貫井・向山の石仏

圓光院 練馬区貫井5-7-3


環八通りの練馬中央陸橋交差点から目白通りを目白方面へ向けて600mほど進むと、道路左手に圓光院の入口があった。両脇に大きな寺標が立ち、参道の奥に山門が見える。


鮮やかな朱塗りの山門の両側には多くの石仏が立っていた。


山門の左側、道沿いに八基、奥のほうに七基の石塔が並んでいる。


左から 馬頭観音塔 昭和2(1927)塔の正面に「南無馬頭觀世音」右側面に造立年月日が刻まれていた。


その隣 馬頭観音塔。こちらは塔にも台にも紀年銘が見当たらない。あるいは台の側面にあるのかもしれない。塔の正面「馬頭觀世音」


続いて馬頭観音塔 大正12(1923)塔の正面 梵字「カン」の下に「馬頭觀世音菩薩」両脇に造立年月日。


続く二体の丸彫りの地蔵菩薩立像。こちらも紀年銘が見当たらず詳細は不明。ともに頭の後ろに円形の光背を負い、大きさは違うものの作風はよく似ていて、まるで親子のような様子で並んでいる。資料には二体とも記載されていない。


その隣 光明真言供養塔 文化8(1811)六面幢に文字で六観音を刻み、その上に如意輪観音坐像を載せて七観音とした石塔。准胝観音を含む真言系の六観音に楊柳観音を加えている。


舟形の光背は一部が剥落。右脇にかろうじて「□□真言供養塔」左脇に薄く造立年月日が残っていた。


台の正面に願主二名の名前。続いて講中十七人と刻まれている。右側面にはこの石塔が昭和5年に字田島の共同墓地から圓光院に移されたいきさつと、その改葬移転にかかわった人たちの名前が刻まれていた。


続いて標石が二基並ぶ。左は寺標 文化7(1810)角柱型の石塔の正面に大きな字で「子聖觀世音」圓光院の観音堂に祀られた観音様は「子ノ聖観世音」と称し、馬の護り本尊として信仰を集めたという。下部に南池山 圓光院と刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には地内商人講中。商人たちにとって物資の輸送に馬は欠かせないものだったということだろう。


右 豊島八十八ヶ所霊場標石 明治41(1908)角柱型の石塔の正面「豊島八十八ヶ所 第十一番霊場」豊島八十八ヶ所霊場は、愛染院第17世亮意が、明治40(1907)に開いたもので、旧豊島郡にある弘法大師ゆかりの八十八ヶ所の寺院を祈願のために参詣するもの。右下に十五番 南蔵院ヘ十五丁、左下に十七番 長命寺ヘ十八丁と刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。その下に現住 宥本。左側面に願主三名の名前が刻まれている。

 


山門の左脇、二つの標石の裏、東向きに五基、南向きに二基、合わせて七基の石塔が集められていた。


東向きの五基の左端 大乗妙典六十六部供養塔 明和7(1770)上部を丸くした角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲「奉納大乗妙典六十六部日本回國供養」上部右脇に天下泰平、左脇に國土安全。右下に造立年月日。左下には法名が刻まれている。


その隣 庚申塔 宝永元年(1704)笠付きの角柱型の石塔の正面、梵字「ウン」日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。三角形の髪型をした三眼の青面金剛。顔はややつぶれている。


足の両脇に二鶏を薄く線刻。背中に青面金剛を載せて横たわる邪鬼はどこか力ない。その下には比較的大きな三猿が彫られていた。


両側面には蓮の花が彫られている。端のほうに「奉造立庚申供養二世安樂所」その下に武州上練馬之内。


左側面の端に造立年月日。続いて田嶌村施主十二人と刻まれていた。


続いて 庚申塔 元禄5(1692)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔の中ほどに断裂跡。


ただの合掌型ではなく第2手右手にショケラを持つ「岩槻型」だった。埼玉県外でこの形を見るのは初めてかもしれない。像の右脇に「奉造立庚申供養二世安樂所」左脇に造立年月日。


足の両脇に二鶏を半浮き彫り。青面金剛の立つ磐座の下に正面向きの三猿が彫られ、その両脇に武州豊嶋郡 上練馬内田嶋村、三猿の下の部分に11名の名前が刻まれている。


その奥に馬頭観音塔 大正14(1925)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」左側面に造立年月日。施主は個人名が刻まれていた。


