慈恩寺中学校北西交差点角 岩槻区裏慈恩寺348
慈恩寺中学校の西を通る道を北へ、鹿室方面に向かうとその先の信号交差点の南西の角に石塔が並んでいた。
右 庚申塔 嘉永年間 塔の表面が平らな部分が少なく荒れた状態で文字も読みにくい。中央「奉供養庚申塔」両脇に造立年月日だが右脇は嘉永の「嘉」だけが見え、左脇は正月吉日。右下、うらぢおんじ村、左下に同行十五人と刻まれている。
塔の右側面、でこぼこが激しい上に横に何本も線が入っている中に、かろうじて「此方 日光道」と見えた。
左側面はさらに穴が穿たれているのだろう、文字は見えるが読み取れない。資料によると、「此方 しおんしミち」ということらしい。
左隣は 馬頭観音塔 平成16(2004)資料では明和年間の馬頭観音の文字塔があるはずだったが、現場にはこの真新しい馬頭観音塔が立っていた。おそらく破損がひどく再建したものだろう。
曙ブレーキ南T字路角 岩槻区裏慈恩寺766
慈恩寺小学校北の信号交差点からそのまま北へ向かうと、鹿室自治会館近くを通りやがて県道65号線に合流する。交差点から東へ向かう道は左手に諏訪神社などがあり、その先は春日部市内に入る。この道を少し歩くと、左手、T字路の角のところに二基の石塔が並んでいた。写真右の道を入ってしばらくゆくと曙ブレーキの門のところに出る。
左 馬頭観音坐像 宝暦6(1756)蓮座の上、六臂の馬頭観音は左目のあたりに傷があるものの、彫りは細かい部分まで鮮明に残っていて美しい。
塔の正面、中央に「奉造立觀音経供養成就所敬白」上部両脇に造立年月日。続いて右 さって くき 道、左 加うのす はらいち 道、変体仮名で刻まれていて難しいが慣れるしかないのだろう。調べてみると「す」の上の「み」のような字は元字「能」の変体仮名のようだ。右下に裏慈恩寺村、左下には講中拾二人と刻まれていた。
右 馬頭観音坐像 安永6(1777)こちらの馬頭観音は二臂でしっかりと馬口印を結んでいる。丸顔だが目が吊り上がりきりっとした表情。塔の正面「馬頭觀世音菩薩」右脇に造立年月日。左脇に施主は個人名が刻まれていた。
曙ブレーキ南住宅 岩槻区裏慈恩寺733
馬頭観音のあるT字路から50mほど東、道路右側の住宅の入口付近、ブロック塀の前に庚申塔が立っている。
庚申塔 天明8(1788)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。全体に白カビに覆われ、特に顔のあたりは真っ白で、近づいて見てもその表情をうかがうことはできない。下の台の正面、世話人とあり二人の名前、続いて講中とあり十数人の名前があるがはっきりとは読み取れなかった。
足の両脇に二鶏。足下に丸顔の邪鬼。その下の三猿は言わ猿だけが右向きで、聞か猿と見猿は正面向きという変則的な構成。
塔の右側面に造立年月日。その下に此方 こふのす道。こちらも変体仮名で刻まれている。
塔の左側面は漢字で 東 粕壁道 南 子権現 観音 道。わかりやすい。子権現は300mほど南東にある子之神社、観音はその先にある慈恩寺観音だろう。左下には裏慈恩寺邑と刻まれていた。
酒店向かいの庭 岩槻区裏慈恩寺1106
慈恩寺小学校北の交差点から東に向かう道、前回紹介したT字路の馬頭観音、庚申塔のある住宅の先の信号交差点の角に大きな酒屋さんがあり、道路を隔てた南側の庭の隅に石塔が並んでいた。ここは酒屋さんの私有地なので断りなく近づくこともできずあきらめかけていたが、何度目かに家の方とお会いして撮影の許可をいただくことができた。
左から 庚申塔 宝暦3(1753)正面に「奉造立庚申供養」その脇に右 加ふのす道、左 ぢおんじ道。その下に小さな字で10人ほどの名前が刻まれている。
左側面に造立年月日。資料ではここに「裏じおん」とあるというが、この状態では確認できなかった。
雨除けの下に庚申塔 天保3(1832)角柱型の塔の正面に大きく「青面金剛」右側面に造立年月日。左側面 武州埼玉郡裏慈恩寺村。台は二段になっているが上のほうの台の正面に三猿を彫る。
