下石神井・上石神井の石仏

石神井南中学校南東住宅脇 練馬区下石神井1-9


新青梅街道と千川通りの交差点「井草四丁目」のあたりから北へ100mほど、石神井南中学校の南東の交差点を東に入ってすぐ、道路左側の住宅のブロック塀に二基の石塔が並んでいた。


左 庚申塔 元禄13(1700)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ?持ち六臂。全体にがっちりした印象を受ける。


青面金剛の顔はつぶされていた。左手に持っているのはショケラの頭部か?体のほうが欠けてしまったのかもしれない。日月の下の横に「庚辰」庚申のことだろう。両脇に造立年月日が刻まれている。


足元には貧弱な邪鬼。その下の三猿のほうが大きくて存在感がある。三猿の下の部分、右端に下石神井村とあり、施主は個人名。左のほうに同行十二人と刻まれていた。


右 馬頭観音立像 宝永3(1706)舟形の光背、右上を大きく欠く。白カビも多く、足元は風化のためか溶け出している。光背右脇、上部が欠けているため銘は完全ではないが「(奉造立)馬頭観音二世安樂」左脇に造立年月日。右下に願主は個人名。左下に□□十七人と刻まれていた。


光背同様に像の損傷も著しい。頭上の馬頭も削られ、顔も破損。馬口印を結ぶ手の様子もはっきりしない。

天祖神社 練馬区下石神井6-1


石神井南中学校の北西200mほどのところに下石神井小学校がある。その北側、道路を隔てた向かいの天祖神社。境内南東の隅のほうに三基の石塔が並んでいた。


右から享保2(1717)舟形光背、梵字「カ」の下に錫杖・宝珠を持った地蔵菩薩立像を厚く浮き彫り。江戸時代初期のお地蔵様の錫杖はかなり長いが、享保期あたりになると短くなって肩あたりの長さの場合が多い。光背も初期に比べるとだいぶ小さくなって、お地蔵様の周りの空間が狭くなるようだ。


像の表面は摩耗のため漠然としている。光背右脇「奉造立地蔵菩薩二世安樂所」左脇に造立年月日。右下に武州豊島郡、左下に下石神井村と刻まれていた。


中央 庚申塔 延宝2(1674)宝珠付きの唐破風笠を持った角柱型の庚申塔。


正面を凝った形に彫りくぼめた中、上部に日月雲、中央に梵字7文字が並ぶ。その両脇に造立年月日さらにしっかりとした二鶏と三猿。塔の下部には講中施主とあり、続いて24名の名前が刻まれていた。


塔の両側面には大きな蓮が彫られている。右側面にはその脇に武州豊島郡石神井郷神明村と刻まれていた。


左 二十三夜待供養塔 文化13(1816)角柱型の石塔の正面中央に「廿三夜待供養」両脇に造立年月日。


上部を舟形に彫りくぼめた中に蓮台に座る勢至菩薩像を浮き彫り。顔は破損しているものの彫りは細かくきれいに残っている。


塔の左側面は無銘。右側面に武州豊島郡下石神井村。


下の台の左側面に願主三名の名前。正面と右側面に合わせて17人の名前が刻まれていた。

 

くらまえ緑地東路傍 練馬区下石神井5-7


富士街道の石神井中学校前交差点から南へ向かう都道444号線は旧早稲田通り、新青梅街道を横切って、西武新宿線の上井草駅の西で千川通りに合流する。石神井公園の間を抜け、新青梅街道へ出る少し手前の下石神井小西交差点を左折して200mほど進むと、道路右側のT字路の角のところに小堂が立っていた。


庚申塔 享保12(1727)丸彫りの青面金剛立像は極めて珍しい。東京都では3例しかないという。さいたま市では緑区中尾で見かけたのが最初で、その後いくつか見かけたがすべて坐像だった。


