桜区西堀

土合支所 桜区西堀4-2-35[地図]


志木街道の田島火の見下交差点から北へ向かう県道165号線。鴻沼川を越えた先、道路左側に土合支所があった。交差点の近く、電信柱の脇に石塔が立っている。


巳待塔 文化9(1815)角柱型の石塔の正面に大きく「巳待塔」左脇に小さく観音經とあり、その下に11人の名前が刻まれていた。


塔の左側面には「馬頭觀世音菩薩」下部両脇に造立年月日。


右側面に「甲子塔」その下によのみち。西堀村中と刻まれている。


さらに裏面に「庚申塔」四面にわたって違った銘があって、どこが正面なのか?私が初めてこの石塔を見たのは2010年10月。その時には道路側は「庚申塔」になっていた。

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【2010年10月の写真】


下部にはやそ(笹目付近)、引又(志木)ミち と刻まれていて、その位置関係から考えると現在の立ち方のほうが正しいのだろう。

 

阿弥陀堂 西堀6-3-41[地図]


西堀郵便局のある信号交差点から「別所沼通り」を東に向かう。200mほど先を左折して北へ進むと、道路左手に阿弥陀堂の入口があった。


入口右側、南向きに地蔵菩薩坐像 宝永7(1710)角柱型の石塔の上に半跏坐像が乗っている。


白カビは多いものの、像に損傷はなく首にも補修の跡は見当たらない。頭部が細長く個性的な尊顔。


塔の正面を彫りくぼめて、中央に「奉造立地蔵尊二世安樂」両脇に造立年月日。枠の部分、右下に西堀村、左下に講中と刻まれていた。


入口左側、坐像と向かい合うように丸彫りの地蔵菩薩立像が北向きに立っている。こちらは損傷が甚だしく、頭部の補修跡も痛々しい。二段の台もどうやら本来のものではないらしく、銘はどこにも見当たらなかった。


背後に回ってみると、右肩がそっくり欠けていて、後から補われた頭は大きさもバランスが悪く、座りもよくない。背中の真ん中に凸型の穴があいていた。頭光背の取り付け穴なのだろうが、こうやって目にするのはかなり珍しい。


入口の正面には六地蔵が並んでいた。裏一帯が墓地。右に進むと阿弥陀堂が建っている。


六地蔵の左脇に 四国移霊場標石 天明8(1788)四角い台の上、角柱型の石塔の正面の上部を舟形に彫りくぼめた中に合掌する地蔵菩薩立像を浮き彫り。その下の部分に造立年月日。さらに願主1名の名前が刻まれていた。


塔の右側面には「南無遍照金剛」その下に与野領 西堀村。


塔の左側面、最上部に足立 その下に八十八ヶ處二十五番長福寺。この阿弥陀堂は長福寺の境外墓地だったらしい。右脇に土佐國津寺移。津寺(津照寺)は四国霊場の25番に当たる。左脇に本尊十一面觀世音。裏面には元宿 花蔵 三丁とある。三丁=約300mとして探すと、南元塾の華蔵寺と思われる。24番は近くにある医王寺で、山門手前にこれとそっくりな標石が立っていた。25番=長福寺、26番=華蔵寺はいずれも廃寺となっていて、今は墓地だけが残っている。

阿弥陀堂北マンション 桜区西堀6-4[地図]


阿弥陀堂から北へ歩いてゆくとT字路にぶつかる。右手前の角のマンションの塀の中に庚申塔が祀られていた。


庚申塔 延享元年(1744)駒型の石塔の正面、上部に日月雲。中央に「奉建立庚申諸願成就」両脇に造立年月日。下部両脇に武刕足立郡 与野領西堀村。塔全体に風化が進む。


塔の最下部に三猿が彫られていた。両脇の猿が内を向いて足を投げ出して座る構図だが、右の聞か猿の腰から下の部分が欠けている。


塔の右側面は無銘。左側面に講中 男女十九人と刻まれていた。

 

西堀橋脇交差点角 桜区西堀1-18[地図]


別所沼通り、中浦和駅の100mほど西にある西堀橋の畔、信号交差点の北東の角に石塔が南向きに並んでいた。写真左の道は北へ向かい、西堀、日向から鈴谷を経て与野本町へ至る旧道「与野道」で、沿線には寺社も多く、講中造立の石仏があちこちで見られる。


それぞれタイプの違う四基の石塔。右端、草木に隠れるように立っているのは中央部で断裂した小型の板碑だった。


その隣 庚申塔 天和3(1683)江戸時代初期によく見られる板碑型三猿庚申塔。塔全体に風化はほとんど見られず、きりっとしたそのフォルムが好ましい。


中央に「奉造立庚申爲二世安樂也」上部両脇に造立年月日。その下に六名の名前が刻まれていた。塔の最下部には三猿。両脇が内を向く構図。しっかりとした彫りで存在感がある。


