東町の石仏

 

南百墓苑 越谷市東町2


旧吉川県道を東に向かうと吉川橋で中川を渡り、その先は吉川市内になる。橋の手前南側にこの南百墓苑があるのだが、2018年5月現在、橋の架け替え工事のために周囲は工事現場になっていて、写真の墓地入口に至るには幅60cmほどの細い道をたどるしかなかった。正面の小堂の脇に丸彫りの大きな石地蔵が見える。

地蔵菩薩立像 寛延元年(1748)角柱型の台の上、敷茄子、蓮台ともに厚みがあり、高さは優に2mを越える。

錫杖、宝珠ともに健在で、手足の先、衲衣の細かい部分まで彫りは丁寧。お地蔵様は静かな表情で佇んでいた。


台の銘は風化のために一部読みにくい。正面中央 梵字「カ」の下「奉造立地蔵大菩薩・・・・・菩提也」両脇に造立年月日。右下に世話人の名前、左下に僧名が刻まれている。


台の左側面には童子童女の戒名が刻まれ、右側面、裏面には近隣の多くの村の名前が見られた。


小堂の中に六地蔵菩薩立像。台に銘は見られず詳細は不明。左から3番目のお地蔵様の顔にはヒビが入っていて、その石質から考えると江戸時代後期のものか?


墓地のはずれに不動堂が立っていた。その左脇に石塔が並んでいる。


左端 庚申塔 元文5(1740)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が進み白カビが目立つ。


青面金剛の顔はつぶされていた。頭の両脇に造立年月日が刻まれている。


邪鬼はカビまみれでよく見えない。三猿の両脇は少しだけ内を向いて座る。この形は前回見た東福寺墓地入口の庚申塔とそっくりだ。そう思ってみると邪鬼も左に頭があって両手で踏ん張る形に見える。同じ石工の仕事だろうか?資料によると三猿の下の部分に願主講中とあり6名の名前が刻まれているということだが、ここではその部分はそっくり埋められてしまったらしく見ることはできなかった。


その隣 庚申塔 万延元年(1860)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申講中」右脇に造立年月日。右下に南百村。左脇に向 こしかや道と刻まれている。


塔の右側面に 江戸、左側面にはよしかわ、成田十五里と刻まれていた。


塔の下部、風化のために表面は溶けかかっているが、そんな中、目を凝らしてみると三猿の姿が見えてくるように思うのだがどうだろうか?、


3番目 庚申塔 安永7(1778)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔の上部は白カビが多く、塔全体は黒ずんでいる。


像の様子はあいまいではっきりしない。後ろの二組の手は半浮彫で平板な印象を受ける。頭の両脇に造立年月日。右下に講中とあり、左下に女十二人と刻まれていた。


二鶏、邪鬼は見当たらず、足元には三猿。その下半身は埋まっていた。



右端 不動明王坐像。小さな石塔だが彫りは細やかで迫力もある。下部中央に「成田山」両脇に矜羯羅童子と制吒迦童子を彫り、不動三尊像になっている。塔に銘は見当たらず造立年月日などは不明。台があったのかもしれない。

 

水神社 越谷市東町2-165南


南百霊苑の南に笠門神社がある。ここから西に向かうとすぐ右手に南百ふれあい公園、さらに100ほど先左手に消防団分団の建物があり、ここで左折して少し進むと、道路右側に水神社の鳥居が立っていた。境内には大きな木もなく新しく整備されたもののようだ。


拝殿の右側、フェンスの前に五基の石塔が並んでいる。


右から 庚申塔 明和4(1767)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。日輪月輪は一部が石塔上部からはみ出す。青面金剛の髪型は個性的。その表情は平板で威圧感は感じられない。


足元に頭を右にした邪鬼と三猿。土地柄だろうか、この辺りでは二鶏はあまり見かけない。三猿は正三角形の構図。車座でなにやら相談中という風情。


塔の右側面に造立年月日。左側面は彫りがあいまいでわかりにくいが、ひらがな三文字でおはつ、おちよなど13名の名前が刻まれていて、これも女性の講中の造立したものだった。


