木曽呂の阿弥陀堂 川口市木曽呂809付近
東浦和駅前から赤山街道を東へ、木曽呂交差点の100mほど先に阿弥陀堂の
入口がある。入口からお堂に向かう参道の両側に多くの石仏が並んでいた。
右側の手前から見てゆこう。庚申塔
寛延3(1750)全体にカビと苔がついて
細部は読み取りにくい。日月雲? 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。
鶏は不明。下部に猫のようにうずくまる邪鬼と三猿を彫る。
塔の右側面は粗いまま。左側面は表面を平らにして文字が刻まれている。
上部、願主とあり下のほうに多くの名前のようだがこれも判読できない。
続く二体の石塔は個人の供養塔。こちら延宝2(1674)の聖観音立像。
こちらは造立年不明。正面を凝った形に彫り窪めた中に如意輪観音坐像。
続いて普門品供養塔
享和2(1802)左側面に「足立六阿彌陀壹番」とある。
下の台の正面には大きく「講中二十人」と彫られていた。
さらに二基の墓石が並び、その先には出羽三山百番供養塔
寛政9(1797)
百番供養塔は百観音巡拝を記念し供養したものらしい。塔の両側面には
それぞれ十数名の名前が刻まれている。
その隣 庚申塔
延宝8(1680)日月雲。中央に「奉納庚申供養結衆二世」?
その下には大きめな三猿が浮彫りされていた。
隣 庚申塔
天保12(1841)中央に「庚申塔」両側面合わせて12名の名前。
小堂の中に六地蔵菩薩立像。それぞれの像にもその台にも銘は見えないが
左手前に立っている石に宝暦六年(1756)と刻まれている。
六地蔵の小堂の奥に猿田彦大神塔 造立年不明
が立っていた。
正面を彫り窪めた中に多くの地名が刻まれている。中央「猿田彦大神」とあり
その下に 北
大門江二十八丁 岩つき江三里。右脇には 西 □○さきふしへ壱丁
八町かし江五丁
浦和江二リ 大宮江三リ 秋葉へ六里。左脇には 東 新町江八丁
草加江二里
こしがや江二里 千住江四里と続く。さらに塔の左側面 日本はしへ
六里。右側面にも南 前川観世音へ三十丁
はとがやへ三十丁と刻まれていた。
道標としてこれほど充実したものは初めて見た。□○さきふしは距離から言って
木曽呂の富士塚だろう。八町河岸は芝川にかかる八丁橋付近にあった八丁河岸。
あとの地名は現在の地図でも確認できる。何人もの旅の人々がこの石塔の前で
足を止めて一息ついたことだろう。
参道の左側、入口近くに立つ石塔
元禄6(1693)中央に「千日惣廻向」とあるが
初めて見た。千日供養塔というべきか?右脇には
鐘番燈明之施主現當二世。
これも新鮮だが、残念ながら正しい意味はわからない。
続いて七基の石塔が並んでいた。そのうち四基は個人の供養塔だ。
左から4番目
馬頭観音立像 寛延2(1749)慈悲相合掌型二臂。右脇に年号。
左脇には木曽呂村。足の下の部分に施主7名の名前が刻まれている。
隣 観世音塔
弘化3(1846)中央上部が風化のため読めないが馬頭観世音か
聖観世音ではないだろうか。
一番右
馬頭観音立像 天明元年(1781)右脇に大きく「奉納馬頭観世音」
お堂の近くに地蔵菩薩立像
延宝8(1680)宝珠が欠け頭部には補修跡がある。
台の正面中央に「庚申供養」と彫られていた。江戸時代初期によく見る
地蔵菩薩を主尊とする庚申塔。脇には7名の名前が見える。
薬王寺 川口市木曽呂934
県道332号線木曽呂交差点から南へ5分ほど歩いた右側に薬王寺がある。
山門手前の左手、鬱蒼とした木立の中に石塔が立ち並んでいた。
左から 庚申塔 元禄8(1695)相輪付の大きな唐破風笠が目を引く。
日月雲に続き中央を卵型に彫り窪めた中に青面金剛立像。珍しく二臂で、右手に
斧を持ち、左手・・・肩に回して持っているのは羂索?だろうか?