続いて庚申塔 延宝3(1675)宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔。兩側面には大きな蓮の花が彫られていた。


塔の正面を二重に彫りくぼめた中、梵字「ウン」?の下「奉造立庚申供養所」両脇に造立年月日。下部両脇に諸衆 敬白。こちらは三猿もない完全な文字塔である。


左端 三仏道標塔 文化4(1807)四角い台の上、角柱型の石塔の三面に合わせて三体の菩薩像が浮き彫りされたもので、希少塔と言ってよいだろう。正面上部には妙見菩薩坐像。その下の部分、右から造立年月日。中央に「念佛女講中」左には西 はねくら かわごえ ミちと刻まれていた。


右側面、上部に如意輪観音坐像。その下には 南 わらび 江戸 道。


左側面、上部に地蔵菩薩坐像。その下 北 よの 阿き葉 道。三方向六地名が刻まれた立派な道標になっている。

 

上之宮薬師堂 桜区西堀2-3[地図]


西堀氷川神社から300mほど南、別所沼通りに向かう道の左側に薬師堂の入口があった。本堂へ続く参道は上り坂になっていて、その左側にいくつか石仏が並んでいる


平成年間に新しく造立された観音菩薩塔と地蔵菩薩塔。その隣に小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 安永3(1774)四角い台の上に角柱型の石塔を乗せ、その上に駒型の石塔を重ねる。下の石塔の正面には「奉再營青面金剛」と刻まれていた。どうやらこちらは再建塔らしい。


上の駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛坐像 合掌型六臂。おしりの下に邪鬼を敷いている。持物は矛・法輪・弓・鏑矢。ここでは三猿、二鶏が見当たらない。


下の四角い台の正面に三猿が彫られていた。上の角柱型の石塔とは石の色が違っていて、この台と三猿だけが創建時のものなのだろうか。


角柱型の石塔の右側面に安永3年の紀年銘。こちらは再建年月日かもしれない。


左側面に施主當村庚申講中と刻まれていた。


その奥の小堂の中に六地蔵菩薩立像 安永6(1777)風化は比較的少なく、六体のお地蔵様の尊顔はよくそろっている。


薬師堂の前、墓地の入口にお堂に向かい合うように石塔が並んでいた。


後列中央 阿弥陀如来立像 延宝5(1677)前に地蔵菩薩坐像があり、全体を写すためにはこの角度になる。


江戸時代初期らしく大きな舟形光背。仏全体を表す梵字「ア」の下に静かな表情の阿弥陀如来像を浮き彫り。光背右脇「奉供養光明眞言二世安樂所」左脇に造立年月日。光明真言供養塔ということになるだろう。


光背の下部両脇に合わせて四名の名前が刻まれていた。

 

醫王寺 桜区西堀2-6[地図]


上之宮薬師堂から北へ向かい、すぐの交差点を右折、30mほど進むと道路左側に醫王寺の入口があった。ここから正面に山門が見える。山門右脇に大きな木の手前に石塔が並んでいた。右の二基の地蔵菩薩塔は新しい。


左側の一角、角柱型の石塔の前に五基の馬頭観音塔が集められている。五基ともに施主あるいは願主として個人名が刻まれていた。


前列右 馬頭観音塔 文化3(1806)舟形光背に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。尊顔は慈悲相。


前列左 馬頭観音塔 万延元年(1860)駒型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。


後列右 馬頭観音塔 明治27(1894)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」


後列中 馬頭観音塔 明治36(1903)風化のために石塔の角が取れて丸くなっているがやはり駒型か?中央の「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。



後列左 馬頭観音塔 享保6(1721)前の石塔が邪魔をしていて正面から全体を写すことはできなかった。舟形光背に三面六臂忿怒相の馬頭観音の坐像を浮き彫り。光背上部に「奉造立」右脇に続いて「馬頭觀世音菩薩」


左脇に「爲現當二世安樂」その下に造立年月日が刻まれている。


後の角柱型の石塔は四国移霊場標石 天明8(1788)こちらも前の石塔の陰になり、台を含めて全体を正面から撮ることはできなかった。塔の右側面に「南無遍照金剛」下部に與野領西堀村。


正面上部を舟形に彫りくぼめた中に合掌する地蔵菩薩立像を浮き彫り。


その下に造立年月日。さらに願主名が刻まれている。


左側面上部に横書きに足立、その下に大きな字で八十八ヶ處二十四番  醫王寺。右上に土佐國東寺移、左上に本尊大日如来。



裏面に従是長楽寺迄ニ丁半と刻まれていた。

 

