板橋区東山町

長命寺 板橋区東山町48

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川越街道と環七通りの交差点、板橋中央陸橋の北西の角に長命寺がある。階段を上って本堂に向かう手前を右に入ると墓地の入り口の奥両側に石塔が整然と並んでいた。左側は卵塔など歴代住職の墓塔が多い。

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右側には地蔵像が四基、続いて庚申塔が三基、一番奥は地蔵像となっている。

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手前から地蔵菩薩立像 享保5(1720)両腕が欠けている。資料の写真を見てみると顔の様子が全く違っていた。頭部は後から補修されたものだろう。

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台の正面に講中百餘と刻まれていた。左側面に願文。裏面に造立年月日が刻まれている。

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2番目 地蔵菩薩立像 正徳5(1715)丸彫り合掌型。ここではいちばん大きな地蔵像。

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台の正面「奉造立尊像」右脇に講中衆人、左脇に□求菩提。右側面に造立年月日。その左下に長福寺住 海竜とある。今は長命寺だが長福寺といっていた時期があったのだろう。左側面には東光山 上板橋村と刻まれていた。

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3番目 地蔵菩薩立像 宝永8(1711)丸彫り合掌型。

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台の文字が読みにくい。正面「奉造立地蔵」右脇に二行、此菩薩□□、彩量刻□人。左脇に二行。百生□三天、永不随悪道。見えるままに強引に読んでみた。右側面 武州豊嶋郡上板橋村 長福寺。左側面には講中 九十余人。造立年月日は台の裏面に刻まれていた。

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4番目 地蔵菩薩立像。こちらは像にも台にも銘が見当たらず詳細不明。

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台の正面には三猿が彫られていた。どうやら地蔵庚申塔のようだ。さいたま市では珍しかった地蔵庚申塔だが、赤羽から北区を歩いたときに多く出会い、東京では結構普通なのかなと思っていたが、板橋ではほとんど見かけなかった。地域性があるのだろうか。江戸時代中期からは地蔵庚申塔はぷっつりとその姿を消してしまう。この地蔵庚申塔も江戸時代初期のものと思われる。

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続いて庚申塔が三基。いずれも唐破風笠付角柱型の像塔である。手前から庚申塔 元文元年(1736) 日月雲 正面中央をなだらかに彫り窪めてその中に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足下に邪鬼。その両脇に二鶏。下部に三猿。青面金剛の右脇「奉造立青面金剛供養塔」左脇には造立年月日が刻まれていた。

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塔の左側面下のほうに上板橋村 臺宿 講中廿二人と刻まれている。

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その奥 庚申塔 享保3(1718)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち八臂。下の台の正面に大きな三猿が彫られていた。

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八臂の青面金剛は意外と少ない。中程の手は右手に独鈷、左手に鈴だろう。足下両脇にしっかりとした二鶏。足下の邪鬼はあぐらをかいて斜に構え、なんだか凄みを聞かせているような恰好をしている。

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塔の右側面 梵字「ウン」の下 天下泰平 國土安寧 當所處無難諸民栄平、脇に造立年月日を刻む。右側面下部に三名、左側面下部に四名、合わせて七名の名前が刻まれていた。

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3番目 庚申塔 享保12(1727)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。下の手に弓矢の代わりに持っているのは羂索と袋のようなもの?これも珍しい形だ。足下、あまり原形を留めていないが、頭を左にした邪鬼ではないだろうか。その下には三猿を彫る。右脇に「奉彫刻青面金剛供養塔」左脇に造立年月日。

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左側面の下のほうに上板橋邑 講中 七人と刻まれていた。

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右列最後は 地蔵菩薩立像 安永4(1775)延命寺像型。真ん丸な顔が可愛らしい。

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台の正面「奉建立地蔵尊」右脇に造立年月日。左脇に施主は個人名。左側面 為两親菩提也。右側面 諸聖霊菩提也とあり続いて十個の日付が刻まれていた。十回にわたって法要をおこなったということだろうか。

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左の列は奥の二基が像塔。奥のほうから馬頭観音立像。つぼみの蓮華を左手に持った姿を一目見て丸彫りの聖観音菩薩立像だと思ったのだが・・・資料ではこれを馬頭観音としてあった。よく見ると頭上の宝冠の正面に「馬」と刻まれている。大きな台の正面に「常盤台観世音菩薩」紀年銘は見当たらない。

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その隣 大日如来立像 延宝4(1676)右脇に「権大僧都法印長栄菩提也」と刻まれている。資料には特に記されていなかったが、この法印長栄とは当山の開山で、寛文10年(1670)に亡くなったと「新編武蔵風土記稿」にあるという。となると歴史的にもこれは貴重な石仏と言えるだろう。左脇には造立年月日が刻まれていた。