岩槻区飯塚

香林寺跡墓地 岩槻区飯塚1589-48隣


県道48号線の南、細い道の通った住宅街の中に墓地があった。入口右、雨除けの下に二基の庚申塔が並んでいる。


左 庚申塔 元禄3(1690)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。唐破風笠付、笠の正面に卍。青面金剛の後ろ上左手にショケラがぶら下がっていた。


下部に正面向きM字型の邪鬼。その下に三猿。さらに薄く二鶏が彫られ、台の正面には飯塚村、六名の名前が刻まれている。台の両側面にもそれぞれ七名の名前があり、合わせて二十名になる。


塔の右側面、中央に「奉供養」その下は右に「梵天待釋青面金剛尊躰」左に「現世安穏後世佛昊菩提」


左側面、中央に「三庚申」その下は右に「講中家内般昌諸願成就」左には造立年月日が刻まれている。


右 庚申塔 安政4(1857)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」台のほうの三猿は左右の猿が足を投げ出して向かい合って座る形。


塔の右側面「天下泰平國土安全」台の右側面にひらがなで二十近い名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。台の左側面には世話人とあり、二名の名前。さらに埼玉郡飯塚村と刻まれている。


墓地の入口から見て真正面、蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像 享保17(1732)像から下の台まで含めると2m近い。


塔部正面、中央に香林寺、両脇に造立年月日。下の台の正面には十二名、右側面に施主とあり五名、左側面にも四名の名前があり、その最後に念佛講中善女十七人と刻まれていた。名前が刻まれた二十一人の男と合わせると講中四十八人だろうか。

飯塚自治会館南 岩槻区飯塚1295


飯塚神社の近くにある飯塚自治会館の南側の一角、木の下に石塔が集められていた。資料によると旧蜜厳院跡墓地だという。


その左端 大乗妙典供養塔 宝暦2(1752)塔の正面、上部に梵字「バク」その下に「奉連讀大乗妙典二百五十部供養塔」右脇「右者社頭永繁昌村中安全如意祈所」左脇「殊者連讀中現世安□□□善処祈所」さらに天下泰平・五穀成就、國土安穏・萬民豊楽」右下に飯塚村 蜜厳院、左下に柱□立之と刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。その周りに文字が見えるがはっきりと読むことはできなかった。


左側面には當村、釣上村、大戸村などの文字が見られ、多くの名前が刻まれている。

 

法華寺 岩槻区飯塚1359


飯塚神社の200mほど南に法華寺がある。入口から入ってすぐ、山門の手前左側に石仏が集められていた。ここは比較的新しいものが多い。


左手前 大乗妙典供養塔 天明6(1786)塔の正面中央「奉納大乗妙典扶桑廻國」右脇「順廻扶桑六十州社神拝佛幾春秋」左脇に「歸家穏坐無別□得罷休時且罷休」意味はよくわからない。塔の右側面に造立年月日。左側面 施主は個人名が刻まれている。


山門をくぐり境内を奥に進むと本堂の前の庭の中に唐破風笠付きの立派な庚申塔が立っていた。


庚申塔 享保16(1731)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭頂部が平らな独特の髪型、後ろの二組の腕が上下に直角につきH字型、首にドクロの首輪など、典型的な「川口型」ここまで分布があるとは意外だ。像はカビもなく驚くほど美しい。クリーニングしたのだろうか。


足下に顔をしかめた邪鬼。その下の三猿との間にしっかりとした二鶏を彫る。三猿は右の見猿は両足を前に出して座り、左の言わ猿は正座というユニークな構図。


塔の左側面「奉造立庚申尊容」その周りに天長地人・國泰民安・風調雨順・五穀豊□


右側面に造立年月日。その脇に講中善男女善女現當二世諸願成就所と刻まれていた。


本堂の西側に墓地が広がっている。墓地に入ってすぐ右側 六地蔵塔 享保10(1725)大きな舟形の光背に六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。


光背右「奉供養六地蔵尊」その下に施主 飯塚村。左脇に造立年月日。その下には星組男女四十人と刻まれている。

 


本堂の前を通り西の広い墓地に入ってゆくと、左手に十数基の石塔が整然と並べられていた。右の五基は北向き、左側の八基は東向きに立っている。


北向きに立つ五基の右端 庚申塔 元禄2(1689)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


光背上部に卍。日月雲の下、目を吊り上げ睨みつける合掌した青面金剛。小さいながらも凄みのようなものを感じさせる。頭には蛇が巻き付き、後ろ上左手にショケラ。光背右「奉造立庚申供養敬白」左脇には造立年月日が刻まれていた。


足下の邪鬼は正面向きM字型。その下にやはり書面向きの三猿を彫り、その両脇に二鶏を線刻。三猿の下の部分に十名ほどの名前が刻まれている。


その隣 庚申塔 元文2(1737)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。ところどころカビが付いていて見にくい。近寄って見てみたが光背に銘は見当たらなかった。


