板橋区小豆沢

龍福寺 板橋区小豆沢4-16-3

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環状八号線の南の地域は、志村から小豆沢、赤羽台とかなり広い台地になっている。小豆沢公園の東、環状八号線から急な坂道を登りきった先、龍福寺はそんな崖地の端のあたりに建っていた。山門は閑静な雰囲気に包まれている。

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山門の左手前、お寺とは独立して立派なお堂が建っていた。

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堂の中 不動明王坐像。中は薄暗くきれいな写真は撮れなかった。銘などは確認できず詳細は不明。

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山門の右手前に大きな地蔵菩薩像 正徳6(1716)が立っていた。下の台の文字は不鮮明だが正面右に武州豊嶋郡、中央あたりに造立年月日、左に小豆沢村などの文字が見える。両側面にも文字が見えるがはっきりはしない。右側面にひらがなが多いのは女性の講中なのだろうか?地蔵像自体は左手の宝珠を欠いているものの、時代を考えると比較的きれいなものと言えるだろう。

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山門を入って左側、雨除けの下に三基の板碑が並んでいた。その奥は歴代住職の墓塔、さらにその先、境内西のブロック塀の前にお地蔵さまが見える。龍福寺は別名「板碑寺」と呼ばれるほどたくさんの板碑があったらしいが、空襲でその多くを失い今は七基だけになってしまったという。こちらに並ぶ三基が主要なもののようだ。

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右から延慶2(1309)頭部の一部を欠くが、上方には阿弥陀三尊を表す大きな梵字が彫られ、下方中央に年号。その両脇は光明真言を梵字で刻んだもののようだ。延慶は鎌倉時代後期に当たる。

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中央の板碑には建長7(1255)の銘がある。こちらは鎌倉時代初期のもので板橋区の指定文化財になっているらしい。こちらも上部に大きな阿弥陀三尊種子。下部、年号の下に孝子等 敬白と刻まれていた。

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左 こちらは梵字「キリーク」の半分から上の部分を大きく欠くが「サ」「サク」はきれいに残っている。下方中央に建武3(1336)銘。南北朝時代に当たり、これが一番新しい。種子の大きさから他の二基と同じような規模の板碑だったのだろう。

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境内の西奥のブロック塀の前に二組の六地蔵菩薩立像。三体が同じ台の上に並び、二台で一組になっている。以前見た時は頭巾、前掛けがかなり古くみすぼらしかったが、お正月を迎えて真新しい装いに変わっていた。

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左の六地蔵のうちの三体。六体は、顔の様子も台の様子もよく似通っている。台の正面にそれぞれ八名づつ女性の名前。造立年月日を示すような文字は見当たらない。

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続く三基の台の正面にもそれぞれ八名の名前があるが、右から三基目にあたる台には施主とあり、僧名も含まれていた。六基合わせると40名を超す女性たちがこの六地蔵の建立に関わったことになる。

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奥の六地蔵のうちの左の三体。左の台の正面に天明甲辰。干支から言って天明4(1784)となる。次の台には「先祖代々一切聖霊」、右の台には施主とあるがその下の文字ははっきりしない。

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最後の三体。台の銘は左から「光明真言百万遍供養」真ん中の台は中央に「先祖代々一切供養」両脇に個人名。右の台には「三界万霊」と刻まれている。

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二組の六地蔵の先、木立に隠れるように庚申塔が立っていた。

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庚申塔 享保19(1734)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂。表面の風化が激しく像の様子も今一つはっきりしない。後ろの二組の腕が肩のあたりから出ているのが変わっている。光背右その腕の上のあたりに「奉造立」下のほうに「青面金剛為二世安樂」光背左に造立年月日。

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青面金剛の足の両脇にぼんやりと二鶏が見える。邪鬼は頭が右、その下の三猿は真ん中の猿が正面向き、両脇の猿が中を向くように彫られていた。

 


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山門を入って右側には最上部に大日如来坐像を頂き、その下に二段に渡って多くの石塔が並べられていた。数えてみると下段、上段とも十基の石塔、大日塔も合わせると二十一基の石塔になる。その中に庚申塔が十二基もあり、帰ってきてからの写真の整理が大変だった。石塔の数が多いので、今回は一つの石塔ごとに写真は各一枚づつとする。

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下段、中央(大日塔の向いている方向を正面とする)から見てゆこう。庚申塔 享保4(1719)頂上に立派な宝珠を乗せた唐破風笠付角柱型の本格的な庚申塔。正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足の両脇に二鶏。足下にずんぐりとした邪鬼。下の台の正面に三猿を彫る。三猿の右脇に講中廿三人、左脇には願主了音?塔の右側面に武州豊嶋郡小豆沢村、その脇に造立年月日が刻まれていた。

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右隣 庚申塔 元禄年間 板碑型の正面を二段に彫り窪めて、上部に日月雲。窓部の中、青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足下に二鶏と邪鬼。三猿はその下の別室に彫られている。枠部右「奉造立庚申供養二世悉地成就所」左枠に元禄とあるがその下の年号は読み取れなかった。下部には小豆沢村施主。三猿の下の平らな部分に十数人の名前が見える。

