田柄・旭町の石仏

田柄高校角交差点東三差路 練馬区田柄4-34


田柄緑地の南の三差路の角、白いフェンスの前に庚申塔が立っていた。写真右の道路を行くと下赤塚付近で旧埼玉道に、その先が北町になる。

庚申塔 元禄12(1699)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


白カビは見られるものの全体に彫りは厚く明快で、各部のバランスもよく本格的な庚申塔。三角頭で目を剥き口をへの字に結ぶ青面金剛。頭上に梵字「キリーク」像の右脇「奉造立庚申 一基諸願 成就祈所」左上に造立年月日。左下に上練馬内田柄村 同行十一人。


足の両脇に二鶏を半浮彫。青面金剛は磐座に立ち、邪鬼は見当たらない。元禄期の庚申塔、特に練馬区あたりでは邪鬼不在のものを多く見かける。下部に三猿が押しつぶされるように彫られていた。

田柄小学校西路傍 練馬区田柄2-13


上の庚申塔の立つ三差路から東へ400mほど、田柄小学校のすぐ西の交差点の角に庚申塔が立っている。


庚申塔 宝暦14(1764)駒形の石塔の正面 梵字「ウン」の下 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。



三角頭の青面金剛の顔はつぶれ、剣とショケラを持つ手はいずれも破損。風化のためもあるだろうが、他の部分が比較的きれいに残っていることから考えると人為的なものかもしれない。


足の両脇にしっかりと二鶏。大きな邪鬼があおむけに横たわり顔と膝のあたりを踏まれている姿は痛々しい。下部の三猿は左の聞か猿が右向き、中央の見猿と右の言わ猿が左向きに座る。


塔の右側面に造立年月日。左側面 武州豊嶋郡上練馬村神明ヶ谷戸 講中拾七人と刻まれていた。こうやって横から見ると像の彫りの厚みがよくわかる。

富久江地蔵 練馬区田柄2-25


さらに東に進むと田柄小学校の先で右に狭い枝道が分かれる。この枝道に入り150mほど先の角に小堂が隠れるように立っていた。


「子守富久江地蔵」と書かれた小堂の中、地蔵菩薩立像。大きな福耳が印象的。紀年銘は確認できないがそんなに古いものではないような気がする。名前の由来などはっきりしないが、堂内には千羽鶴が下がり、お花も供えられていて、その信仰の厚さがうかがえる。

 

光が丘美術館入口 練馬区田柄5-27-25


都営大江戸線光が丘駅の東にある光が丘消防署前交差点のすぐ東の狭い道を北へ入ると、北野神社の隣に光が丘美術館がある。入口の左脇に大きな文字塔が、その奥にも四基の石塔が並んでいた。


馬頭観音塔 文化元年(1804)二段の台を持つ雄大なスケールの角柱型石塔。正面に篆書体風の文字で「馬頭觀世音菩薩」


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。さらにふきあげ道と刻まれている。


上の台の正面 武州豊嶋郡 練馬村 田柄講中三・・ 中之宮講中二・・ □□講中・・・□谷講中弐人などの銘が見える。かなり広い範囲の村々がこの石塔の造立に協力したのだろう。左側面には世話人の名前が刻まれていた。


奥のブロック塀の前に四基の石塔が並ぶ。左端 馬頭観音塔 安政4(1857)角柱型の石塔の正面 中央に「馬頭觀世音 位」両脇に造立年月日。塔の右側面は無銘。左側面に施主の名前が刻まれている。


その隣 馬頭観音塔 文化5(1808)上隅を丸くした角柱型の石塔の正面 梵字「ウン」?の下に「南無馬頭觀世音菩薩 観音講中」右脇に武州豊嶋郡上練馬邑上田柄。


残りの二基の石塔は像塔。左 馬頭観音立像 宝暦5(1755)忿怒相六臂。


頭上の馬頭は鼻先が欠けているがしっかり彫られていて明快。馬口印を結ぶ忿怒相の馬頭観音様は力強い。右脇に武州豊嶋郡 上練馬村内、左脇には造立年月日が刻まれていた。


右 庚申塔 享保9(1724)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。白カビがこびりつき、風化のために摩耗が著しい。