その隣 庚申塔 元文5(1740)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


青面金剛の顔はつぶされていて表情はうかがい知れない。頭には蛇がまとわりついている。ショケラは外向きで下半身が細くなっている。像の両脇に造立年月日が刻まれていた。


邪鬼は頭を右にして歯を食いしばって重みに耐えている。三猿は左右の猿が顔だけは前を向き、足をそろえて体は内側を向く。三猿の下の部分に13名の名前が刻まれていた。


3番目 庚申塔 宝永4(1707)舟形光背に日月 青面金剛立像 合掌型六臂。光背の一部が欠けている。


瑞雲を持たない日輪月輪は珍しい。頭の上の丸いのは蛇だろうか?口元がつぶれているがその上の吊り上がった目が不気味だ。光背両脇に造立年月日。下部両脇には9名の名前が刻まれていた。


邪鬼は大き目で、正面向き、両手で下の聞か猿の頭を挟みこんでいるように見える。三猿は両脇がやや内を向く形で、この辺りでよく見かける構図になっていた。


4番目 水神塔 慶応4(1868)スリムな駒型の石塔の正面「水神天尊宮」上部に剥落が見られる。両脇も破損がみられるが右脇に造立年月日、左脇に願主 當所 浅見・・・など、かろうじて読み取ることができる。


左端 庚申塔 安永5(1776)角柱型の石塔の正面 日月雲「大青面金剛」右下に南百村、左下に講中。塔の両側面に造立年月が刻まれていた。

南百ふれあい公園南路傍 越谷市東町2-186


南百ふれあい公園の十字路から南に100mほど、T字路の右側の角に庚申塔が立っていた。


庚申塔 慶応3(1867)駒形の石塔の正面「庚申 講中」上部両脇に造立年月日。


塔の右側面 西 ふどう道。左側面 南 そうか道。江戸時代後期になると、交通の発達とともに道標の役割を負う石塔も多くなってゆくようだ。

 

金剛寺四条東墓地 越谷市東町


中川に架かる吉川橋の西詰あたりから、川に沿って南へ下る道路があるのだが、吉川橋の架け替え工事のために塞がれていて、西のほうからぐるっと回って出るしかない。橋から400mほど南、西から中川にそそぐ排水路沿いの道路との交差点角に新しく整備された墓地があった。もとは妙音院というお寺があったところだというが、現在は金剛寺が管理していて、金剛寺四条東墓地という看板が立っている。


墓地に入ると右側のブロック塀の前に無縁仏など、たくさんの石塔が重なるように並んでいた。


最前列の右端 馬頭観音塔 天保11(1840)駒型の石塔の正面 梵字「カン」の下「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。


塔の右側面 下部に千疋村とあり4名の名前。左側面は隙間が狭すぎて確認できないが、資料によると四条村、別府村それぞれ3名の名前が刻まれているという。

左端の奥の方二列に庚申塔など講中造立の石塔が集められていた。


最後列左端 六十六部日本廻國供養塔 宝永7(1710)大きな唐破風笠を持つ角柱型の石塔。ご覧のように目の前に石塔が迫っていて下部のほうは見ることができない。


塔の正面を彫りくぼめた中、梵字の下に「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」以下は見えないが、資料によりと「善願成就攸」両脇に造立年月日。右の枠部に武州崎玉郡八條領四条村、最下部に願主とあり二名の名前が刻まれているという。塔の両側面と裏面に願文が刻まれているらしいが、この三面については全く見ることができなかった。


その隣 大乗妙典供養塔 元禄16(1703)駒型の石塔の正面に大きく梵字「サク」を彫り、その下に「奉講大乗妙典経一千部為先祖菩提也」両脇に造立年月日。


右下に貳郷半平沼村、左下に個人名が刻まれている。


左から3番目 庚申塔 寛政8(1796)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。発達した瑞雲、逆立った青面金剛の髪が印象的。


下部は視界が狭く苦しい。ショケラは青面金剛のももに縋りつく。青面金剛の右足の脇は鶏のようだ。足元には邪鬼。三猿は中央の聞か猿だけが見えていた。


その隣 庚申塔 元禄16(1703)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。両脇に造立年月日。前に立つ石塔の隙間が全くないために下部は確認できないが、資料によると邪鬼・三猿が彫られ、数名の名前が刻まれているという。


