富士見台・南田中の石仏

蕪ヶ谷戸緑地東路傍 練馬区富士見台2-14


西武池袋線富士見台駅南口から南に向かうとT字路にぶつかる。ここを右折して500mほど進むと斜め右に入る狭い道があり、100mほど先の右側の住宅の脇、ブロック塀で囲まれた小高い塚?の奥に小堂が立っていた。


庚申塔 享保15(1730)風化の為一部を欠いた舟形光背に 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。全体のバランスを考えるとこの青面金剛はいままで見たことがないほど貧弱な体形で、邪鬼を踏むというより大きな邪鬼の背中に乗せてもらっているという風情だ。光背右脇「為二世安樂父母菩提」左脇に武州豊嶋郡谷原村。このあたりに造立年月日があってもいいところだが・・・


邪鬼が横たわる磐座の下に正面向きのしっかりとした三猿。両脇に二鶏を半浮彫。この雄鶏の下の部分に造立年月日が刻まれていた。これもユニークだ。三猿の真下には同行十五人。雌鶏の上下に願主は個人名が刻まれている。

陽だまり緑地南三差路 練馬区南田中2-1


富士見台駅南のT字路から西に向かう道を進み、500mほど先の交差点を今度は直進してしばらく行くと、老人ホームの近くの三差路の角に小堂が立っていた。写真左の道は直進してきた道で環八通り、笹目通り方面へ、写真右の道に入ると右手に老人ホーム、その先に陽だまり緑地がある。


小堂の中 丸彫りの地蔵菩薩立像 大正13(1924)頭巾をかぶりマントから合掌する両手だけがはっきりと見えた。塔の正面に「南無地蔵大菩薩」と刻まれている。きれいな花が供えられ、千羽鶴が掛けられ、地元の人たちがこのお地蔵様を大事にされている様子がうかがわれる。


両側面の銘がとても変わっている。石神井村北谷原竹内男佛、小川の汽車道向弐番男佛などでも何だこれ?だが、富士裾野より来た六部女佛、静岡か山梨出身の女性の六部さんがこの地にとどまりこのお地蔵様の造立にかかわったということだろうか。面白い。


裏面に造立年月日。続いて北豊島郡石神井村 字田中とあり、施主は個人名。右側面が少しだけ見えるが左から2番目に「旅人地蔵様背負て来た男佛」なんだかユーモラスだ。


小堂の右手前、生い茂る草の中に二基の馬頭観音塔と道祖神が立っていた。

なんこう保育園脇路傍 練馬区富士見台4-5


環八通りの内回り、練馬中央陸橋交差点の次の信号交差点「富士見四丁目交差点」から西に向かって少し進むと道路左側になんこう保育園がある。その脇、庭木を山門の形に細工してその奥に小堂が立っていた。調べてみるとここは今は廃寺となった「南光院」の跡地で、ここに祀られた二体のお地蔵様は「南光院地蔵」と呼ばれているらしい。


右 地蔵菩薩立像 貞享5(1688)鋭い舟形の光背の正面に地蔵菩薩立像を厚く浮き彫り。光背右脇に武州谷原村 同行二十六人。左脇に造立年月日。


江戸時代初期のお地蔵様。残念なことに顔はつぶされ、錫杖と宝珠も欠けていた。


左 地蔵菩薩立像。丸彫りだが錫杖、宝珠ともに健在。厚い蓮台の上に静かに立っている。


台の正面、削られたような傷が多く銘が完全には読めない。中央上の部分は不明、下に願主七十人。右脇やはり傷が多くはっきり見えるのは下のほうに谷原村□田中だが、上のほうはたぶん武州豊嶋郡ぐらいか。左脇には造立年月日と思われるが、この部分が最も損傷が激しく造立年など詳細は不明。

なんこう保育園西T字路 練馬区富士見台4-30


南光院地蔵から西に100mほど行くとT字路にぶつかる。その突き当りの住宅のブロック塀のところに石塔が立っていた。


雨除けの下 馬頭観音立像 天明6(1786)駒型の石塔の正面に六臂の馬頭観音像を浮き彫り。塔の右側面に造立年月日。左側面に講中二十五人と刻まれている。


頭上にはくっきりと馬頭が確認できる。馬頭観音の顔ははっきりしないが、これは風化のためだろう。像の左脇に 左 東高野山道と刻まれれていた。

須賀神社北路傍 練馬区富士見台4-36


西武池袋線の練馬高野台駅北口に出て、駅前ロータリーの一本北の道路を東に向かう。石神井川を越えてさらに進むとやがてT字路の交差点に出るが、この交差点の北西の角に庚申塔が立っていた。写真の左側の道路が駅のほうから来た道。道路を隔ててすぐ南に須賀神社がある。