右手に錫杖、左手に宝輪だろうか。右手と腹部に白く補修跡が見える。丸彫りだからある程度破損は免れない。


足元に丸顔の邪鬼が這いつくばり、その下にかわいい三猿。さらにその下両脇に二鶏だろう。台の正面、中央に「奉待庚申」左右両端にわたって造立年月日。右脇に武州豊島郡下石神井村、左脇に願主は個人名、続いて講中三十四人と刻まれていた。

下石神井小学校南路傍 練馬区下石神井5-2


新青梅街道の下石神井四丁目交差点から北へ向かうと、やがて天祖神社、下石神井小学校の前に出る。その途中、交差点から100mほど、道路左側の交差点角に小堂が立っていた。


小堂の中、不動様の左に地蔵菩薩立像 元禄11(1698)きれいな形の舟形光背に端正な顔立ちの地蔵菩薩像を浮き彫り。堂の入口はしっかりと鍵がかかっているので、扉の格子の隙間から何枚か写真を撮ってみたがなかなかピントが合わなかった。


光背左脇に造立年月日。右脇はうまく読めないが下のほうに施主廿一人と刻まれている。どうやら講中仏のようだ。

 

上石神井駅南東千川通り路傍 練馬区上石神井1-3


千川通りは上井草駅の西で一度左に曲がって西武新宿線の踏切を渡り、またすぐ右に曲がって西に向かう。踏切から500mほど先の交差点の角のところに小堂が立っていた。


扉にはしっかりカギがかけられていて、外からは格子越しに中の様子をうかがうしかない。駒型の石塔の正面 庚申塔 宝永2(1705)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


左脇に造立年月日。右脇に「奉造立南無帝釋天王」と刻まれている。となると青面金剛ではなく、帝釈天とすべきだろうか?


足元に邪鬼、二鶏の姿はなく、荒削りな三猿だけが彫られていた。その右脇に上石神井村 願主とあり個人名、左脇には同十八人と刻まれている。

千川通り立野橋交差点北東角 練馬区上石神井1-11


千川通り、西武新宿線上石神井駅の南にある立野橋交差点北東の角に小堂が立っていた。


小堂の中には二基の石塔が並んでいる。左 庚申塔 宝永元年(1704)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上の庚申塔と造立年は一年違いで、とてもよく似ている。


日月雲は線刻。後ろの二組の腕とその持物は半浮彫。青面金剛は邪鬼ではなく磐座の上に立つ。右脇に「奉造立庚申供養尊像一基願望成就所」左脇に造立年月日。


磐座の下に大きめの三猿を彫る。さらにその下の部分に武刕豊嶋郡 上石神井之内 立野村 結衆三十二人と刻まれていた。


右 出羽三山・百八十八ヶ所霊場供養塔 天保13(1842)正面は特にカビや傷が多く文字は極めて読みにくい。ゆっくりと見ているうちに何となく全体が読み取れるようになった。


上部に梵字が三つ、その下、中央に湯殿 三山大権現、右下に月山、左下に羽黒。梵字とその下の三山が対になっている。中央の梵字「アーンク」は湯殿山の本地仏である大日如来、右の「キリーク」は月山の本地仏である阿弥陀如来、左の「サ」は羽黒山の本地仏である聖観音菩薩を表すもの。この部分は出羽三山供養を表現したものと言えるだろう。


その下、右から四國 西國 坂東 秩父と横に並び、中央、上の三山大権現にすぐ続けて「百八十八ヶ所」となる。その下に三行。中央は「観世音菩薩□□□」これが上の「百八十八ヶ所」に続くので百八十八ヶ所観音と読みたくなるのだが、観音霊場は百ヶ所であって、四國八十八ヶ所は観音霊場ではない。右に「南無大師遍照金剛」と見える。こちらが四國に対応し、左の「光明真言三万遍」が出羽三山に対応するものと考えるとわかりやすいと思うのだがどうだろうか?


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州豊嶋郡 上石神井村立野とあり、その横に個人名が刻まれていた。