後から2列目。これもごく狭いところに二基の石塔が並んでいた。


左 庚申塔 延享4(1747)駒型の石塔の正面 発達した瑞雲に日月。青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂?三角形の頭部には蛇だろうか?白カビがこびりつき像の両脇に刻まれている紀年銘も読めない。資料によると下部に邪鬼、三猿が彫られているらしい。


右 地蔵菩薩立像 元禄7(1694)舟形光背に錫杖・宝珠を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右「奉供養百堂現當安樂祈所」百堂供養塔ということになる。左脇に造立年月日。その下に同行四十二人敬白と刻まれていた。

 

飯島家「九兵衛様」墓地 越谷市東町2-266-108隣


四条東墓地から排水路沿いの道路を西に進むと根郷橋の架かる交差点の角に飯嶋家の個人墓地があった。入り口にはカギが掛かっていて墓地には入れない。


入口から覗くと大きな舟形光背を持った如意輪観音像が見える。仕方ないので入口から2,3枚写真を撮って、今回は取材は無理だろうとあきらめていた。ところが先日、近くの日枝神社に行ったときに通りかかると入口が開いていて、墓地の周りの手入れをされている人にお話しして撮影の許可をいただき墓地に入ることができた。


如意輪観音坐像 寛文5(1665)舟形光背に六臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。如意輪観音像は墓石にも多く、また月待供養塔でも見かけるが、二臂像が圧倒的に多い。六臂像はかなり貴重だ。近づいてみると遠目に見たのとは印象が違う。光線の加減もあるだろうが腹部が大きくせり出して妊婦のようにも見える。光背左上に造立年月日。右下に四条村飯嶋八左ヱ門。左下に為日儀也。寛文期らしい形の良い舟形光背は上部が大きく破損していた。




奇異な印象を受けたのは六臂の様子だった。第1手、観音様は右膝を立て、そこに右手の肘をかけて指先を頬に当てている。左手は左足のももの上、この形は二臂像とも共通でオーソドックスだ。第2手は右手に「如意宝珠」左手に未敷蓮華を持つが、普通は宝珠は胸の前あたりが多い。もろ手を挙げた構図は珍しいと思う。さらに第3手、左手に法輪を持ち右手は数珠を垂らす構図だが、その右手も体に沿って下ろされ、手の先に数珠が垂れるような形が一般的だが、ここでは右手が胸のあたりから上に向かう。なんとも個性的な構図と言えるだろう。


参考:さいたま市中央区上落合の地蔵堂の如意輪観音像 貞享2(1685)第2手左手の未敷蓮華、右手の宝珠ともに体の前にあり、第3手、数珠を持つ右手は右足の裏側に彫られている。


東のブロック塀の脇に馬頭観音塔 文化8(1821)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音塔」右側面に造立年月日。左側面には飯嶋氏の名前が刻まれていた。

日枝神社 越谷市東町3-102向


根郷橋を渡り南へ進み100mほど先を右折すると日枝神社の入口付近に出る。階段を上がってすぐ木の鳥居、その奥に石鳥居が立っていた。


二つの鳥居の間、参道右脇に二基の石祠と三基の石塔が並ぶ。石祠はいずれも寛政6年の建立で、「宇賀神」と「水神社」だった。


その奥 庚申塔 文政6(1823)駒型の石塔の正面 白カビの中に日月雲「庚申」


塔の右側面に造立年月日。左側面には新田講中と刻まれていた。


その隣 塞神塔 明治3(1890)駒型の石塔の正面 大きな字で「塞神」文字の彫られた部分は平らに削られているようだ。庚申塔を改刻したものかもしれない。


塔の左側面に造立年月日。右側面上部 越谷 壹里、草加 三里、千住 四里。その下に四條邨と刻まれている。


左端 塞神塔 明治3(1870)駒型の石塔の正面 こちらも大きな字で「塞神」


塔の右側面に造立年月日。左側面に四條邨。隣の塞神塔と左右逆だがよく似た構成。造立年月日も同じ。こちらは道標銘がないが兄弟塔だろうか。

 