青面金剛の顔も大きなショケラも苔にまみれている。石塔の右側、縁ぎりぎりのところに「奉造立庚申供養 為二世安樂也」さらに続けて造立年月日。


石塔の左側 これも縁ぎりぎりのところに武州豊嶋郡上練馬上田柄村 講中□□人。講の下の部分は薄くはがれているが文字はかろうじて残っていた。さらに願主個人名が刻まれている。


青面金剛の足元にはモグラのように邪鬼がうずくまり、その下には三猿が彫られていた。

光が丘四中南住宅脇 練馬区田柄5-23


光が丘美術館の前の道をさらに北へ進むと光が丘四中の前の広い道路に出るが、その直前、右に狭い路地を入ると、左側の住宅の脇に庚申塔が立っていた。写真の奥に中学校の校舎が見える。


庚申塔 元禄11(1698)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の顔はつぶれている。像の表面は風化のために摩耗、剥落が見られ、銘も読みにくい。


塔の最上部、青面金剛の頭上、日月の間に「奉造立□□」下は完全な形では残っていないが「庚申」だろうか。塔の右の方、月天の脇に諸願成就と見えるがその前後は読み切れなかった。


塔の中央部両脇には造立年月日が刻まれる。青面金剛の合掌した手のかげ、左肩から右わき腹にかけて帯のようなものを着けている。時々ドクロの首輪をかけた青面金剛を見るが、ここでは真ん丸な顔が並びドクロには見えない。これはなんだろう?


下部両脇にも文字らしいものが見えるがここが一番読みにくかった。右は武州豊嶋郡。。。。だろうか?左は人の名前のように思えるがこれもはっきりしない。青面金剛に背中を踏まれた邪鬼は頭を抱えてうずくまり、その下には三猿が彫られていた。

 

阿弥陀堂墓地 練馬区田柄2-7


田柄小学校の100mほど南、住宅街のブロックの北西の角に阿弥陀堂の墓地があった。天祖神社の50mほど東になる。


入口から入ってすぐ左、黒いフェンスの前に三基の石塔が並んでいる。右の石塔は享保15年の銘がある個人の墓石だった。


左 大乗妙典六十六部供養塔 享保4(1719)駒型の石塔の正面を彫りくぼめて、中央に「奉納大乗妙典六十六部供養」右脇に武州練馬村願主上野□□。左脇に造立年月日。下部に大きな蓮の花が彫られている。


中央 地蔵菩薩立像 享保7(1722)丸彫りだが大きな欠損は無い。丸顔で額には白毫、細い眼、大きな鼻とふくよかな頬、口元は緩み、福笑いのようなユーモアのある顔は、どこか人間臭い感じがする。


台の正面 中央に「奉造立地蔵大菩薩一躯」両脇に造立年月日。その下、両脇に願主は個人名。さらに右下、上練馬之内神明ヶ谷戸村、左下に講中二十人と刻まれていた。

田柄中学校東歩道 練馬区田柄1-1-16


都営大江戸線光が丘駅付近から有楽町線平和台駅方面にまっすぐ東に向かう道路は、交通量も多くバス道路になっている。田柄一丁目交差点と練馬東中北交差点のちょうど真ん中あたり、南側の歩道に車道に背を向けるように庚申塔が立っていた。


上部が破損していてはっきりしないがたぶん駒型の石塔だろう、正面に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


青面金剛の髪は逆立ち、その真ん中に蛇がとぐろを巻く。合掌する第1手、第2手に鉾と法輪、弓矢を持つ第3手、その指の先まで丁寧に彫られていて生き生きとしている。


足元はやや風化が進み摩耗している。邪鬼は両手両足を踏ん張って青面金剛の重さに耐え、その下には三猿が彫られていた。


塔の両側面に渡って造立年月日。右側面にはさらに武州豊嶋郡上練馬村田柄 講中拾一人。左側面下部に願主 個人名が刻まれている。

田柄不動尊 練馬区田柄3-13-1


川越街道の赤塚新町三丁目交差点から光が丘公園の東を通って南に下り練馬春日町に至る道も、かなりの交通量でやはりバス道になっている。光が丘駅と平和台駅をつなぐ東西に走る道との信号交差点から200mほど南、左に折れる狭い道に入るとすぐその先に田柄不動尊があった。春日町にある愛染院の境外仏堂らしい。


