北町の石仏

北町観音堂 練馬区北町2-38


東武東上線の東武練馬駅南口から旧川越街道に出たところ、三角形の角地に観音堂があった。入り口から正面奥に観音堂の屋根が見える。それを守るように手前に一対の大きな仁王像が立っていた。


向かって左側の仁王像 天和3(1683)大きな丸彫り立像は力感もあり迫力十分。背中に造立年月日が刻まれていた。


奥のお堂の中、丸彫りの聖観音菩薩坐像 天和2(1682)高さ270センチメートル、練馬区内最大の石仏だという。


左手に未敷蓮華を持ち右手は施無畏印。像の裏は確認できないが武州河越多賀町隔夜浅草光岳智月参所、「奉新造正観音為四恩報謝也」続いて造立年月日が刻まれているらしい。


大きな蓮台の下、中央に卍を彫ったボリューム満点の敷茄子には近隣のたくさんの村の名前が刻まれていた。


観音堂の隣にもう一つお堂があり、中には丸彫りの馬頭観音坐像、これも迫力がある。頭光背を持ち三重の花弁の蓮台、重厚な敷茄子の正面には凝った彫りが施されていた。


三面六臂、三眼忿怒相、馬口印を結ぶ馬頭観音。頭上の馬頭もくっきりと、彫りも細かく優品と言えるだろう。残念ながら紀年銘などはなく詳細は不明だ。


旧川越街道沿いのなまこ壁の前に四基の石塔が並んでいた。


左から馬頭観音塔 明治30(1897)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日を刻む。


その隣 庚申塔 寛延3(1750)笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。右上と下部に剥落が見られる。三猿は二匹の頭部が破損。邪鬼も頭だけが残っている。


塔の右側面に造立年月日。左側面 豊島郡下練馬村上宿 講中四拾人と刻まれていた。



次の石像は難しい。色々調べてみると薬師如来という記述もあり、観音菩薩という見解もある。両手で支え持つ丸いものを薬壺として薬師如来というのだろうが、その衣装は観音菩薩にふさわしく、頭上にあるのが阿弥陀如来の化仏のようにも見え、そうなると観音菩薩とすべきだろう。もう一つ、光背上部に刻まれた梵字は勢至菩薩を表す「サク」である。勢至菩薩は阿弥陀三尊像で合掌した像を見るが独尊像はめったに見ない。観音菩薩の梵字「サ」と勢至菩薩の梵字「サク」の違いは右の点の有無だけなので、彫り間違いの可能性もある。大きな光背の右上は剥落。左脇に貞享3(1686)の紀年銘が刻まれていた。


右端 庚申塔 正徳4(1714)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の顔は風化のためかはっきりしない。足元のかたまりは邪鬼だろう。その両脇に二鶏。下部には大きくはっきりとした三猿が彫られている。


塔の右側面「奉造立青面金剛二世安樂所」願主は個人名。左側面に造立年月日。さらに武州豊嶋郡下練馬村 施主貳拾七人と刻まれていた。

 

阿弥陀堂 練馬区北町2-18


北町観音堂の前で旧川越街道から南へ向かい、200mほど先の北町2丁目交差点を左折、150mほど進むと左手に阿弥陀堂の入り口があった。参道両脇にたくさんの石仏が並んでいるのが見える。


左側手前に三基の丸彫りの地蔵菩薩立像 宝暦7(1757)像の様子、蓮台、下の台の様子など、三基はよく似ていて統一感がある。



左端 真ん丸なお顔のお地蔵さまは静かな表情で立っている。下の台の正面に造立年月日。左脇に講中と刻まれていた。


右側手前にも三基の地蔵菩薩立像 宝暦7(1757)左右合わせて六地蔵。


六体それぞれに持物が異なり、六地蔵として成立している。


下の台の右側面に造立年月日。正面、左側面も含めて多くの戒名、命日が刻まれている。施主は個人名が刻まれていた。


参道左側、三基の地蔵像の向こうに大小合わせて34基の石仏が並んでいた。寛文10(1670)から安永7(1798)の石仏たち。いずれも舟形光背型の聖観音立像、如意輪観音坐像、地蔵菩薩立像。個人の墓石でもあり、全部を取り上げることはできないが、元禄期以前の古い石仏だけでも見ておきたい。