旧長福寺墓地 桜区西堀7-17[地図]


土合小学校の東の住宅街の中に旧長福寺の墓地があった。狭い路地の中なので説明は難しく、住所と地図を参考にしてほしい。


入口左側、ブロック塀の裏に丸彫りの地蔵菩薩立像 享保14(1729)厚く白カビに覆われていて、尊顔ははっきりしないが、大きな破損は見られない。


石塔の正面 願主 覺善。右側面に造立年月日。左側面に施主 西堀村 爲菩提と刻まれていた。


墓地の一番奥、ブロック塀の前に多くの石塔が並んでいる。多くは無縁仏のようだ。


左端 念仏供養塔 延宝3(1675)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。頭上に梵字「カ」光背右脇「念佛講衆爲福善彫焉」左脇に造立年月日。


光背両脇下部に講員の名前が刻まれているが、・・・老母、・・・内儀。それぞれ女性であることがわかる。よく女人講中の場合は「おはつ」「おくめ」「おみよ」などひらがなの名前がみられるが、江戸時代初期では女性は自分の名前ではなく「母」「内儀」というような書き方がされていたのだろうか。


光背右下にも・・・老母、・・・内儀。その下にも銘があるようだが、こちらはうまく読み取れなかった。

土合小学校南路傍 桜区西堀6-19[地図]


土合小学校の南西の交差点の角のところに小堂が建っている。写真右の道は県道165号線で交通量が多い。


小堂の中 庚申塔 文化13(1816)角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足元に全身型で右向きの邪鬼。二鶏・三猿は見当たらない。初めて見たときは、江戸時代の石仏にしてはあまりにきれいな状態で驚いた。


塔の右側面に造立年月日。小堂の側面に板の隙間が狭く写真は撮りにくい。


その横に東 わらびミち。側面には傷もなく文字も驚くほどクリアだ、


左側面 南 道まんみち、西 は弥くら。その下に當村講中と刻まれていた。文化年間の石塔らしく道標になっている。自宅から近いので、その後も何度か通りがかりにのぞいたのだが、ある日この石塔の後ろにもうひとつ石塔が立っているのに気が付いた。狭い隙間からのぞいて見ると、前の庚申塔の裏面に「昭和60年再建」という銘を確認、近くの石材屋さんを訪ねてみると、事故で破損したために何件かの石材屋さんが協力して再建したとのこと、どうりできれいなわけである。


こちらが裏の庚申塔の前面の像の部分。隙間が狭くわかりにくいが、頭の左側面とショケラを持った左腕が写っている。


オリジナル庚申塔の右側面の道標銘。それなりに傷もついた面に東 わらび道の上の部分。こうして見てみると、新しい庚申塔は本来の庚申塔の銘をそっくり模写しているようだ。正面の像も以前の庚申塔を模造したのだろう。再建塔だけでなく、本来の庚申塔も破棄することなく堂内に収めたのは、いずれ拝見するチャンスもあるということでありがたい。

 

日向の庚申塚 桜区西堀9-26[地図]

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西堀の氷川神社あたりから与野道を北へ向かうと県道57号線の日向交差点に出る。さらに北へ120mほど、道路左側にある信用金庫の先の細い道を左折、下り坂の道の途中に小堂が立っていた。

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小堂の中に四基の石塔が並ぶ。堂の中には石塔の詳しい解説が貼られていた。


右から馬頭観音塔 宝暦5(1755)角柱型の石塔の上に馬頭観音坐像が乗っているかのように見えるが、こちらは一石から上部に馬頭観音像を彫りだしたものであまり見たことがない形式。


梵字「カン」の下に馬口印を結ぶ三面八臂の馬頭観音坐像。三面ともに忿怒相。脇の二面が前面に乗り出すようにしてほぼ正面向きというのは珍しい。持物は棒・法輪・棒?・空手・数珠。彫りは細部まできれいに残っていた。


像の下、右から造立年月日。続いて西堀村日向。左に願主一名。その下に施主15名の名前が刻まれている。


その隣 庚申塔 宝暦7(1757)角柱型の石塔の正面上部を四角く彫りくぼめた中に青面金剛坐像を浮き彫り。その下に大きく「供養」養の字は上下を分解して偏と旁にした独特の文字で、結構よく見かける。塔の下部は粗彫り風になっているが、後の二基の石塔も同じような処理がされていた。


顔の表情は風化のためかもうひとつはっきりしない。合掌手以外の四臂の持物は矛・法輪・弓・矢。邪鬼・二鶏の姿は無く下部に三猿だけが彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。その左下によの道。右下の銘は達筆すぎて?うまく読み取れないが。□□きた?左側面に當村講中と刻まれていた。


塔の裏面にも銘が刻まれている。空間の余裕がなく全体を写すことはできなかったが、右 はやそ道 どうまん道、左 わらび道 えど道とあり、立派な道標になっている。


続いて 庚申塔 文化10(1813)角柱型の石塔の正面「庚申塔」


塔の右側面 わらび道 どうまん道。


左側面にも・・・・道と見えるがうまく読めない。状況から判断すると北方面だろうから、よの、おおみや あたりか?


