西区中野林

植水小学校入口墓地 西区中野林183向[地図]


林光寺の西、植水小学校の入口の交差点の角に墓地があった。写真右の道を行くと植水小学校、前の道を西に進むと観音寺の前に出る。


門扉をあけて墓地に入ると左手に五基の石塔が並ぶ。そのうち三基は墓石だった。


左から2番目 順礼供養塔 寛政11(1799)背の高い隅丸角柱型の石塔の正面、梵字「アーク」の下「南無遍照金剛奉順禮四國西國秩父坂東神社佛閣供養塔」


上部両脇に造立年月日。


続いて両脇に信士・信女戒名とその命日。


下部右下に足立郡中野林村、左下に願主 浄圓と刻まれていた。


その隣 大乗妙典供養塔 寛政8(1796)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉納大乗妙典供養塔」光背は上部が大きく欠けている。


背面中央 助力善男女。その両脇に造立年月日。その下、足立郡中野林邑とあり、三名の名前が刻まれていた。

観音寺 西区中野林210[地図]

水判土観音慈眼寺前の水判土交差点から県道57号線三条町交差点を結ぶ「観音通」水判土交差点から400mほど南の信号交差点の角に観音寺があった。山門の右側が駐車場の入口になっていて、山門が閉まっていてもそちらから境内に入ることができる。


山門の裏、東側の脇に二基の石仏が並ぶ。右側の立派な像塔は昭和になってから造立された新しいもので墓石だった。

庚申塔 正徳6(1716)台の上に四角い蓮台を重ね、宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


蛇冠・三眼の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢とノーマル。


足の両脇に二鶏を半浮き彫り。頭と背中を踏まれた邪鬼は、右足を後ろに伸ばす、これは時々見かける構図。その下に両脇の二匹の猿が内を向く三猿。こちらは白カビにまみれていた。


塔の左側面に造立年月日。その下に施主 三拾人。


右側面には武州足立郡植田谷領中野林村と刻まれている。

 

観音寺霊園 西区中野林476[地図]


大宮光稜高校の100mほど西、住宅街の中に墓地があった。アプローチは難しく、西の細い道路から路地に入って奥の入口にたどり着く。


墓地にはいりお堂の脇を通って進むと、動線に三基の石塔が並んでいた。写真奥のブロック塀の裏に「観音寺駐車場」の看板がかかっていて、こちらは観音寺の境外墓地らしい。


右 地蔵菩薩立像。白カビが多く、顔もはっきりしない。薄い台の上に角柱型の石塔。その上に地蔵菩薩塔だが、遠目にその足元のあたりがなんだかおかしい。


地蔵菩薩像は蓮台ではなく敷茄子の上に立っていて、その敷茄子の正面に蓮の花びら?が浮き彫りされていた。これは初めて見るケース。


角柱型の石塔の正面「念佛講中」右脇に施主禅久、左脇に教誉念西。僧名だろうか?その下の薄い台の正面にも銘が見えるが読みにくい。中央は「施主村中」だろう。その右のほうに宝暦のように見えるが確証はない。いずれにしても江戸時代中期の造立と思われるが・・・


塔の両側面の銘も難読。左側面右上に飯田新田とあり、その横に三名の名前。右下に當村とあり八名の名前。


右側面はさらに隙間が狭いため四苦八苦、手前から新田村中、八王子村、三条町村、嶋根村などの銘をやっと確認することができた。


隣の丸彫りの地蔵菩薩塔は銘らしきものはなく詳細不明。左の石塔は全体に風化が著しく進みこちらも銘はまったく見当たらない、正体不明塔である。

観音寺霊園北路傍 西区中野林483近く[地図]


観音寺霊園の北の畑の隅、雨除けの下に石塔が東向きに立っていた。


庚申塔 安永7(1778)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。小型だが像のバランスはよい。


丸顔の青面金剛。頭上には蛇だろうか?持物は矛・法輪・弓・矢。こちらはノーマル。


足元付近に白カビが積もり、経年による風化もあって下部ははっきりしない。邪鬼らしいものはなんとか見える。青面金剛の右足は邪鬼の頭部、左足は腰のあたりを踏んでいるようだ。邪鬼の下のでこぼこしている部分、もしかしたら三猿かもしれないが、そう言い切るだけの自信はない。


塔の右側面 武州足立郡植田谷領 三条町村。


左側面に造立年月日。その下に二名の名前が刻まれていた。

 

旧薬師堂墓地 西区中野林511[地図]


前回見た観音寺霊園北路傍の庚申塔から西へ進み、200mほど先を左折すると左側に墓地があった。


墓地に入るとすぐ左手に三基の石塔が南向きに並んでいる。


右 庚申塔 宝暦3(1753)隅丸角柱型の石塔の正面 上部に日月雲。梵字「ウーン」の下に「青面金剛供養塔」両脇に天下泰平・國土安穏。


塔の最下部に三猿。両脇が内を向いて座る。台の正面には蓮華が彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。その下に願主 最勝院現住弘泉。資料には旧薬師堂墓地となっているが、元は最勝院墓地だったのかもしれない。


塔の左側面 武州足立郡植田谷領中野林村 講中十五人と刻まれている。

その隣 地蔵菩薩塔 享保17(1732)四角い台の上、角柱型の石塔に正面に彫り物を施した立派な敷茄子、蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像。


静かな表情のお地蔵様。背中の輪光背が大きく欠けていた。宝珠も割れ、蓮台に下した左足の先もなくなっている。


石塔の正面「奉彫刻地蔵尊一軀 爲二世安穏也」台の正面に講中十二人。さらに願主二名の名前が刻まれていた。


塔の右側面は無銘。左側面に偈文。裏面に武州足立郡植田谷領中野林村。横に造立年月日が刻まれている。

左 住職墓石。隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に五輪塔を半浮き彫り。その下に法印弘泉不生位。右に立っていた庚申塔の文字塔の願主の墓石である。明和5(1768)の紀年銘=命日刻まれていた。


墓地の西のブロック塀の前に朽ち果てた六地蔵塔が並んでいる。六体の丸彫りのお地蔵様はいずれも首がもげた跡があり、なかには補修さえされなかったものがある。なんとも痛々しい。

日本郵便輸送東路傍 西区中野林571[地図]


県道56号線の光善寺墓地あたりから県道57号線を南北に結ぶ細い道路。途中の十字路の北東の角に石塔が立っていた。


道標 大正2(1913)銘はかなり薄く読みにくい。角柱型の石塔の正面右に至 本村大字植田谷本及嶋根經大久保村。その左に至 馬宮村經二ツ宮。


塔の左側面 手前に至 本村・・・・三条町及堤防。奥に至・・村 飯田・・・


右側面奥に造立月日。手前に植水村青年団中野林支部建之と刻まれていた。