足元の様子もユニークだ。小さな邪鬼の下、手足の形がダイヤ型の三猿を大きめに
彫り、さらに下の台の正面に大きな二鶏を浮き彫りにしている。
塔の右側面「奉造立庚申供養為二世安樂也」左側面に年号。両側面下部に
それぞれ4名の名前が刻まれていた。
隣 庚申塔 天明2(1782)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持六臂。唐破風笠付。
彫りは大変に細かく、合掌したショケラの姿まで精巧に表現されていた。
下部に表情豊かな邪鬼、二鶏、三猿が揃う。二鶏の羽、猿の目の周りのシワなど、
これも非常に丁寧に彫られている。
右側面に「奉建立庚申供養」続いて木曽呂村と刻まれていた。左側面には年号。
横のアングルから見ると、青面金剛は牙をむいてかなり恐ろしい形相をしている。
その奥 出羽三山百番供養塔 天保12(1841)出羽三山と西国、坂東、秩父百ヶ所の
観音霊場巡礼の記念の供養塔だろう。車も電車もない江戸時代、どうやって
これだけの巡礼を成し遂げたのだろうか。
隣 湯殿山供養塔 宝暦11(1761)中央、梵字の下に「奉納湯殿山諸願成就」と彫る。
出羽三山は古くから霊山とされてきたが、特に湯殿山は五穀豊饒に霊験があり、
農民の崇拝が最も篤かったらしい。右脇に年号。左下には木曽呂村とあった。
塔の両側面、上部に講中。その下にそれぞれ約15名、合わせて30名あまりの名が
刻まれていた。ひとつの村から30人もの男衆がいっぺんにいなくなったら生活が
成り立たないだろう。体力に自信がある数人に託して巡礼が行われたのだろうか?
さらにその奥 観音経供養塔 元文2(1737)正面「奉読誦観音経四万巻供養之所」
こちらもその両側面に合わせて30名ほどの名前が刻まれていた。当時の農民大衆の
生活の中にこれらの信仰はごく自然に根付いていたのだろうか。
隣 如意輪観音坐像 寛政6(1794)二臂。どっしりとした印象の坐像。光背上部には
願主とあり、多分女性なのだろう、ひらがなで30名ほどの名前が、続いて漢字で
数名の名前が刻まれていた。
右側面には年号を彫り、その下に木曽呂村と刻まれている。
一番奥に阿弥陀如来立像 寛文11(1672)ここでは最も古い石仏になる。光背右に
「奉造立念佛供養為二世成就處」左に年号。足元に数名の名前が刻まれていた。
山門の右側には小堂があり、その脇に石塔が立っているのが見える。
小堂の中 地蔵菩薩立像 全身にびっしり紙の札を貼られていた。足元に願主名。
同三十三人と刻まれている。また下の台の正面にも十数人の名前が見られる。
台の側面は空間に余裕が無く造立年など詳細は確認できなかった。
右の石塔 上部に彫られているのは多分地蔵菩薩坐像だと思われる。その下には
文字の跡が見られるがほぼ剥落していてその正体はわからない。
左右両側面には漢字とひらがなで、それぞれ十数人の名前が刻まれている。
裏に回ると年号が刻まれていた。寛政11(1799)ほぼ同時代のものでこのように
保存存状態に差が出てしまうのはなぜなのだろう。ちょっと不思議な気がする。
木曽呂観音堂前路傍 川口市木曽呂269
木曽呂の阿弥陀堂の西、木曽呂交差点から南に向かう。途中右手に薬王寺が
あるが、ここは石仏の数が多いので別に取り扱うことにしてさらに進む。
木曽呂南交差点の少し手前を右に入った先に観音堂があった。墓地の外、
ブロック塀のくぼみの中に庚申塔が立っている。
庚申塔 寛文10(1670)寛文期らしく板碑型で上部には日月の下に三猿を彫る。
中央に「奉造立庚申供養」両脇に年号。その下に数名の名前が刻まれている。
さらにその下には大きめの二鶏が彫られていた。
真正面の住宅の玄関脇にも庚申塔が立っていた。
庚申塔 安永3(1774)中央に「庚申供養塔」左側面に 願主 個人名を刻む。
木曽呂南交差点北東T字路 川口市木曽呂335付近
木曽呂南交差点から北東に進む。200mほど先を左に入ると、すぐ先のT字路
雨除けの下に庚申塔 宝暦13(1763)正面 日月雲「青面金剛塔」が立っている。
右側面に年号。左側面に「木曽呂村」両側面の下部にはそれぞれ十名程の
名前が刻まれていた。
神戸町会会館裏墓地 川口市神戸303