三猿の彫られた台の右側面、右に南二丁ちおんじ道、ひだりに寄進とあり、個人名。左側面には右 はらいち道 左 かすかべ道と刻まれている。
三猿は寝そべってリラックスしている。以前見沼区のほうで似たような自由な三猿をみたが、この構図も「岩槻型」だろうか、岩槻区では結構いろいろなところで見かける。下の台の正面には願主とあり二十人ほどの名前が刻まれていた。
間に個人の供養塔をはさんで、右に庚申塔 宝永元年(1704)日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。合掌型の場合、残りの四本の手に戟、法輪、弓矢を持つのが普通だが、ここでは法輪の代わりにショケラを持っている。これも岩槻の庚申塔に多く見られ、「岩槻型」と呼ぶようだが、この型の青面金剛を初めて見たのもやはり見沼区の東新井だった。見沼区片柳には岩槻の林道の石工、田中武兵衛作の大変優れた庚申塔などもあり、行政的には足立郡と埼玉郡という違いはあっても、こういった文化的な面においては地域のつながりが強かったのだろう。青面金剛の右脇に「奉供養庚申」左脇に造立年月日が刻まれていた。
ずんぐりした邪鬼は正面を向き頭上に青面金剛を乗せている。この邪鬼の形も岩槻では多い。その下の三猿は小さめで、三猿の両脇に二鶏という構図もまたユニークなものといえるだろう。
下の台の正面、右から裏慈恩寺 本願とあり、八名の名前。続いて村中惣男女と刻まれていた。
雨除けの右脇に道標 大正10(1921)正面 西 蓮田一里半。脇に慈恩寺村軍人分會。左側面に東 粕壁町三十丁 字裏慈恩寺。
背面に造立年月日。右側面には南 役場八丁と刻まれている。
ここまで鹿室から古ケ場、上野、裏慈恩寺と見てきたが、旧慈恩寺村のこれらの地域の石塔は道標を兼ねているものがとても多い。御成街道も通り、江戸時代から人の行き来が多い交通の発達した地域だったということだろう。
裏慈恩寺阿弥陀堂墓地 岩槻区裏慈恩寺681
前回紹介した酒店のある交差点から南にしばらく歩くと、道路の右側に墓地があった。入口左手、ブロックで囲まれた庭木の中に石塔が頭をのぞかせている。写真右の建物は自治会館らしい。
庚申塔 明和4(1767)正面「庚申供養」資料では最後に塔がついていて、けっこう深く土の下に埋まっているようだ。右側面 かすかへみち、左側面には造立年月日が刻まれていた。
自治会館の建物の前、六地蔵石幢 正徳2(1712)二重になった台の上に六面幢が立っている。台には銘は見当たらなかった。
塔の六面それぞれに地蔵菩薩立像を浮き彫り。像は目立った損傷も見られず美しい。正面の延命地蔵の右脇「奉造立六地蔵尊一基」左脇に「為現世安穏後生無比樂」
その下部中央に地蔵講中男女五十人。右脇に造立年月日、左脇に武州岩筑領裏慈恩寺村。岩槻=岩付=岩筑といろいろな表記が見られる。さらに下のほうには願主二名の名前を刻む。両隣の面にはそれぞれ20名ほどの名前が見られるが、吉田三次郎母、小島庄三郎妻、というような書き方がされていて、そのほとんどが講中の女性のようだ。
六地蔵塔の南の一角に卵塔と一緒に四基の石塔が並んでいた。いずれもかなり白カビが目立つ。
右 地蔵菩薩立像 宝暦11(1761)光背右脇に「大徳」とあり、住職の供養塔のようだ。左脇に造立年月日。足下に裏慈恩寺村と刻まれていた。
隣 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)すっきりとしたいいお顔をしている。こちらも光背右脇に「大徳」の法名。その下に當所第九世と刻まれていた。左脇に造立年月日、続いて裏慈恩寺村と刻む。
左の二基は個人の供養塔。地蔵菩薩立像 元禄9(1696)光背右脇に造立年月日。ちょっとふくれっ面をしているようにも見える。白カビに覆われているものの、元禄期の石仏のオーラようなものを感じる。こちらの思い込みというものだろうか。