東向きの五基の一番右 六十六部供養塔 享保11(1729)上隅丸角柱型の石塔の正面を二段に彫りくぼめた中、最上部に梵字「ア」続いて日月雲を線刻。中央「大乗妙典六十六部供養諸願成就処」右脇に長州豊浦郡□石村 行者自快。山口県の生まれだろうか。左脇に造立年月日。続いて俗名が刻まれている。


南向きに立つ二基のうち左 庚申塔 元禄6(1693)立派な相輪を持つ唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


江戸初期のものなのに白カビも目立たず彫りもはっきりしている。三角形の髪型、三眼の青面金剛が目を剥く。足元の邪鬼は青面金剛に踏まれながらも不敵に前をにらみつけている。その下にほのぼのとした大きな三猿が彫られていた。


塔の右側面中央に「奉待庚申供養二世安樂祈」両脇に造立年月日。


左側面には武州豊嶋郡上練馬之内 貫井村結衆三十六人 敬白と刻まれている。


右 百ヶ所順礼供養塔 安永7(1778)上隅丸角柱型の石塔の正面、梵字「サ」の下に「奉造立西國秩父坂東百箇處順礼供養塔」上部両脇に造立年月日。下部にも文字らしいものが見えるが読み切れなかった。百ヶ所の観音霊場順礼をやり遂げた施主の名前だろうか。

 


山門右側にも多くの石仏が並ぶ。こちらには主に地蔵像が集められていた。


左から地蔵菩薩立像 享保12(1727)丸彫りだが欠損なく整っている。端正でふくよかな丸顔は慈愛に満ちている。重厚な蓮台、敷茄子の下の台の正面中央に「奉造立地蔵尊像」右下に願主、左下に常念と刻まれていた。


台の左側面に上練馬之内 貫井村。右側面には造立年月日が刻まれている。


続いて六地蔵菩薩立像。丸彫りの立像という点は共通だが、大きさ、台の様子など、不揃いな感じは免れない。


左から二基づつ見てゆこう。体つきはほぼ同じくらいだが、下の台の形が微妙に違う。


左の台の正面中央「奉造立地蔵菩薩」その両脇に明和5(1767)の紀年銘が刻まれていた。


台の左側面に願主名。右側面には武州豊嶋郡上練馬之内 貫井村中と刻まれている。


右の台の正面中央「奉造立地蔵菩薩」右下に上練馬田嶋村、左下に講中二十人。台の左側面に願主個人名。右側面に宝暦9(1759)の紀年銘。


中央の二基はお地蔵様の体形も台の様子などもよく似ている。


左の台の正面「奉造立地蔵菩薩」右下に貫井村、左下に女拾人。


右の台の正面「奉造立地蔵菩薩」こちらは右下に貫井、左下に講中 女拾人。若干銘に違いはあるが、二基とも女人講中による造立である。


両側面は同一で、天保7(1836)の紀年銘が刻まれていた。


右の二基は頭部の感じが不揃いだが、体形や台の様子などはよく似ている。丸彫りの地蔵像の場合、明治時代の廃仏毀釈のために首が欠けたものが多く見られ、補修した場合にこの程度の不揃いは普通に考えられる。


左の台の正面「奉造立地蔵菩薩」右脇に施主、左脇に貫井村。


右の台の正面、こちらも「奉造立地蔵菩薩」右脇に講中、左脇に拾六人。二基を合わせると施主 貫井村講中 拾六人ということかもしれない。


台の左側面は二基とも同じ内容。手前に武州上練馬貫井村。奥に南池山現住 法印辯海。


二基とも右側面に享保14(1729)年の紀年銘が刻まれるが、左の台は十二月廿日、右の台は極月廿日となっていた。さて、練馬区発行の資料にはこの六体の地蔵像を「享保、宝暦、明和、天保と建て加えたもの」と書かれているが本当にそうか?右の二基は1729年、左の二基は1759,1767年、中央の二基は1836年。100年以上の年を隔てて六地蔵の建立を継続するだろうか?さらに左から2番目は田嶋村講中20人によるもので、他の五基はいずれも貫井村と刻まれている。天保7年の二基は女講中10人によるもの。右の享保14年の二基は講中16人となっており、それぞれの建立の主体が異なることからも疑問が残るように思うのだがどうだろう。


その隣 六地蔵塔 安永6(1777)一石に三体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。二基を合わせて六地蔵塔となる。