金剛寺 越谷市東町3-354


中川に架かる吉越橋の西詰めあたりから南へ200mほど進むと金剛寺がある。


山門の先、参道右脇に小堂があり、その脇にも石塔が立っていた。


小堂の中 六地蔵菩薩立像 享保4(1719)舟形光背型。像の様子も揃っていて統一感がある。


右端のお地蔵様の光背の左脇に造立年月日が刻まれていた。白カビが多く右脇の銘は読めない。


他のお地蔵様の光背には、別府村、千疋村、四条村などの施主の名前が見える。左端のお地蔵様の光背の右脇「奉造立地蔵尊像為二世安樂也」左脇に武州□□村 善男善女人 四十八人と刻まれていた。各村の有力者たちが力を合わせたものだろう。


小堂の左脇 庚申塔 寛文2(1662)こちらも白カビがたっぷりこびりついている。


駒型の石塔の正面、梵字「バク」の下に「奉供養庚申二世安樂所願成就所」続いて施主敬白。両脇に造立年月日。


下部に二童子。白カビで像容もはっきりしないが、左の童子は右ひざを立て、右の童子は結跏趺坐?邪鬼、三猿などとともに夜叉、童子などが彫られた豪華な庚申塔は見かけたことがあるが、童子のみが彫られた庚申塔は今まで見たことがない。年代も古く、貴重な庚申塔と言えるだろう。


参道の左側が墓地になる。その一番南の石塀の前に多くの無縁仏が集められていた。


その中央付近、庚申塔 安永3(1774)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。前の石塔との間が狭く下部はのぞけるが写真は撮れない。両側面は写真で見る通り全く隙間が無く確認できないが、資料によると右側面に造立年月日、左側面に願主名とともに「講中」と刻まれているという。


一つ置いてその奥に庚申塔 。こちらはさらに状況が悪い。上からのぞき込んでやっと「青面金剛」と刻まれているのが確認できる。両側面に銘があるらしいのだが、資料にも文化年間とだけ記されていた。

 

東養寺墓地 越谷市東町5-242


越谷レイクタウン駅の南を東西に走る広い道路「富士見通り」を東に進み、東町5丁目交差点を越えると道は急に狭くなり旧千疋村の集落に入る。余談だが、かの有名な「千疋屋フルーツパーラー」の創業者はこの村の出身らしい。交差点から400mほど東のあたりに伊南理神社があり、道路を挟んだ向かい側に墓地があった。同じ敷地内に「千疋南農村センター」がある。


入口から墓地に入ると右側に七基の石塔が並んでいる。右端は「堂宇再建記念碑」だった。


その隣 地蔵菩薩立像 弘化2(1845)四角い台の上に縦長の塔部、蓮台に丸彫り合掌型の地蔵菩薩立像が載る。


台には銘は見当たらない。塔の右側面 世話人 女五人。左側面に再建立とあり造立年月日が刻まれていた。資料では右側面と左側面が逆になっていて正面にも銘があるとしてあるが、正面にはそれらしい跡も見つからない。どうやら台の上に塔が逆に乗っているのか、ということで裏面を見たが彫りが薄いためかはっきりしなかった。


3番目 六十六部廻国供養塔 宝暦4(1754)角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」両脇に明、上から天下和順 日月清明、造立年月日、千疋村 願主個人名が刻まれている。


塔の右側面に願文。その下に施主 念佛講中。左側面にも願文が刻まれ、こちらは施主が個人名となっていた。


続いて 六十六部供養塔 明和7(1770)角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「六十六部供養塔」両脇に天下泰平 國土安全、造立年月日、行者 常念。隣の廻国供養塔とほぼ似た構成だが、こちらは側面には銘が刻まれていない。


5番目 地蔵菩薩立像 弘化2(1845)先ほど見た合掌型の地蔵菩薩と一緒に奉納されたもののようだ。こちらは丸彫りの延命地蔵、錫杖と宝珠を持つ。


塔の正面 手前の花入れのために全体を撮ることはできなかったが、中央付近に千疋村 女人中、左のほうに并 村々萬人講と刻まれていた。右側面には再建立とあり造立年月日、左側面に 世話人 女人と、これは先ほどの合掌型地蔵像と逆になっている。