お堂の左脇から回るとその奥には墓地があるが、その左脇のブロック塀の前に二基の石塔が並んでいた。


左 如意輪観音坐像。大きな舟形の光背に二臂の如意輪観音を浮き彫り。ふくよかで穏やかなお顔をしている。


資料ではこの観音像の造立年は宝暦年間となっていた。観音様の頭の先の左、確かに寶歴八と見える。ところがさらにその上の部分に延寶二と刻まれていた。延宝2(1674)と宝暦8(1758)では80年以上の隔たりがある。紀年銘が二つある場合、古いほうが命日でその供養のために後から造塔したものと考えることができるが、その場合年の隔たりはせいぜい10年くらいのものだろう。もう一つは古い石仏に後から銘が後刻されたケース。舟形の光背は大きく、空間に余裕があることから延宝年間のほうを採りたい気がするが、文字が薄くうまく読み取れないため本当のところはわからない。


その隣 庚申塔 安永9(1780)角柱型の石塔の正面 日月雲の下に「青面金剛尊」台は二段になっていて上の台の正面に三猿。風化のためと思われるが頭部が欠けている。台の上の面にはたくさんのくぼみ穴が穿たれていた。


塔の両側面に造立年月日。左側面には続いて武州豊嶋郡上練馬村と刻まれている。


正面に三猿が彫られた台の右側面、奥に南 なかむら道、手前に講中二拾壹人。左側面には 北ふきあげ道。さらに願主二名の名前が刻まれていた。


お堂の裏に回ると墓地の前にたくさんの舟形光背型の石仏、その後ろには丸彫りの六地蔵と大きな舟形光背型の地蔵像が整然と並んでいた。手前の多くの石仏は無縁仏のようだ。丸彫りの六地蔵は六体とも背中に銘があるが、ブロック塀との間の隙間が狭く読み取ることはできなかった。


六地蔵の中央 地蔵菩薩立像 寛政3(1791)舟形光背に延命地蔵を浮き彫り。大きな欠損も見えず美しい。


下の台の正面中央 成圓法師。両脇に造立年月日。さらに上田柄 講中と刻まれていた。

 

上練馬公園 練馬区旭町2-28


光が丘公園の北の住宅街の中に旭町小学校がある。その西の傾斜地に整備された大きな上練馬公園。その植え込みの中に石塔が立っていた。


聖観音立像 享保13(1728)角柱型の石塔の上、蓮台に立つ丸彫りの観音様。資料によると光が丘公園西のはんの木緑地あたりにあった稲荷神社にあったものらしい。今は稲荷神社は無く、新しい大きなマンションが立っていて、その造成に際してこちらに移されたものだろうか。


マントをかぶった観音様、左手に蓮の花、右手は与願印。大きな欠損は無くよく整っている。


石塔の正面中央「六十六部供養佛」全体としては六十六部供養塔ということになる。両脇に天下泰平 國土安全。さらに願主 道法 敬白。右側面に願文。


左側面 手前に武州豊嶌郡土支田八丁堀村 加藤作兵衛。奥には造立年月日が刻まれていた。

はんの木緑地西路傍 練馬区旭町2-9


光が丘公園の西を回る広い道から、練馬東税務署の先の細い道を西に入って坂道を下り、またその先を登り切った角の大きなマンションの一角に小堂が立っていた。マンションの前の道は練馬区と和光市の境界線となっている。


小堂の中 右 庚申塔 元禄9(1696)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面を彫りくぼめてその中に 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


青面金剛の顔はつぶれ、全体に摩耗している。右下に武刕豊嶋郡土支田村、左下に造立年月日。足元には邪鬼だけが彫られ、二鶏・三猿は見当たらない。邪鬼の下の部分には9名の名前。