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3番目 庚申塔 正徳2(1712)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。下部に二鶏・邪鬼・三猿。右脇「奉造立庚申為二世安樂也」左脇に年号。その下に武州豊嶋郡小豆沢村。こちらも三猿の下に講中とあり十数名の名前が刻まれていた。

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4番目 庚申塔 元禄3(1690)舟形の光背を持つ。日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足下の二鶏は線刻。芋虫のような邪鬼。比較的大きな三猿を彫り、その下の部分の左右両脇に結衆敬白。その間には十数人の名前が刻んれている。光背右「奉造立庚申待供養諸願成就」脇に武州豊嶋郡小豆澤村。光背左に造立年月日が刻まれていた。

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ここまで四つの庚申塔が続いた後、5番目は 大乗妙典六十六部供養塔 年代不詳。正面「奉□大乗妙典六十六部日域順國」上部に天下泰平・國土安全。下部 右に願主 和泉國南部中井邑 欽来。左に武蔵國足立郡浮間村 □西。二人の願主はどういう関係だろう?

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6番目 角柱型の庚申塔 年代不明。正面日月雲「庚申塔」側面が狭く他の銘は確認できない。

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7番目 板碑型の庚申塔 天和4(1684)中央「奉造立庚申供養二世悉成就也」右脇に武州豊嶋郡小豆沢村一結衆。左に造立年月日。この庚申塔は手前の木の陰になっていて文字が読みにくい。

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8番目 板碑型の庚申塔 万治3(1660)中央上部 「品合」これは意味不明。その下 「中」を四方から「天」という文字が囲む。宇宙を表すのだろうか?その下に「奉唱念庚申供養一基」右脇に武州豊嶋郡小豆沢村。左脇に造立年月日。下部両脇に渡って願主敬白と刻まれていた。

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9番目 駒型の庚申塔 正徳4(1714)上部に梵字「タラーク」日月雲 青面金剛立像合掌型六臂。足の両脇に薄く二鶏。邪鬼は右側に頭をもたげている。その下には正面向きに三猿を彫る。右脇に「奉造立庚申供養所願成就二世悉地攸」左脇上部に造立年月日。下部に小豆沢村 施主敬白と刻まれていた。

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下段最後は駒型の庚申塔 元禄7(1694)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。右脇「奉造立庚申供養二世悉地成就所」左脇に造立年月日。青面金剛の足の両脇には二鶏。足下の邪鬼はうつぶせにのびている。比較的大きな三猿の下、武州豊嶋郡小豆沢とあり十数人の名前が刻まれていた。

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上段正面 庚申塔 寛政6(1794)梵字「ウーン」の下、美しい文字で「庚申塔」右脇に造立年月日。左脇には武州豊嶋郡志村講中と刻まれている。日月雲も二鶏も三猿もなく、シンプルな文字塔だ。

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2番目の聖観音立像は個人の墓塔。3番目 庚申塔 天保7(1836)迫力のある日月雲の下「庚申塔」下の三猿がいい。彫りは細かく、それでいて力強く、坐像だが動きが感じられ生き生きとしている。塔の右側面に造立年月日。左側面には中内出?講中と刻まれていた。

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4番目 順礼供養塔 宝暦13(1763)正面 阿弥陀三尊の梵字の下「奉順禮坂東西國秩父供養」百観音霊場順礼の記念塔だろう。塔の右側面上部に造立年月日。両側面の下部にそれぞれ十人ほどの名前が刻まれている。

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続く四基の石仏はいずれも個人の墓塔。寛文12(1672)から宝暦10(1760)の銘があった。

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9番目 板碑型の庚申塔 貞享3(1686)上部の形が変わっている。中央日月雲の下「奉供養庚申待二世悉地成就」施主敬白。右脇に武州豊嶋郡小豆沢村、左脇に造立年月日。下部には大きめの三猿が彫られている。その隣10番目、上段最後の石塔は貞享2(1685)釈迦如来立像。こちらは個人の墓塔だった。

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最上部に大日如来坐像 宝暦7(1757)首のところに補修の跡が見える。塔の正面中央「八日講所願・・・」下部が見えないが「所願成就所」あたりだろう。その右脇に造立年月日。塔の左側面には浮間邑講中とあり二十名ほどの名前、右側面にもやはり二十名ほどの名前が刻まれていた。

 

志村三丁目交差点南東角 板橋区小豆沢3-12

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中山道と環八通りの交差する志村三丁目交差点、南東の角のあたりに小堂があった。中山道はここから志村坂上まで長い登り道になるが、現場は中山道の東側歩道の側道で、坂の上り始め地点からは左下方になり、うっかりすると見逃してしまうかもしれない。

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地蔵菩薩立像 安永4(1775)下の台の正面に「念佛講中」とあり、その両脇には造立年月日が刻まれていた。

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右手に錫杖、左手に宝珠。静かだが凄みのある表情をしている。

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台の右側面に文字は見えない。左側面には 左 ぜんこうじ。荒川を越えた向こう岸、川口市舟戸の善光寺のことだろう。