足下の両脇、比較的高い位置に大きめな二鶏。青面金剛に踏まれた邪鬼は左向き。その下の三猿は両脇が内向きに座っている。


塔の右側面に造立年月日。左側面中央「奉造立庚申尊像」右脇に「善根増長願望□成」左脇に「講中家内子孫福壽榮昌」と刻まれていた。


続いて庚申塔 寛政12(1800)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは細かく技巧的。独特の紋様の衣装に小さなショケラがしがみつく。青面金剛は両足で二匹の獅子のような邪鬼の頭を踏み、その下には立派な二鶏を彫る。


下の台は土の中に深く埋まっていて、正面にかろうじて三猿の姿が確認できた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には飯塚村講中と刻まれている。


その左隣 庚申塔 寛文10(1670)江戸時代初期に多く見られる板碑型の三猿庚申塔。正面を彫り窪めた中に銘文と三猿。縁の部分に造立年月日。さらに施主敬白。その下には大きな蓮の花が彫られている。


中央 卍の下、五行に渡って銘文が刻まれているが、一部は風化のために読みにくく、読める部分もあまり意味がはっきりしない。右から二行目には「庚申夜・・・」という文字が確認できたる。


中ほどにしっかりとした三猿が彫られ、その下には八名の名前が刻まれていた。


東向きの石塔と北向きの石塔がそれぞれ並ぶその角の所に 庚申塔 元禄3(1690)卍の下に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。本当は東向きに並んだ八基の石塔と同じ列の並びなのだが、なぜかこの庚申塔だけ北向きに立っている。


光背の両脇に造立年月日。全体にカビが多く付着していて、文字を読み取るのもままならない。足下の邪鬼は頭が左向きで、その両脇は二鶏か?


邪鬼の下、正面向きの三猿の下の部分には細かい文字で二十人ほどの名前が刻まれていた。



東向きに並ぶ八基の石塔。右端 庚申塔 貞享4(1687)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。後の二組の腕は彫りが浅く平面的。上左手には蛇が絡みつく。二鶏は青面金剛の膝の脇、比較的高い位置に彫られていた。足下の邪鬼は丸顔で岡本太郎の「太陽の塔」の顔に似ていて、妙に腰を高く上げ背中を踏まれている。その下の三猿も左右は正座。これも珍しい。全体にこの辺りはユニークな印象を受ける。


三猿の左脇に二名の名前、世話人だろうか。三猿の下には十六の名前が刻まれていた。


その隣 庚申塔 元禄11(1690)光背上部に卍。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。後ろの上左手にショケラをかかげる。光背両脇に造立年月日。


邪鬼は正面向きのM字型。その両脇に二鶏、下には正面向きの三猿。台が無く塔だけがじかに立っている形。塔の下部が結構深く土に埋まっている可能性もあり、施主名、銘文などは三猿のさらに下のほうに刻まれているのかもしれない。


その左 地蔵菩薩立像 宝暦5(1755)光背も像も白カビが多い。光背右脇「奉造立地蔵尊現當二世為安樂也」左脇に造立年月日。その下に願主、足下に施主三名の名前が刻まれている。


続いて二基の馬頭観音の文字塔が並ぶ。まずは馬頭観音塔 天明2(1782)塔の正面、卍の下「奉建立馬頭觀世音菩薩」右脇に東 こしかや 二里半、左脇に 西 いわつき 二十丁。


塔の左側面に造立年月日。その下に飯塚村中。右側面は逆光で写真は見にくいが、北 しおんじうら道一里八丁、東 のしまみち 二十丁と刻まれていた。


さらに馬頭観音塔 天保9(1838)塔の正面「馬頭觀世音」台の正面には「馬持中」と彫る。左脇に松伏領下郷、右脇にも文字が見えるが読み取れなかった。


塔の右側面に造立年月日。その下に飯塚村。左側面には世話人願主とあり、その下に五つの村から八名の名前が刻まれている。


その隣 庚申塔 寛政8(1796)塔の正面、日月雲。大きな文字で「庚申塔」上部両脇に造立年月日。その下に飯塚村 講中十七人。


風化が進みこの写真でははっきりしないが、「塔」の文字の下の三つの膨らんだ部分はどうやら三猿のようだ。


列の一番左には前後に二基の石塔。後ろは石橋供養塔 寛保元年(1741)塔の上に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩坐像。塔の正面中央に「奉造立地蔵尊石橋供養佛」右脇に村々勧化衆中現當二世安樂所、左脇に造立年月日。その下には飯塚村とあり 願主名が刻まれている。


その前に立つのは 輪廻塔 宝暦9(1759)「南無阿弥陀仏」の文字が刻んだ石車(輪廻車)を回すことで功徳を積むことができるというものだが、この輪廻塔はその輪廻車じたいがなくなっている。