東圓寺 朝霞市岡2-8-92
東圓寺前交差点から山門までの長い参道の途中、右手に庚申塔
延享3(1746)が
立っていた。日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。塔の表面は丸くなり
文字も読みにくい。右脇に年号。左脇に新座郡岡村と刻まれていた。
足の両脇に二鶏。踏み伸ばされた邪鬼の下で、三猿はそろって頭を抱えている。
山門をくぐり境内に入ると正面に道標
大正11(1922)が立っていた。正面中央に
「右
不動尊」左脇に小さく十丁と刻まれている。
本堂右手前
弘法大師坐像 昭和6(1931)台の正面中央に「第一番 東京 弘徳元講」
その上には松光山八十八ヶ所。これは昭和6年から昭和10年にかけて奉納された
「八十八大師像」の第1番にあたるもので東京の講によって造立されたものだ。
第2番以下は境内東にある不動堂へ向かう道の両側に祀られているが、その中の
ほとんどが東京の講や個人によって奉納されている。
境内は広く、庭なども整備され、コンクリート製の近代的な本堂が立っていた。
本堂の向かい、庭の一角に石塔が並んでいる。熊笹が生い茂っていて、石塔の
下部がうまく見えない。
左 庚申塔
享保17(1732)正面 日月雲の下「奉待庚申供養塔」両脇に造立年月日。
下部に三猿がいるかどうか確認できないが、ちょっと気になる。
続いて 庚申塔
文化9(1812)正面「庚申塔」こちらは下部に三猿が彫られていた。
隣 不明塔
風化が進み文字も見当たらず、何の像かはっきりしないが合掌六臂の
立像のようだ。足元は邪鬼か?その下に三猿でもいれば庚申塔だろうが・・・
本堂の西側は広い墓地になる。本堂近く、歴代住職の墓地があり石仏が並ぶ。
一番左の板碑型の石塔
寛永17(1640)江戸時代初期。線刻された蓮台の上に梵字
「アーンク」を彫り、その下に為権大僧都暁永法印
逆修 敬白と刻まれていた。
右隣
大日如来立像 寛文6(1666)丸彫りの豊かな立像。智拳印を結ぶ。
蓮台の正面
大阿闍梨法印権大僧都永雅 為逆修敬白。その下には延宝四年入寂と
刻まれていた。
続いて
文殊菩薩立像 宝永4(1707)面長で体型もスリム。右手に変わった形の剣?
左手に経典を持ち獅子の上に乗っている。
鼻がすわった獅子が凄みをきかせている。たまたまだろうが片目だけ白くなって
隻眼のようにも見える。その彫りは結構細かい。
獅子の左胴体に
宝永四 法印権大僧都永繁 四月十六日入寂と刻まれていた。
山門をくぐり境内に入り、正面の道標に従って右へ歩いてゆくと、竹林の中、
不動堂へと向かう参道が続いていた。あたりは薄暗い。
参道の両側には弘法大師像が並んでいた。一番は本堂の前にあったが、全部で
八十八大師になるという。いずれも昭和6年から昭和10年に奉納されたものだ。
立像あり・・・
坐像あり・・・
祠に収められた坐像などもあり・・・
それぞれ立派な石像で、まるで競うように並んでいた。大師像の間には供養塔や
造立芳名碑が立っている。奉納者を見てみると、「東京 弘徳元講」「溝沼第四區」
「東京江戸川 金剛講」「東京 開運講」「野方町新井薬師前 窪寺 以く 五十三歳」
「東京市淀橋区下落合二丁目 材木店 前田カネ」「東京漆器工業会」などなど・・
地元以外に東京のさまざまな地名が出てきて、見ているだけでも興味が尽きない。
さらに参道を下ってゆくと途中男坂と女坂に分かれる。男坂の途中、傾斜地に
多くの石塔が並んでいた。鎖が張られていて正面には回れない。説明札によると
不動明王をはじめとする諸明王、制吒迦童子などの不動八童子、不動三十六童子。
ひとつひとつ写真に収めることはできなかったが、参道近くの石仏だけでも・・・
男坂を降りきったところに「不動の瀧」がある。「弘法大師御杖掘霊泉」という。
泉の脇の石段の上に不動堂があった。
堂の前に一対の石灯籠 弘化2(1845)が立っている。右の竿部正面「奉納 常夜燈」
裏に武州新座郡廣澤庄岡村と刻む。台には溝沼村、宮戸村とあり50名近くの名前が
刻まれていた。左の石灯籠の竿部裏面に年号。やはり台に50名ほどの名前があり、
右側面に「連經護摩講中」と刻まれていた。
左の石灯籠のす ぐ脇に敷石供養塔 弘化2(1845)正面に大きく「奉納敷石供養」
左側面には願主 引又町中と刻まれている。
塔の裏面に年号。下部に世話人5名の名前。さらに石屋 藤治郎と刻まれていた。
右側面には5段にわたって合計30人ほどの名前が刻まれている。
不動堂の左に5基の石塔が並んでいた。いずれも霊神碑。手前の二基は年代不明。
残りの三基には大正11(1922)の銘が刻まれている。
富善寺 朝霞市田島
境内に入ると左側に墓地の入口がある。その入口近く、石仏が集められていた。
前に二基。後に宝篋印塔を中心に五基の石塔が立っている。
前列右 庚申塔
宝暦10(1760)剣・ショケラ持ち六臂。二鶏は線刻されている。
足元にひしゃげた邪鬼。三猿は右の聞か猿だけが内を向いていた。
塔の左側面に年号。下部に田嶋村講中と刻まれている。
左 弁財天塔
明治15(1882)正面に読みにくいが「辯財天」右側面に年号を刻む。
後列右から
地蔵菩薩坐像 文政6(1823)お地蔵様は両手で宝珠を持っている。
塔の正面
梵字の下に「覺心法順法子霊位」
塔の左側面「西國・四國・秩父・坂東
奉順禮願成就」右脇に新座郡田島村
俗名田中半兵ェと刻まれ、左脇に文政元年とある。この年に順礼を成し遂げ
5年後に亡くなったということだろう。
2番目
聖観音菩薩立像 延享元年(1744)左手に蓮のつぼみを持ち右手は与願印。
下の台の正面「奉造立聖観音菩薩普門品講中」右脇に年号。さらに武州新座郡
當所拾一人、左下に根岸二人。続いて田嶋惣講中と刻まれていた。
中央 宝篋印塔
寛保3(1743)江戸中期には珍しく屋根型の笠を持つ。
塔身四面に金剛界四仏の梵字。基礎部、年号に続き武州新座郡田嶋村と刻む。
隣
地蔵菩薩立像 享保16(1731)静かな眼差しでたたずんでいる。
下の台の正面は細かいところが読みにくい。中央に「奉造立地蔵尊」右脇に年号。
右下に武州新座郡田嶋邑 念佛講中。左下 願主
富善寺元住 □月くらいだろう。
左端に地蔵菩薩立像
延宝元年(1673)左手は与願印だろうか?蓮台の下に通常ある
台座がないが、像自体は結構大きいものだ。
裏に回ると文字が刻まれていた。□譽道禅定門
霊位。両脇に造立年月日。中央の
やや下に帯状に色の違うところがあるのは断裂跡かもしれない。
墓地の奥に進み、本堂の左付近に馬頭観音塔と板碑が並んでいた。馬頭観音塔は
いずれも文字塔。一番手前
弘化4(1847)あとの五基は明治6~明治16年のものだった。