庚申塔 宝永6(1709)大きな宝珠を載せた唐破風笠付きの角柱型石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。脇に立つ解説板によると「谷原の庚申塔」とあり、長命寺の旧塔頭である観照院を願主として、谷原村の庚申講結衆22人により建てられた庚申塔だという。


塔の上部、梵字は解説板では「バン」となっているが、一部擦り切れていて「ウン」のようにも思われる。彫りは比較的丁寧で力強い。像の右脇「奉造立青面金剛現當二世祈所」左脇に造立年月日。その下に願主 観照院。


塔の下部、足の両脇に二鶏を線刻。足元の邪鬼は半身になって横たわり渋い顔。さらにその下の三猿は左の猿が左向きに、残りの二匹の猿は右向きに座るが、邪鬼と青面金剛の重さに押しつぶされたようにひしゃげていた。


塔の左側面、梵字「キリーク」の下に阿弥陀如来立像を浮き彫り。その脇に「庚申講結衆二十二人」


塔の右側面には梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。その脇に武州豊嶋郡谷原村と刻まれていた。

 

観蔵院 練馬区南田中4-15-24


谷原方面から笹目通りを南下して西武池袋線、石神井川を越え、坂道を登り切ったあたりに「観蔵院入口」交差点があった。ここを右折して100mほど進むと左手に大きな真新しい二階建ての建物がたっていて「曼陀羅美術館」とある。その入り口の向かい側に多くの石仏が並んでいて、この美術館の脇が慈雲山曼荼羅寺観蔵院の入口だった。


入口近く 馬頭観音塔 明治24(1891)隅丸角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。左脇に施主は個人名が刻まれている。


その奥に三基の石塔が並ぶ。左 庚申塔 宝永2(1705)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、紋章の下にまずは梵字「ウン」その下に「奉待」右へ「庚申供養」左へ「一結成就所」中央に大きく三猿を浮き彫り。その下に4名の名前が刻まれていた。


塔の右側面 武州豊島郡 たなかむら。下部に4名の名前。左側面に造立年月日。続いて田中村。こちらも下部に4名の名前が刻まれている。


真ん中 光明真言供養塔 文政8(1825)唐破風笠付きの石祠型石塔の正面、梵字「ア」の下「贈法印権大僧都秀仙」両脇の紀年銘は命日かもしれない。


左側面には梵字「アーンク」の下に「三界萬霊」右側面右に「四國八十八箇所 西國秩父坂東百番詣」左に「奉唱滿光明真言百万遍成就」間に「供養」と刻まれていた。


右 庚申塔 宝永元年(1704)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外両脇に日月、中に「奉待庚申供養諸願成就所」


塔の下部に開花した大きな蓮華。下の台の正面に正面向きの三猿を彫り、その下の部分に十数名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面には武州豊島郡田中村 本願と刻まれている。


その奥 大きな丸彫りの地蔵菩薩立像と、両脇にやはり丸彫りの六地蔵が並んでいた。


中央 地蔵菩薩立像 享保12(1727)カビは見られるが大きな欠損もなく彫りも細かい。お地蔵様は厚い蓮台に堂々と立っている。


二重の台の上、塔部正面に「奉造立地蔵菩薩尊像一軀」右脇に武州豊島郡田中村、願主は個人名、さらに講中三十三人。左脇に造立年月日が刻まれていた。


六地蔵のうち左の三体。微妙に大きさが違うが、蓮台、敷茄子、反花の付いた台はほぼそろっている。


三基のうち右の台の正面 武州豊島郡田中邑 地蔵講中四十六人 和讃念佛修行成就。


右の三体。やはり大きさが微妙に違うが全体から受ける印象は六地蔵として違和感はない。


三基の真ん中の台の正面に紀年銘。元文2(1737)中央の大きなお地蔵様から10年後の造立ということになる。


右端の台の正面には「奉造立地蔵菩薩尊像六軀 所願成就」と刻まれていた。


その奥に馬頭観音塔 文政6(1823)風化が著しく進み、塔の真ん中あたりに断裂した跡がある。台も一部が破損、土埃にまみれていてはっきりしないが資料によると紀年銘が刻まれているという。