左の三体。近づいてみると彫りは細かく、顔の表情は生き生きとしていた。


右の三体。頭の上にはそれぞれの六地蔵菩薩を表す梵字が彫られている。逆三角形の蓮台もよく整い、その立ち姿は格調高い


左の塔の左側面に造立年月日。右の塔の右側面に講中十五人と刻まれていた。


さらにその右隣 馬頭観音塔 明治34(1901)三段の台の上、角柱型の石塔の正面、梵字「カン」の下に「馬頭觀世音菩薩。その下の台の正面に「供養塔」と刻まれている。


供養塔と刻まれた台の左側面と、その下の台の正面と両側面に、貫井村以外にも土支田、石神井、高松など近隣の多くの村々の名前と、この石塔の造立にかかわったたくさんの人たちの名前が刻まれていた。


一番右端 登山記念碑 大正6(1917)塔の上部に山を線刻。その下に丸の中に谷、講社。富士講か大山講だろう。登山十七度から三十六度と、みな競い合うようにお山に登ったのだろうか。石碑に刻まれた名前が誇らしげに見えた。

 

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今日は貫井4丁目、5丁目の石仏を見てみましょう。圓光院の西、および西南の地域です。

地蔵堂墓地 練馬区貫井5-22


目白通りの練馬中央陸橋交差点から目白方面に向かって350mほど先、細い道を左に入った突き当りに地蔵堂の墓地があった。入口から、右側に丸彫りの石地蔵が並んでいるのが見える。


取材には朝早い時間しか行けないので、石仏が西向きに立つ状況では逆光になりきれいな写真が撮れない。右から地蔵菩薩立像 文政2(1819)像は小ぶりだがバランスがよい。台の正面を彫りくぼめた中、中央に「了圓持衣□□霊位」両脇の紀年銘は命日か?


左側面 施主は 遠州屋とあり商家のようだ。個人の墓石だろうか。


その隣 地蔵菩薩立像 享保19(1734)ここでは最も古い。台が小さい分、像自体はこれが一番大きい。蓮台の下に敷茄子を持ちその下の台の正面、梵字「カ」の両脇に享保年間の命日を持つ二つの戒名。左側面に貫井村 施主 妙栄と僧侶らしい名前が刻まれていた。


続いて地蔵菩薩立像 寛政3(1791)口元をギュッと閉めてお地蔵様は厳しい表情をしている。


縦長の台、この場合は塔部というべきか、正面に「奉造建地蔵堂一宇供養佛」右脇に造立年月日。左脇に願主二名の名前が刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像 宝暦8(1758)合掌型。台の正面を彫りくぼめた中「中興開基一念法師」両脇の紀年銘は命日だろう。


左端 地蔵菩薩立像 文化11(1814)丸いお顔に笑みを浮かべている。蓮台の下の台の正面に正真法師とあり、高僧の墓石だろうか。右脇に紀年銘。左脇に刻まれた名前は施主と思われる。

須賀神社 練馬区貫井4-40


目白通りの貫井五丁目交差点から南へ向かう道に入ると、左手に須賀神社がある。その敷地の北東の隅に庚申塔が立っていた。


庚申塔 元禄15(1702)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 梵字「ウン」の下、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。右脇に「奉造立庚申像二世安樂祈所」左脇に造立年月日。


最下部は手前のブロック塀が邪魔になり、上から覗き込むようにして確認した。青面金剛の足の両脇に比較的大きな二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は両腕を踏ん張って青面金剛の重みに耐えながら正面をにらむ。その下に正面向きの三猿。右脇に武州豊島郡上練馬之内貫井村、左脇に願主三十二人欽白と刻まれている。

須賀神社西三差路 練馬区貫井4-23


須賀神社の脇の道を西に向かうと三差路の住宅のブロック塀の前に石塔が並んでいた。写真右の道は長命寺に向かい、左の道を進むと千川通りに出る。


三基の石塔はいずれもかなり風化がすすんでいるようだ。


左 庚申塔 寛政10(1798)角柱型の石塔の正面 日月雲?青面金剛立像合掌型六臂。塔上部は風化が著しくはっきりしない。


塔全体に見られるブツブツは気泡の跡か?塔の下部も混沌としている。青面金剛の足元は邪鬼だろう。その下の三猿も溶けて細くなり頼りない。


塔の右側面 此より 右 東こうや道。左側面には武州豊嶋郡上練馬貫井村。続いて庚申講中十八人、願主個人名。最後に造立年月日が刻まれていた。


中央 地蔵菩薩立像。頭巾とマントで様子はわからない。唇が厚く、プロレスのマスクマンのような顔つきをしていてなんだか愛嬌がある。資料には昭和46年造立とあったが銘は確認できなかった。