その隣 地蔵菩薩立像 延宝6(1678)上部を大きく欠いた舟形の光背に錫杖宝珠を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。四角い顔のお地蔵さまの表情は意志的で厳しいものを感じさせる。光背右脇には本願とあり個人名、左脇には造立年月日。像の両脇のあたりに多くの人たちの名前が刻まれていた。


左端 如意輪観音坐像。舟形光背に二臂の如意輪観音を浮き彫り。光背上部は前に反りかえり、江戸時代初期の特徴を示しているが、銘が確認できず、残念ながら造立年など詳細はわからない。


入口左側、再建された真新しい六地蔵と、その先には3つの部屋に分かれたお堂がたっていた。堂の中には左から大黒様、板碑、観音様が祀られているが大黒様と観音様は比較的新しいもののようだ。


中央 二十一仏板石塔婆 天正3(1575)格子の隙間から撮ってみたがうまく撮れなかった。同じような板碑を以前増森の薬師堂で見かけたことがある。解説板によると、二十一仏とは山王二十一社の本地仏のことで、このような山王信仰を表す板碑が越谷市内に八基現存するという。


入口近く、門柱のかげに新四国八十八ヶ所霊場標石 天保12(1841)弘法大師坐像を載せた角柱型の石塔、正面に「新四國八十八箇所 第六十四番」線香立てで見えなくなっているが下部の台の正面に千疋村東養寺と刻まれている。

塔の右側面に造立年月日。続いて千疋村中、願主とあり二名の名前。左側面には西新井組、その隣に是ヨリ六十五番 四丁半。(65番は草加市柿木町の東漸院)最後に、明治二十四年再建と刻まれていた。

 


入口正面、墓地の奥に向かうと左側に庚申塔などの多くの石塔が並んでいた。


左端 庚申塔 明和2(1765)駒型の石塔の正面 日月 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが厚くこびりつく。


三角形の髪型の青面金剛、前掛けのような衣装は珍しい。光背右脇に造立年月日。


光背右下に八条領、左下に千疋村講中か?足元に正面向き、大きな頭と腕だけの邪鬼。下部にはしっかりとした三猿が彫られている。


その隣 庚申塔 宝暦8.(1758)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔の左側面に造立年月日。右側面に講中と刻まれていた。


冠をかぶり釣り目の青面金剛。合掌する姿は威圧的なものはなく、どこか厳粛な雰囲気がある。


足の両脇に二鶏。右の雄鶏は内を向き、左の雌鶏が外を向くという形は珍しい。足元に大きめな邪鬼と三猿が彫られているが風化のために今一つはっきりしない。


続いて地蔵菩薩立像 明和4(1767)ゆったりとした舟形光背。梵字「カ」の下に錫杖・宝珠を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に造立年月日。


光背左脇 武州八条領千疋村女人講中十五人と刻まれていた。


小型の宝篋印塔を挟んでその奥に庚申塔 元禄7(1694)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


青面金剛は口を開けてニヤリと笑っているように見える。冠には蛇だろうか?像の両脇に造立年月日が刻まれている。


足の両脇には白カビにまみれた二鶏。足元に邪鬼がにらみを利かし、その下に三猿が彫られていた。


続いて普門品供養塔 安政2(1855)四角い台の上、角柱型の石塔の正面に「普門品供養」台の正面に大きな字で「講中」


塔の右側面に天下泰平 五穀成就。左側面に造立年月日。続いて武州崎玉郡八条領千疋村。


台の両側面にそれぞれ10名ほどの名前が刻まれている。


その隣に光明真言供養塔 寛文12(1672)板碑型の石塔。下部に見事な蓮華を彫る。


中央を浅く彫りくぼめた中、上部に光明真言曼陀羅。その下に「光明曼陀羅者妙□」両脇に梵字「カーン」と梵字「ウン」続いて造立年月日。さらに菩提、主敬白と刻まれている。


右端に庚申塔 寛政4(1792)駒型の石塔の正面 日月雲「青面金剛尊」両脇に造立年月日。下部に講中 十二人。その下に三猿が彫られていた。