六地蔵像から4番目 小型の聖観音立像 元禄7(1694)顔は生き生きとしている。


中央付近、比較的大きなサイズの美しい三基の石仏。地蔵菩薩立像 寛文10(1670)端正で上品な顔立ち。彫りも美しい。



その隣 聖観音立像 元禄7(1694)左手に未敷蓮華を持ち左手は与願印。ちょっと伏し目がちに立っている。


続いて聖観音菩薩立像 寛文12(1672)やはり左手に未敷蓮華を持ち、左手は与願印。静かな表情が印象的。光背上部を欠く。


寛文12年の聖観音から4番目、小型の聖観音立像 元禄4(1691)5頭身で下半身が豊かな観音様。かすかに微笑み、温かみが感じられる。



最も奥のエリア、右から4番目 地蔵菩薩立像 延宝4(1676)光背の一部は破損。石質がよいせいか白カビなどは比較的少ない。顔の表情はリアルで彫りも細かく丁寧。
 

右から3番目 如意輪観音坐像 元禄12(1699)カビも多くなってくるが銘は鋭く明快。


右端 如意輪観音坐像 元禄11(1698)さすがに白カビが目立つ。光背も一部剥落がみられるが、さいわい紀年銘はしっかり残っていた。

 


参道の右側、六地蔵の先には全部で17基の舟形光背型の石仏が並んでいた。手前の11基、遠近法で奥が小さく見えているようだが、実際にはほぼ年代順に並んでいて、時代が進むにしたがって石塔のサイズも小さくなっている。ここでも初期のものを中心に見てみよう。


手前から 阿弥陀如来立像 元禄4(1691)光背上部に梵字「キリーク」両手が欠けていて印は確認できないが来迎印と考えられる。


2番目 聖観音菩薩立像 元禄10(1697)光背上部に梵字「サ」


3番目 合掌型の地蔵菩薩立像 宝永4(1707)


4番目 阿弥陀如来立像 延宝年間(1673~1681)


奥には6基の石仏が並んでいた。


手前から胎蔵界大日如来坐像 寛文12(1672)大きな舟形の光背上部に梵字「ア」法界定印を結ぶ。


続いて三基の聖観音菩薩立像。右から享保3(1718)正徳6(1716)元禄17(1704)


その奥に阿弥陀如来坐像 寛文12(1672)風化も少なく美しい状態を保つ。光背上部に刻まれた梵字は金剛界大日如来を表す「バン」だが、坐像は阿弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来像。ボリュームがあり、彫りも丁寧だ。光背右脇に「為善心頓證菩提也」こちらは墓石ではないのかもしれない。


一番奥 梵字「キリーク」の下に阿弥陀如来坐像。光背左上が欠けていて造立年は不明だが、光背の形、像のなど、雰囲気が良く似通っていて、三基の坐像はほぼ同時期のものと考えていいのではないだろうか。。


参道の奥にある阿弥陀堂の西側に十三仏石塔が並んでいた。中央に不動明王坐像、両脇にそれぞれ3体の仏像を浮き彫りした4基の石塔、合わせて十三仏になる。


右から順番に見てゆこう。こちらは観音菩薩、阿弥陀如来、勢至菩薩。小さいながらも蓮台の上に立つ姿は、よくその特徴が出ていてかわいらしい。台の正面には3つの戒名と命日。


その隣、こちらは大日如来、虚空蔵菩薩、阿閦如来。台の正面中央に「三界萬霊」両脇は奉納者だろうか。


中央 不動明王坐像。炎の光背の前、剣と羂索を持って座る不動明王。目を吊り上げてにらむが迫力はなく、どこかおとなしい印象。台の正面に3つの戒名と命日。


台の右側面には「十三佛」と刻まれていた。


続いてこちらは普賢菩薩、釈迦如来、文殊菩薩。台の正面、こちらも3つの戒名と命日。


左端は地蔵菩薩、薬師如来、弥勒菩薩。台にやはり3つの戒名と命日。さて、不動明王はともかく、残りの4基の石塔は像の様子、銘などから一緒に造立されたものだろう。そこに刻まれた命日は享保13(1728)から宝暦11(1761)で、造立年はそれ以降、不動明王の台の正面には宝暦13(1763)の紀年銘があり、これも同時に奉納されたものとすると宝暦14年、15年、または明和年間の造立の可能性が高いように思われる。