小豆沢公園弓道場裏 板橋区小豆沢3-8

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志村三丁目交差点の東、小高い所に小豆沢公園がある。その西の端にある弓道場の裏に二基の庚申塔が並んでいた。

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右 庚申塔。上部破損のため年代などは不明。中央に二世安樂所、右上に村、左に、五月とだけ見える。下部にはシンメトリックな三猿が彫られていた。こういったシンプルな三猿も面白い。

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左 庚申塔 正徳4(1714)正面 梵字「ア」?の下に日月雲。中央に「奉供養庚申講中二世圓満祈所」その両脇に造立年月日。右下に武州豊嶋郡志村、左下に講中敬白と刻まれている。下部はかなり土の中に埋まっているが、丸く三つ見えているのは三猿の頭かもしれない。

板橋中央総合病院北東角 板橋区小豆沢2-19

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小豆沢公園のすぐ南に板橋中央総合病院がある。その北東の角の歩道のあたりに庚申塔が立っていた。

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庚申塔 天明5(1785)正面 梵字「ウーン」の下「奉造立庚申供養塔」右脇に年号。左わきに武州豊嶋郡志村講中と刻まれている。

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塔の左側面 左ハ上いたばしみち。右側面には 右ハ大山道。道標を兼ねる。

小豆沢公園南住宅内の庭 板橋区小豆沢2-22

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小豆沢公園の東の端、体育館の向かいにある路地の先の住宅の庭に二基の石塔が並んでいた。訪問時にたまたま家の方がいらしたのでお願いして写真を撮らせていただいた。

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右 地蔵菩薩坐像 年代不明。逆光のためうまくピントを合わせることができず、下の塔部正面に文字は見えるもののうまく読み取れない。

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その下の台には四面に渡り「おひさ」「おやす」など、多数の女性と思われる名前が刻まれていた。資料によると天明3(1783)年の浅間山大噴火によって小豆沢村で亡くなった人たちの名前だという。女性だけを供養したものだろうか?

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左 般若経供養塔 年代不明。正面「奉讀大般若供養塔」右脇に天下泰平、左脇に村内安全。塔の右上部が欠けている。

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塔の右側面は崩落のため文字は読めない。左側面も一部破損していて、九月十五日という銘だけが残っていた。

 

龍福寺北東住宅前 板橋区小豆沢4-21

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龍福寺の山門の前の道を東に歩きすぐ左折、急な下り坂を道なりに降りきり、そのまま北へ環八通りに出る道を進むと左手の住宅の前に二基の庚申塔が並んでいた。

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右 庚申塔 明治36(1903)青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。上部に日月がないのは珍しい。彫りは凝っていて、ショケラもほかでは見たこともないようなポーズを取っている。足下には狛犬のような面相の邪鬼。二鶏、三猿は見当たらない。下の大きな台の正面には下講庚申講中と刻まれていた。

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右側面には 西 仲仙道 南 いたばし。その下に小豆沢村と刻まれている。

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塔の左側面 北 わたしば 東 あかばね 道。渡し場は戸田の渡しだろう。裏面に年号。その下に数人の名前が刻まれていた。

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左 庚申塔 嘉永6(1853)正面 日月雲の下「庚申塔」

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塔の右側面に南 いたばし 西 志村根葉吹上道と刻まれている。左側面は隙間が狭く写真は撮れなかったが。手前に東 袋 岩渕道と見える。奥には年号が刻まれているらしい。

赤羽北三丁目交差点南 板橋区小豆沢2-36

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中山道志村坂上交差点から小豆沢通りを東へ向かう。北区との区境にあたる赤羽北三丁目交差点を右に折れると少し先の右手にある大きな駐車場の塀のあたりに庚申塔が立っていた。

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庚申塔 延享年間 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂。前の両腕が細くはっきりしないが、その構えから剣・ショケラ持ちと思われる。頭上には一匹の蛇が絡まりついていた。右脇に「奉供養青面金剛」左わきに年号を刻むが、延享のあとがちょうど欠けていて何年かはわからない。

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足下には不気味な邪鬼がうずくまる。三猿は両脇の二猿が内を向き、上体を後ろにそらす形。邪鬼と三猿の間に二鶏が彫られていた。

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下の台の正面 右から 武州豊嶋郡、続いて此施主とあり個人名。さらに願主 二名の名前。左脇に峡田領小豆沢村。台の両側面にはひらがなで主に女性の名前がいくつか刻まれていた。

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塔の左側面には 大きなくずし字で みなミ 江戸道、北 あづ沢わたしバ。

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右側面は光線の加減で見にくいが 西 祢りまふじ道、東 川口ぜんかうじ道と刻まれている。

志村第二中学校北西住宅塀 板橋区小豆沢2-5

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志村第二中学校の北西、一方通行の道路の西側に建つ住宅の塀の中に庚申塔が祀られていた。道路を隔てた向かいには東武ストアがある。

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庚申塔 元文4(1739)正面 彫り窪めた中に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。枠部に造立年月日。足の両脇に比較的はっきりとした二鶏。

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足の下にはハロウィンのカボチャのような丸顔の邪鬼。その下に三猿。台の正面には施主 小豆沢村とあり、20名ほどの名前が刻まれていた。