(1995)が祀られていた。両脇に六地蔵について丁寧な解説板が立っている。


美しく整備された境内に入りすぐ左を見ると、こちらも塀の前に六地蔵塔が並んでいた。それほど古くないようだが一、部顔に損傷があり、表の六地蔵塔の先代にあたるものだろうか?


右手の塀の前には多くの石塔が北向きに並んでいる。左端の小さな石塔は弁財天塔 大正12(1923)だった。


右端 不動明王塔 造立年不明。銘は見当たらないが、上部が大きくせり出したダイナミックな炎の光背に浮き彫りされた不動明王は、独尊の立像でありその石質も硬そうで、江戸時代初期のものではないだろうか?


彫りは細かく力強い。忿怒相の不動明王は右手に剣、左手に羂索を持つが、剣の先は欠け柄の部分だけが残っていた。他には大きな欠損も風化の様子もなく美しい状態を保っている。


その隣 庚申搭 延宝4(1676)江戸時代初期に見られる板碑型三猿庚申塔。三猿の下の部分に12名の名前が刻まれていた。


窓の中、上部に造立年月日。その下に比較的大きな三猿を浮き彫り。肩を寄せ合い正面向きに並んで座る素朴なその姿は味わい深いものがある。見猿の右横の枠部に「大なり」と刻まれていた。


続いて 庚申塔 宝暦6(1756)卍の彫られた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。像は風化のために解け始めている。青面金剛は二匹の邪鬼の頭を踏んでいた。


溶けかかった二匹の邪鬼の下の部分。右側の見猿?がわずかに残り、たぶんこれが三猿だろう。ほとんど原型をとどめてはいないが・・・


塔の左側面に造立年月日。右側面は剥落部分が多い。それでも残ったところに 左 □□□□、う□□・・・道とあって、道標が刻まれていたらしい。文字ははっきり見えるがくずし字(草書体?)のためうまく読めないのは情けない。どなたかご教授ください。


その隣 庚申塔 元禄8(1695)美しい形の舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


塔の下部に二鶏、邪鬼、三猿がそろっているが、邪鬼がやけに小さい。ここまで貧弱な邪鬼というのも珍しい。三猿の下の部分、ひらがなと漢字の名前が混在、男女合わせて23名の名前が刻まれていた。


左続いて 不動明王坐像 明和5(1767)角柱型の石塔の上に乗っているが、上下の石の色が明らかに違っている。


火焔の光背の前、剣と羂索を手に磐座に坐す不動明王。彫りは細部まで丁寧。像全体に白カビも欠損もない。


角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「日本廻國六十六部供養塔」両脇に天下泰平・國土安穏。塔の左側面に武州足立郡大成村、願主 個人名。右側面に造立年月日。石塔としては廻国納経供養塔 明和5(1768)ということになるが、塔の上の不動明王像との関連は定かではない。

 


普門院参道左の広い駐車場の南、フェンスの中、塀沿いに多くの石塔が集められていた。入口近くに無縁塚、続いて地蔵菩薩塔が並び、さらにその裏にも石塔が立っている。フェンス近くに「無縁さまにお参りをしましょう・・・」と記された看板があって、これらの石仏を大切にお祀りする普門院の心意気が感じられた。この広い駐車場も山門内と同じように掃除が行き届き、普門院全体が本当に気持ちの良い空間である。

入口近くに無縁塚。頂上の丸彫りの阿弥陀如来坐像の下に多くの無縁仏が整然と積まれていた。正面には延宝から元禄まで江戸時代初期の如意輪観音塔の墓石が揃っていて壮観である。


無縁塚の台の右手前端に一石六地蔵菩薩塔 元治元年(1864)角柱型の石塔の三面に書く二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。三面合わせて六地蔵菩薩塔となる。


裏面に造立年月日。施主は個人名が刻まれていた。


続いてフェンス近くに五基の丸彫りの地蔵菩薩塔が並ぶ。右の四基はサイズ、像の様子ともにまちまちで銘も確認できないが、いずれも墓石と思われる。


左のやや大きな地蔵菩薩塔は庚申塔だった。江戸時代初期にしばしばみられる地蔵庚申塔 正徳4(1714)