木曽呂南交差点から南に歩くとやがて外環道に突き当たる。この交差点で左折して
外環道の脇の道を200mほど進み左の細い道に入ると右手に神戸町会会館がある。
会館の手前の坂道を右に折れて登って行くと突き当りには墓地が広がっていた。
墓地に入って左の区域のブロック塀の前に古い石塔が並んでいる。多くは個人の
供養塔だが、その中に四基の庚申塔。ただ、ここに並ぶ石塔は白カビがひどく
像の様子もはっきりしないものが多い。
一番奥に庚申塔
享保15(1730)日月雲 青面金剛立像 六臂。左手に鈴、右手に
ショケラを持つ。「川口型」の青面金剛。ドクロの首輪をしている。足元に
うずくまる邪鬼。三猿を正三角形の位置に配し、その脇に二鶏を彫る。塔の
右側面「奉造立庚申待各成就之所」その下に神戸村とあり数名の名前を刻む。
左側面には年号。こちらの下部にも5名の名前が刻まれていた。
隣 庚申塔
寛政7(1795)日月雲 青面金剛立像 六臂。こちらは左手にショケラ、
右手に鈴を持つ。保存状態は悪く、表面は溶けかかっていた。足元に邪鬼。
あとははっきりしない。塔の右側面に年号を刻む。
列の中程に庚申塔
正徳3(1713)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。こちらも
表面の風化が進んでいる。足元に邪鬼・三猿。足の脇に二鶏だろうか?
塔の右側面に年号。左側面
カビで見にくいが下足立之郡神戸村と刻まれている。
列の一番右、これまでの石塔が西向きなのに対しこちらは南向きに立っていた。
庚申塔
天和4(1684)最上部にポツンと一猿が彫られている。その下には梵字、
続いて「奉造立庚申講供養成就所」その脇に年号を刻む。
墓地の右のエリアの入口付近に庚申塔
嘉永5(1852)白カビの中、「庚申塔」
右側面に年号。左側面
下部に神戸村と刻まれていた。
大徳寺 川口市道合1221
グリーンセンターから西に向かい神根浄水場交差点を右折すると、その先
外環道の手前あたりに大徳寺がある。山門は南にあり、長い参道が続く。
参道の左側が墓地になっているが、その入口に小堂が立っていた。
小堂の中には六地蔵と大日如来坐像が並んでいる。
大日如来像塔の台の正面に「奉再建六地蔵為二世安樂」と彫られ、
脇には年号、天保11(1840)とある。
参道の中頃、左側に丸彫の六地蔵と三界萬霊塔があった。
その奥の一角に石塔が並んでいるのが見える。
中の二基が庚申塔。あとの三基は寛政、元文期の石塔だが個人の供養塔だった。
中央 庚申塔
元禄12(1699)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。左脇に年号。
右脇「奉造立庚申講諸願二世安樂祈所」下部の左右に願主と刻まれていた。
足元両脇に比較的大きな二鶏。さらに邪鬼・三猿が彫られている。三猿の下
中央に道合村とあり両脇に12名の名前が刻まれていた。
右端 庚申塔
安永5(1776)日月雲「庚申供養塔」下部に三猿を彫る。
塔の右側面
講中とあり、その下に願主12名の名前が刻まれている。
左側面は隣の石塔との隙間が狭くて写真は撮れないが「是れより
こしかや道」
脇に年号が刻まれていた。
妙蔵寺 川口市安行領根岸1809
大徳寺から南へ500mほど歩き、川沿いの細い道を右に入ると妙蔵寺の山門の
前に出る。急な階段を上りきった左側に立派な堂が立っていた。
堂の中には9基の石仏が三段に並んでいた。その中に庚申塔が4基ある。
左下 庚申塔
延宝4(1676)上部に日雲。彫りが薄くはっきりしないが、中央右に
年号が見える。下部には江戸時代初期らしく三猿のみを彫る。
左上 庚申塔
明和8(1771)日月雲 青面金剛立像 六臂。右手に鈴、左手にショケラ。
扁平な頭頂部だが、二組の腕は直角型ではない。額に目があり三眼を持つ。
中央、鈴、合掌するショケラ。彫りは結構細かい。
前の石仏の隙間から塔の下部を覗き込むとかつらをかぶったような邪鬼と
三猿が見える。ここでは二鶏は確認できなかった。
塔の右側面「奉建立庚申諸願成就」左側面
年号の脇に武州足立郡根岸村と刻む。
右中 庚申塔