裏面はやはり狭くピントの合った写真は撮れなかったが、上のほうに造立年月日が、その下に日向講中と刻まれていた。


左端 二十三夜塔。こちらは風化が進み塔の上部は一部剥落。塔の正面に「二十三夜」十の字はほぼ見えない。


右側面奥は造立年月日らしい。・・・・・四月吉日、堂内の解説によると嘉永2(1849)ということだが、現在の状況では判断は難しい。その横、・・び・ち と見えるのはわらびみちだろう。左側面は隙間が狭く銘を読み取ることはできなかった。ここに並ぶ四基のうち、右端の馬頭観音塔をのぞく三基はいずれも道標になっている。「日向」が古くから交通の要衝だったということだろう。

 

日向不動堂 桜区西堀10-4[地図]


県道57号線の日向交差点から北へ進み、250mほど先を右折、すぐまた先で左折して細い道に入ると、やがて日向不動堂の入口の前に出る。入口左脇に小堂が立ち、さらにその先の参道左側に石塔が並んでいた。


小堂の中に七体の丸彫りの地蔵菩薩立像。左の三体の頭部は比較的新しく、他の四体が同じように見えるのだが、小堂の柵の隙間からのぞくと、右端のお地蔵様だけ蓮台の下の様子が違っていた。左の六基は 六地蔵菩薩立像 明和5(1768)ということになりそうだ。


蓮台の下の角柱型の石塔の正面、六基のうち三基に銘がある。左端には「念佛講中」


右から2番目に造立年月日。右端に施主 西堀村 日向と刻まれていた。


右端の地蔵菩薩立像には銘が見当たらず、こちらは詳細が分からない。


参道左側には二基の石碑と、三基の同じような構造の石塔が並んでいる。


左端の石碑は、昭和63年の新住居表示制度によって、由緒ある「日向」の地名が無くなるのを惜しんで建立されたものらしい。「城址」となっているが、山城だったのだろう。この辺りはかなり標高の高い地域で、旧浦和市の最高地点はこの近く、中島2丁目にあるという。


その隣 武州足立郡日向十景碑 天保12(1841)自然石の正面 上部は漢文で読み解けないが、下部は和文で「富士の雪」「荒川帰帆」「柊森夜雨」「鴻沼秋月」「上宮夕照」「浅間山夕煙」「筑波山暮雪」「平野晴嵐」「聖沼落□」「龍海寺晩鐘」を十景として挙げている。当時はなにも遮るものもなく、この高台から荒川を行き来する舟が見られたのだろう。


3番目 尊勝陀羅尼塔 宝暦12(1762)塔身の正面に「尊勝陀羅尼塔」残り三面にびっしり経文が刻まれていた。ここからの三基の石塔はいずれも相輪が欠けている。


四角い台の正面には 右から陀羅尼講中 三拾五人 願主 理性 西堀村 日向と刻まれていた。


台の左側面に本宿村から始まって与野町まで、近隣12の町村名、また裏面にも同じように12の村の名前が刻まれている。


4番目 宝篋印塔 享保12(1727)塔身部四面に多くの戒名が刻まれていて、こちらは墓石のようだ。


台の左側面 右から「三界万霊 離苦得樂」続いて造立年月日。さらに施主名などが刻まれていた。


右 宝篋印塔 享保10(1725)台にはたくさんの戒名が刻まれていた。


塔身部正面から「宝筐印陀羅尼経曰」で始まる偈文、その最後に造立年月日が刻まれていた。


不動堂の左脇に小堂が立っていて、中には大型の丸彫りのお地蔵様が祀られている。


地蔵菩薩立像 享保10(1725)享保期らしい大型の丸彫り地蔵像だが、下のほうを見ると・・・


足元の台の正面に二匹の猿が彫られていた。江戸時代初期によくみられる地蔵菩薩を主尊とする庚申塔ということになるだろう。


台の右側面に造立年月日。右側面には西堀村 里講中と刻まれている。