最後は六字名号塔 享保元年(1716)塔の正面に「南無阿弥陀佛」施主は個人名。江戸時代初期、浄土思想が一般に広がり、個人の造塔も比較的普通に行われていたのかもしれない。
入口から六面幢へ向かう道の左側、大乗妙典供養塔 享保10(1725)塔の正面を彫り窪めた中、上部に梵字「バク」その下に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」と刻まれている。
塔の右側面に造立年月日。左側面には為兩親菩提 回國行者 小嶋又四郎と刻まれていた。小嶋氏の名前は先の六面地蔵塔の銘の中にも散見され、施主はこの村出身のいわゆる「六部さん」と呼ばれる回国行者なのかもしれない。
子之神社 岩槻区裏慈恩寺1404
阿弥陀堂墓地から南に進むとやがてT字路に突き当たるが、そのすぐ手前、左手に子之神社の朱色の鳥居が見えてくる。鳥居を入ると右手に手水石があった。
手水石 明和2(1765)正面中央に武州埼玉郡裏慈恩寺村。右に造立年月日。左に個人名が刻まれている。
拝殿に向かう参道の右側に力石やたくさんの記念碑、石塔などが立っていた。
右手前のフェンス近くに敷石供養塔 安永3(1774)正面に「當社敷石建立男女万□」下は土に埋まっているが「万人講」だろう。右脇に裏慈恩寺村、左脇に造立年月日。
塔の右側面に願主とあり三名の名前。左側面にも三名の名前が刻まれている。
拝殿の右あたり、勢至菩薩塔 文化9(1812)正面 月の下に「勢至菩薩」塔の右側面には造立年月日。
左側面に裏慈恩寺村、下部は剥落が見られる。下の台は土に埋もれている部分が多く一部しか見えないが、正面は願主とあり十名の名前、右側面は寺中とあり五名の名前、左側面には寄進とあり、やはり五名の名前が刻まれていた。
県道65号線慈恩寺入口交差点角
県道65号線慈恩寺入口交差点の北東の角、住宅のブロック塀の中に石塔が祀られていた。
庚申塔 宝暦5(1755)塔の正面上部に日月雲。中央を彫り窪めた中、梵字「ウーン」の下「奉造立青面金剛供養塔」枠部右下に慈恩寺村。下部には素朴な三猿が彫られている。
側面は隙間が狭い。右側面 是よりじおんじミち。その右脇下に裏慈恩寺村、左脇下には講中男女。
左側面 此方よしみミち。左脇に造立年月日。その下に新坊、大門とあるがこちらは字のようだ。
天神社 岩槻区裏慈恩寺213の北
慈恩寺入口交差点から東に入り300mほど、右側T字路の角に天神社があった。社の周囲は広い空き地になっていて、奥にポツンと一つ石塔が立っている。
庚申塔 文政5(1822)日月雲の下に「庚申塔」下の台の正面に三猿を彫る。左の言わ猿は横座りをしている女性のようなポーズ?ちょっと変わっている。
塔の左側面に造立年月日。右側面に裏慈恩寺村 字新房組講中。台の右側面には西 こう(のす?)よし(み?)と刻まれていた。
裏慈恩寺南部自治会集会所裏 岩槻区裏慈恩寺195の南
天神社の角を南に曲がり200mほど進むと右手に自治会の集会所がある。建物の裏手に四基の石塔が並んでいた。
左端 地蔵菩薩立像 明和8(1771)光背右 梵字「ア」の下 直念従徳位。「大徳」は有力な高僧に使われるが、「従徳」も似たような使い方か?光背左脇に造立年月日。その下に施主 講中と刻まれている。
真ん中の二基は一般の個人の墓石。右端 大乗妙典供養塔 文化15(1818)塔の正面「奉納大乗妙典日本廻國」右脇に「寿算」左脇に「光道」僧の名前のように思われるが、「寿算」の下に文化十五寅正月十八日、その脇に芸州安芸郡坂村産、「光道」の下に寅十一月廿八日、その脇に備中出生とある。どう解釈すればいいのか?広島、岡山出身の二人の回国僧が奉納主ということだろうか?
塔の左側面は無銘。右側面 上部に大きな字で「智栄」その下に文化十五寅十一月十五日。その左脇に願主 同国 智栄と刻まれている。まとめてみると、地元の回国僧「智栄」が仲間に呼びかけて、文化15年の1月にまず「寿算」が、次に11月15日に「智栄」が、さらに11月28日に「光道」が大乗妙典の奉納をおこなったということになるのだろうか?