享保18(1733)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。二組の腕は直角型。
右脇に年号。その下に根岸村。左脇には施主十六人と刻まれている。
脇から塔の下部をうかがってみると、邪鬼、二鶏、三猿が揃って彫られていた。
右上 庚申塔
正徳4(1714)庚申塔 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。表面は粗い。
左脇に年号が刻まれる。右脇には「奉納庚申二世安樂所」
隙間から覗き込むと邪鬼に睨み返された。下に三猿。やはり二鶏は確認できない。
他に地蔵菩薩立像が三つ。馬頭観音像が二つ。個人の供養塔だったり詳細不明の
ものもあるが
中央上段 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)ここでは一番大型の石仏。
下の蓮台に年号が刻まれていた。中央上部は欠けているようだが続きからみて
「奉造立地蔵尊念佛講供養諸願成就之所」あたりだろうか。
右下
こちら詳細は確認できなかったが三面六臂の馬頭観音立像は印象に残った。
根岸小学校西路傍 川口市安行領根岸70
芝川にかかる網代橋の東、信号機のある交差点から南へ向かう広い道のすぐ東、
並行して走る一方通行の細い道を歩くと左手の住宅の中の空き地に祠と小堂が
立っていた。この道をさらに歩くと根岸小学校付近に出る。
地蔵菩薩立像
正徳5(1715)光背上部に梵字「カ」を彫る。光背左 年号の下に
武州足立郡根岸村願主敬白と刻まれていた。光背右「奉造立地蔵菩薩庚申供養
各願成就祈所」足元の台の正面には何人か施主名が刻まれているようだ。
観音院 川口市柳崎4-11
東浦和駅から県道235号線を使って南に500m程、観音院の本堂の左側、坂道を
墓地の方に向かうとその道の脇に板碑と六地蔵菩薩立像が並んでいた。
その先には石仏が集められている。左端には庚申塔があった。
庚申塔
宝永5(1708)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが目立つ。
光背左に年号。右脇に「奉造立庚申為二世安樂也」と刻まれている。
下部に邪鬼と三猿。三猿の配置が不揃いでちょっと変わっている。
川口ふたば幼稚園向かい住宅内 川口市柳崎1-10
県道34号線伊刈交差点のすぐ北、幼稚園の向かいのお宅の門の脇、塀沿いの
植え込みの中に庚申塔が立っていた。
庚申塔 宝永2(1705)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背全体を白カビで
覆われていて、文字は見えるが判読が難しい。右上に年号。続いて木崎領か?
さらにその下には3名の名前が刻まれているようだ。
足元の邪鬼もはっきりしない。三猿・二鶏は確認できなかった。
在家町会会館 川口市在家町5
東浦和駅前通りを真っ直ぐに南下してT字路にぶつかる。さらに芝川沿いに
南に歩くと在家町に至る。在家橋の手前には公園があり、道路を隔てた西に
在家町会会館。その北東の角、雨除けの下に庚申塔が祀られていた。
庚申塔
寛保4(1744)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。帽子をかぶったような
頭部。独特の四本の腕の表現。ここでも見ることができた。光背右に年号。
その下に在家村、光背左中央に講中二拾五人。在家村講中二拾五人だろう。
右脇下部に篠原、吉田などと見えるが地名だろうか?施主名だろうか?
足元で邪鬼は静かに眠っているかのようだ。その下に三猿。脇に二鶏を彫る。
在家公園 川口市在家町6
会館の向かいの在家公園の南西に庚申塔。金網と鉄の棒に囲まれている。
一枚の写真では収まらないので三枚に分けて撮った。庚申塔
元禄16(1703)
日月雲
青面金剛立像 合掌型六臂。顔が潰されている。光背左に年号。
右には「奉供」
中央部
右に「養」脇に飛んで「庚申講」全体で「奉供養庚申講」となるが、
像の手の部分を飛び越えて刻まれているのが面白い。足の脇には二鶏を彫る。
下部に邪鬼と三猿。邪鬼は「降参」のポーズ?三猿は単純だが可愛い。