塔の上部に馬頭観音坐像を浮き彫り。摩耗がひどく、わかるのはふっくらした形で合掌する姿、馬頭観音独特の馬口印だろう。


塔の下部、中央にセメントで補修した部分があり文字が消えているが「馬頭觀世音菩薩」と思われる。両脇に天下泰平、日月清明。


塔の右側面 上のほうに□□村、右下に施主 當村中、左下に願主 馬持中とあり、やはり馬頭観音塔であることは間違いなさそうだ。


最後に馬頭観音塔。正面に「馬頭觀世音」側面は荒彫りで銘などは確認できず、造立年などはわからなかった。

 


美術館に付属するような構造ではあるが、石仏群の先はお寺の表札が掛かった山門になっている。境内に入ると右手は広い庭になっていた。写真のところからすぐ右へ入ると庫裏の近くを通り薬師堂の前へ、正面の道は裏口までまっすぐに通り抜けられるようになっていて、地元の人たちは通勤、通学、犬の散歩などでこの道を気楽に利用しているようだ。その途中を右へ入る道は両側に庭を見ながら本堂の前に出る。


境内に入ってすぐ左側のブロック塀の前、左は平成の真新しい文殊菩薩坐像。その右に小堂が立っていた。
 

小堂の中に二基の石仏。いずれも筆子塔だという。左 地蔵菩薩坐像 文化5(1808)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、蓮台に座る地蔵菩薩像を浮き彫り。像の周りは一部剥落。塔の右側面に造立年月日。左側面に施主 筆子中と刻まれている。


右 聖観音菩薩立像 宝暦12(1762)優し気なまなざしの観音様。左手に未敷蓮華を持ち、その蕾にそっと右手を添えて開花させようとする。光背右脇に権大僧都法印日傳 施主 筆子中。観蔵院で開かれていた寺小屋で教えを受けた者たちが、亡くなった恩師の冥福を祈って造立した供養塔らしい。左脇には造立年月日が刻まれていた。 


本堂へ向かう道の両側、草深い庭の中にも石灯籠や石仏が立っている。地蔵菩薩立像 明和7(1770)上部が欠けた舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。お地蔵様は顔をつぶされていてのっぺらぼう。光背上部両脇に天下和順・日月清明。右脇には続けて「奉納大乗妙典日本廻國中供養佛」左脇に造立年月日。その下に江戸小石川とあり個人名が刻まれていた。


本堂の左手前に弘法大師・興教大師供養塔 明治25(1892)大きな基壇の上に二重の台、その上に蓮台に乗った角柱型の石塔。上部に僧形の坐像。その下に弘法大師 興教大師。上のほうの台の正面に慈雲山とある。


塔の左側面 高祖 一千五十遠忌 開山七百五十遠忌。その下に擬報恩。裏面に造立年月日。台のそれぞれの面に合わせて80名ほどの名前が刻まれていた。


本堂の右側を回って裏に出ると墓地になる。墓地に入ってすぐ、左側の一角に石塔が集められていた。角に立つ五輪塔は元和年間(1615-24)のものだという。


北向きに地蔵菩薩立像 享保11(1726)四角い台の上に六角の反花の付いた台。さらに丸みを帯びた塔に蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。高さは2mをゆうに超える。台のほうには銘が見当たらない。


裏に回ってみるとお地蔵様の背中に銘が刻まれていた。右上に「為逆修供養」、中央に「奉造立地蔵菩薩□像一軀」その横に権大僧都法印宥傳□願成就處。さらに左脇に造立年月日が刻まれている。


五輪塔の隣には、西向きに二基の角柱型の庚申塔が並んでいた。


左の庚申塔 天保4(1833)正面に「庚申供養塔」両脇に天下泰平 日月清明。塔の右側面に造立年月日。左側面には豊嶋郡 願主當村中と刻まれている。


右の庚申塔は白カビが多く銘が読みにくい。上部に文字らしきものは見えるがはっきりしない。どうやら梵字のようだ。


下部はいっそう白カビが目立つがなんとか読み取ることができた。「為庚申供養也」紀年銘は確認できず、詳細はわからない