尊顔はふくよか。左手の宝珠は健在だが右手の錫杖の柄の下の部分が欠けていた。


角柱型の石塔の正面中央「奉供養庚申」両脇に造立年月日。右下に大成村、左下に願主。塔の左側面に四名の名前。右側面にも四名の名前が刻まれている。


お地蔵様の背中にも銘が刻まれていた。「大日本國関東道武蔵國足立郡 木村奉造立地蔵大菩薩 在庚申□福□智・・・・・・・ 樂者也   造立主 道全」後ろのほうはちょっと自信がない。



地蔵菩薩塔の後ろには三基の石塔が並んでいた。


無縁塚近くに観音霊場順礼供養塔 宝暦7(1757)背の高い隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に大きく「南無觀世音菩薩」塔の右側面に「西國秩父坂東 奉順禮諸願成就之攸」左側面に造立年月日が刻まれている。


後列中央 庚申塔 延宝3(1675)江戸時代初期らしい他に類を見ない個性的な庚申塔。舟形光背型石塔の正面に「奉造立石塔庚申講成就所」両脇に造立年月日。その下に七名の名前。さらに願主 敬白。


下部に大きな二鶏を半浮き彫り。その下に手をついて向かいあう二猿を浮き彫りされていた。


右 三界万霊塔 文化13(1816)角柱型の石塔の上に如意輪観音坐像が乗っている。


塔の上の六臂の如意輪観音菩薩坐像。こちらもかなりユニーク。右足を立てた半跏像で頭を右に傾けて、右手はひじを膝の上にのせて手のひらを頬のあたりに添える思惟相というのが如意輪観音の特徴だが、この如意輪観音像では右手は頬ではなく顎下に当てられていて、これはとても珍しい。さらに今まで見てきた六臂の如意輪観音像は、数珠を持つ手は右足のかげに垂らしている例が多かったが、ここでは肩の上のほうに掲げ持つ形になっていてこれもユニーク。残りの二臂は腹前に如意宝珠と未敷蓮華を持っていた。


塔の正面中央に「三界萬霊等」両脇に天下泰平・國家安全。右側面には願主を含め六名の名前が刻まれている。江戸牛込、同下谷、同湯嶋などとあるが、大成村出身の人たちなのだろう。願主と他の二名のは最後に「妻」とあり、この村から江戸に嫁いでいった人たちなのかもしれない。


左側面に造立年月日。続いて中央に「念佛講中」その下に下大成邑とあり世話人三名の名前が刻まれていて、そのうち二名は女性だった。


駐車場の西に大きな風神雷神像を前に「開山堂」正面の階段両脇に地蔵菩薩塔が立っている。


左 回国供養塔 明和5(1768)角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。白カビが多い。


角柱型の石塔の正面中央「奉納日本廻國供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。


塔の右側面に造立年月日。左側面には厚い白カビの中、武州足立郡大成村 願主 自安と刻まれていた。


右 石橋供養塔 寛保2(1742)主尊は丸彫りの地蔵菩薩立像。石橋供養の像塔は地蔵菩薩塔が多いようだ。


両足に二童子。子育て地蔵のようにすがりつく姿ではなく正面向きに立っていた。二童子のいわれについてはわからない。厚い蓮台の下、敷茄子に腹ばいになった幼児?と正体不明の果実のようなものが浮き彫りされていた。


角柱型の石塔は下部が土の下に浮埋もれている。正面を彫りくぼめた中に「造立石橋 供養尊像 右六箇所」


左側面に造立年月日。右側面には施主 辻村とあり、山口杢右衛門と刻まれていた。酒井さんに教えていただいたのだが、西区指扇領辻の有名な「辻の庚申塔」と同じ施主である。しかも造立年も同じだった。辻村の石橋供養の地蔵塔がなぜここに立っているのかは謎だが、こちらの施主が信心深い裕福な篤志家であることは間違いない。