塔の右側面に「奉造立石塔庚申供養二世安樂祈所 欽言」と刻まれていた。


左 馬頭観音塔 明治14(1881)風化が進み剥落が著しく銘はほとんど読めないが、かろうじて紀年銘が確認できる。ここまで溶けてしまっているにもかかわらず、いつ行っても必ずなにがしかお供え物がされていた。仲台寺 練馬区旭町1-20


光が丘西大通りと笹目通りに挟まれた地域が旭町1丁目になる。西大通りを南に下ってきて、光丘高校の少し南の狭い道をを西に入った先に仲台寺の入口があった。入口左脇に安永6年造立の寺標が立っている。入口の正面が本堂、参道左奥が墓地で、墓地側の塀の前に石塔が並んでいた。

入口を入ってすぐ左に宝篋印塔 安永8(1779)大きな基壇の上にそびえたつ。屋根式の笠を持ち、塔身部と基礎にそれぞれ蓮台と敷茄子と豪華な構成。塔身部四面に梵字、基礎正面には中央に「宝篋印塔」その両脇に二つの戒名が刻まれていた。


基礎の側面に造立年月日。続いて導師、施主名が刻まれるが、施主のところは巣鴨本村となっている。仲台寺はもともと田端にあったお寺で、昭和36年にこちらに移転してきたらしい。


敷茄子にも細かい装飾が施され、反花の付いた台の四面には獅子などの彫刻が彫られていた。


その奥、手前に大きな二基の舟形光背型の石仏が立つ。さらにその向こうには三基の石塔が並ぶが、そちらの三基はいずれも個人の墓石だった。


左 庚申塔 寛文8(1668)如意輪観音を主尊とする庚申塔は大変珍しい。


寛文期らしい大きな舟形光背の上部、梵字は「キリーク」のようだ。その下に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。尊顔は瑞々しく穏やか。光背右脇「奉待庚申爲二世安樂也」左脇に造立年月日。


蓮台の下の部分に多くの名前が刻まれ、その下の台の正面には三猿が彫られていた。


右 地蔵菩薩立像 元禄5(1692)お地蔵様の立つ蓮台の正面の花弁に造立年月日が刻まれている。


光背上部に梵字「カ」卵型の顔に円頂、額に白毫、錫杖宝珠を持ち、その表情は峻厳。延命地蔵の典型的な形を示す。


墓地を取り囲む白壁のコーナーに二基の石仏、その奥には本堂のほうに向かって江戸時代の紀年銘を持つ17基の石仏が並んでいるが、いずれも個人の供養のための墓石だった。


コーナーの二基。左 地蔵菩薩立像、右 聖観音立像。ともに正徳三年(1713)の銘を持つ。それぞれに戒名が刻まれ墓石と思われるが、舟形光背、像の大きさも揃い、二基の造立はなにかつながりがあるのだろうか。

本堂の左手前、多くの舟形光背型、板碑型の石塔が集められた無縁塔があった。その右手前には「南無阿弥陀佛」と刻まれた自然石の石塔、頂上には大きな舟形光背を持った阿弥陀如来像が悠然と立っている。


阿弥陀如来立像 寛文8(1688)光背上部に阿弥陀三尊種子。両脇に造立年月日。像の彫りは繊細かつ明快。細部までゆるみの無い端正なお姿は本当に美しい。光背下部両脇に男女二名の戒名があり、「逆修」の文字があった。ご夫婦が逆修供養のためにこの立派な阿弥陀如来像を造立したものらしいが、その信仰心の厚さとともに、財力もまた相当のものであったと考えられる。


無縁塔の正面最前列右端、勢至菩薩立像 元禄17(1704)阿弥陀如来の脇侍ではなく独尊の勢至菩薩像はあまり見たことがない。このブログを始めてから見たのは中野区沼袋の実相院くらいだろうか(2018.02.02の記事参照) 個人の墓石ではあるが貴重な石仏と言えるだろう。


光背上部に梵字「サク」その下に合掌する勢至菩薩立像を浮き彫り。光背右に戒名、左脇に造立年月日が刻まれていた。