岩槻区横根

路傍 岩槻区横根519付近


国道16号線の加倉(西)交差点から綾瀬川沿いの道を南に下る。妙見橋の東の信号交差点を越えると谷下から横根に入るが、この信号交差点の800mほど先の道路左側、雨除けの下に石地蔵が祀られていた。


地蔵菩薩立像 明和5(1768)光背右脇「奉造立地蔵大菩薩」その下に玉郡横根村上講中。さらに世話人二名の名前。光背左上に造立年月日。その下には先祖菩提 月心明清禅定尼。続けて金三分施主とあり、個人名が刻まれている。

横根庚申塚 岩槻区横根482


さらに150mほど南に歩くと道路右側、工場の事務所の脇に四基の石塔が集められていた。


南向きに二基。右 庚申塔 文化6(1809)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」下の台の正面に岩槻らしい自由なポーズの三猿を彫る。


塔の右側面に造立年月日。左側面に武州埼玉郡岩槻領横根村上講中と刻まれている。


左 庚申塔 享保6(1721)角柱型の石塔の正面を彫り窪めて、その上に日月雲。中に青面金剛立像を浮き彫り。塔部は白カビが多く、下の台には銘が見当たらない。


青面金剛立像 合掌型六臂。頭上には蛇の頭。後上左手にショケラを掲げる。


正面向きの邪鬼はかなりひしゃげていて腕のM字が崩れている。その下、別室に正面向きの三猿、さらにその下に二鶏が彫られていた。


塔の左側面に造立年月日。さらに左下に施主 横根村中。塔の右側面上部に梵字「バン」その下に「奉造立供養青面金剛像一躯二世安樂祈所」敬白と刻まれている。



東向きに二基。右 庚申塔 宝暦5(1755)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛はとがった三角形の髪型。


二鶏は比較的高い位置。雄鶏は邪鬼の足に止まっている。頬杖をつき青面金剛を見上げる大型の邪鬼はふてぶてしい。その下の三猿は両脇が内を向く形。


塔の左側面に造立年月日。右側面には庚申講十二人 念佛講中 横根村と刻まれていた。


左 順礼供養塔 享和3(1803)塔は全体に風化が進み文字を正確に読み取ることは難しい。上部には坐像が浮き彫りされているが観音菩薩だろうか?


塔の正面中央、近寄ってみても断片的に文字が読める程度。左に坂東、真ん中は西國か?その下にも文字が見え、一番下に塔とある。観音霊場順礼供養塔だろう。


塔の右側面、一部剥落が見られる。右上に造立年月日。その左に三行。右から「江戸道」真ん中はこしがや□リ半、左はのじま一リ半。下部に施主とあり二名の名前。塔の左側面にも二名の名前が刻まれていた。

 

北辰神社 岩槻区横根2383


浮谷にある目白大学のすぐ西に北辰神社がある。横根には北辰神社が二つあって、綾瀬川の妙見橋の近くにあるほうは「上組」こちらのほうは「下組」の北辰神社というらしい。地図で見ると目白大学のすぐ西になるが、実際に行ってみるとアプローチが難しく、ぐるっと回って南側から、畑の中のあぜ道のような細い道をたどってやっと鳥居のある場所に着いた。朱塗りの一の鳥居の奥に小さな二の鳥居、その奥に民家のようなサッシのある建物が拝殿になる。


拝殿の右側、うっそうとした竹林の前に境内社があり、その横に庚申塔が立っている。現場は昼なお暗い状況で、写真はなかなかうまくピントが合わせられない。


庚申塔 明和4(1767)角柱型の正面を彫り窪めて、その中に日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


彫りは厚みがあり、躍動感がある。頭上に蛇。頭には羽根の付いた被り物を付け、口をへの字にした三眼の青面金剛は正面をにらみつける。腕、足の細部まで丁寧な表現で衣装も立体的。


腰にショケラがしがみつく。足下には二匹の邪鬼。頭の側面を思い切り踏みつけられ、これは苦しいだろう。下部に二鶏、三猿もしっかりと彫られていた。


塔の左側面と下の台に銘は見当たらない。右側面に造立年月日。施主は個人のようだ。これだけの庚申塔を個人で造立するのだから、よっぽどの資産家だたのだろう。

養福寺跡墓地 岩槻区横根2341付近


北辰神社の入口から西に向かうと道は曲がりくねりながら下り坂になる。途中右手の奥にさびれた感じの墓地があった。廃寺になった養福寺の墓地らしい。墓地の前に庚申塔がポツンと立っている。


庚申塔 明和4(1767)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。白カビが多い。造立年も一緒、青面金剛の足の構え、腕を出して頭を踏まれる二基の邪鬼など、先ほどの北辰神社の庚申塔と似通ったところも見られる。


こちらの邪鬼は左が頭の側面を踏まれて頭を傾けているのに対し、右の邪鬼は頭頂部を踏まれながらも何か余裕の表情で微笑みを浮かべているように見える。二鶏も、この庚申塔では青面金剛の足の両脇に彫られ、邪鬼の下の三猿はそれぞれの間に仕切りがもうけられていた。塔の右側面に造立年月日。左側面には横根村下講中と刻まれている。


右奥のお堂の前に古い石灯籠が立っていた。その脇に倒れた石塔が見える。


石灯籠 元禄5(1692)正面中央に「奉寄進石灯籠・・・・」個人の供養のためのもののようだ。上部両脇に造立年月日。右下には横根村。左下には個人名が刻まれていた。


その横に倒れていたのは一石六地蔵塔。下の台の正面に大きく念佛講と刻まれている。


一石六地蔵塔 嘉永2(1849)正面を彫り窪めた中に六体の地蔵菩薩立像を美しく浮き彫り。上部に笠のあった痕跡が見えるが近くにそれらしきものは見当たらなかった。


塔の右側面に造立年月日。下部に横根村。左側面にはカナ文字が刻まれているが内容についてはよくわからない。


墓地の左奥に卵塔などと一緒に二体の石地蔵が立っていた。


丸彫りの地蔵菩薩立像 宝永4(1707)基礎の上に二段の台と蓮台を持ち、合わせると2mを越す。


上の台の正面 右「奉造立地蔵尊能化□」中央に「道有皆目?□念佛供養」左「刻彫伏祈二世安樂也」台の左側面には横根村同行三十二人と刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像 元禄15(1702)舟形の光背に美しい地蔵菩薩立像を浮き彫り。頭の後ろに輪光背、その中に梵字「カ」錫杖の柄の部分に五輪塔が彫られているのは珍しい。光背右脇「奉造立為地蔵菩薩念佛供養二世安樂」左脇に造立年月日。左下に横根村。足の下の部分に七名の名前が刻まれていた。