右 地蔵菩薩立像 明治30年代。駒型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中に合掌型の地蔵菩薩立像を浮き彫り。風化が進み像容ははっきりしない。下の台は後からつけられたものらしく、地蔵像の下部は台の中に埋まっている。


塔の右側面には神田 世話人と刻まれていた。左側面、手前に施主とあるがその下の文字はうまく読めない。奥に明治三十□(年)□月と紀年銘が見える。続いて干支があれば推理しようもあるのだが、材料不足で造立年は確定できなかった。

 

中村橋駅東目白通り側道 練馬区向山1-3


西武池袋線の練馬駅と中村橋駅のちょうど真ん中あたりで、目白通りは西武戦の高架の下を通る。谷原方面に向かって高架をくぐると道路左側、歩道のさらに外側に車の通れる側道がある。この側道を200mほど進むと、左手の住宅の中、ブロック塀に囲まれた雨除けの下に石塔が立っていた。


庚申塔 宝永6(1709)宝珠をもった唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


頭に蛇を載せ三眼の青面金剛は、鋭く高い鼻がくちばしのように見えて鳥人間のように見える。像に損傷は無く、銘も明快。右脇「奉造立庚申供養二世安全祈所」左脇に造立年月日。その下に敬白と刻まれていた。


二鶏は青面金剛の足の両脇に線刻。頭と背中を踏まれた邪鬼は渋い顔をして這いつくばる。その下には正面向きダイヤモンド型の三猿。


塔の左側面は無銘。右側面手前に武州豊嶋郡上練馬向谷原村結衆。その奥に施主 男十六人 女二十八人と刻まれていた。

中村橋駅北東目白通り側道 練馬区貫井2-4


上の庚申塔から谷原方面に進むとすぐ側道はなくなるが、さらに300mほど進むとまた左側に側道がある。途中に左へはいる細い道があり、その角のところ、竹垣で囲まれた中に石塔が立っていた。


庚申塔宝永4(1707)宝珠付き唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。練馬に入って、特に高松、貫井、向山と元禄、宝永の庚申塔をよく見かける。このあたりでは江戸時代初期に庚申塔建立のひとつのピークがあったのだろうか。


顔の様子は違うものの、全体の感じ、邪鬼と三猿の構図などが先の向山1-3の庚申塔とよく似ている。造立年も近く、もしかしたら同じ石工の仕事か?像の右脇「奉造立庚申像供養二世安樂攸」左脇に造立年月日。


塔の両側面に蓮の花を彫る。左側面には武州豊嶋郡上練馬村之内貫井村 講中拾人と刻まれていた。


竹垣の庚申塔のところから左へ入る細い道は、目白通りから中村橋駅方面に下る広い道へつながる。その角の商店の脇に石塔が立っていた。写真奥に写っているのが目白通りの側道になる。


馬頭観音立像 天保15(1844)頭上の馬頭は確認できるが、風化のためか気泡の跡があちこちに見られ、顔の表情などはあまりはっきりしない。


塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。続いて当村 願主とあり個人名が刻まれている。

中村橋駅北口中杉通交差点 練馬区貫井1-6


西武池袋線中村橋駅から中杉通りを北へ進むとすぐ次の交差点の角に小堂が立っていた。


庚申塔 宝暦2(1752)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


四角い顔に大きな鼻が座り不機嫌そうな表情。合掌する手は手のひらを合わせる形をとらず、両手の外側を合わせる珍しい形。スカートのような衣装もユニークだ。像の右脇に造立年月日。左下のほうに上祢馬村貫井施主講中と刻まれている。


足元の邪鬼はこういう横向き全身型の場合ふつうは頭だけ前を向くことが多いが、これは後ろを向いている。これもまた珍しい。三猿も右の言わ猿だけ体を後ろに倒して座る、ちょっと自由な三猿。


小堂の中、庚申塔の右手前に石灯籠が立っていた。


庚申石灯籠 文化10(1813)竿部正面「奉納 青面金剛」両脇に造立年月日。左側面に願主 高松村とあり、個人名が刻まれている。