 

浅間神社・清性寺 練馬区北町2-41


旧川越街道、北町観音堂から東へ150mほど進むと道路左手に浅間神社があった。石鳥居の左脇に「下練馬の富士塚」とあり、鳥居の後ろはかなり大きな塚になっている。


入口近く、教祖像。富士講の指導者だろう。紀年銘などは見当たらない。


三合目付近 両脇に一対の猿の像。以前、志木市の富士塚でも猿の像を見かけた。山王信仰の影響を受けて「猿」が富士講の神使とされたものらしい。こちらも紀年銘はない。


さらに登ってゆくと同行碑、天狗像などが立ち、山頂の奥宮まで狭い登山道が続いていた。


浅間神社の右の道を入ってゆくと、突き当たりに今は廃寺となった清性寺の墓地がある。同じ敷地の中には白狐稲荷社が立っていた。


墓地の入り口付近 地蔵菩薩坐像 明和2(1755)幾重にも重ねられた基壇、台石の上に頭光背を持つ丸彫りの地蔵菩薩坐像。


頭の後ろの丸い光背は破損補修のあとがあるが、丸彫りにもかかわらず錫杖、宝珠が完全な形で残り、首飾りなど細かい部分も丁寧に仕事がされている。お地蔵様の表情も穏やかで慈愛に満ちていた。


台の正面に「法界萬霊」両脇に造立年月日。両側面にあわせて20ほどの戒名と命日が刻まれている。




墓地の中央付近 七観音塔 昭和15(1940)舟形の石塔の上部に七体の観音菩薩立像を浮き彫り。その下に「子育 七觀世音菩薩」台の正面には講中一同と刻まれていた。

旧川越街道 環八トンネル上歩道 練馬区北町


旧川越街道と環状八号線の交差点、lここでは環状八号線はトンネルで下を走り、側道が旧川越街道と交差することになるが、その歩道部分に小堂があり、中に二基の石塔が並んでいた。


右 不動明王坐像を載せた道標 宝暦3(1753)不動明王は剣と羂索を手に岩座の上に坐す。


角柱型の石塔の正面「従是大山道」多くの人々がこのあたりから川越街道を離れ大山巡りに出かけていったのだろう。両脇に天下泰平 國土安全。その下に願主二名は個人名。塔の右側面に武州豊嶋郡下練馬村 講中拾八人と刻まれている。


塔の左側面に造立年月日。その下に「ふじ山道」さらに田なしへ三里、府中江 五里と刻まれていた。



左 道標。角柱型の石塔の正面「左 東高野山道」紀年銘はない。練馬区高野台三丁目にある長命寺(山号が東高野山)への道しるべとなっている。

旧大山道 北町陸橋付近T字路角 練馬区北町1-11-15


旧川越街道と「大山道」の分岐点から環状八号線の側道を南へ向かい少し進むと側道から斜め左のほうに細い道が分かれてゆく。たぶんこれが本来の「大山道」ではないだろうか。その先のT字路交差点の角に小堂が立っていた。


小堂の中 地蔵菩薩立像 天明4(1784)丸彫りのお地蔵様、顔がはっきりしない。


台の正面 梵字「カ」の下「奉建立地蔵尊」右脇に講中廿人、左脇に願主 個人名。


塔の右側面 武州豊嶋郡 下練馬下宿。左側面中央に「為二世安樂也」両脇に造立年月日が刻まれていた。

川越街道 地下鉄下赤塚駅付近路傍 練馬区北町8-37


地下鉄下赤塚駅の川越街道西側出入口のすぐ南、歩道脇の植え込みの中に石塔が立っている。


庚申塔 明治14(1881)自然石の正面に「庚申塚」右脇 右 川こ江、左脇に 左 ところ沢?裏面に造立年月日。施主は個人名が刻まれていた。