登戸・瓦曽根の石仏

 

 報土院 越谷市登戸町20


県道115号線を北上するとやがて武蔵野線を陸橋で越えるが、その500mほど手前、西に入ると県道とほぼ並行するように不動道の古道が走っていて、この古道に向いて報土院の山門が立っていた。蒲生小学校の東になる。


本堂の右側が墓地になる。その入り口に六地蔵の小堂が立っていた。


六地蔵菩薩立像 元禄17(1704)形の良い舟形光背を持つ六体の地蔵菩薩像。サイズなどもそろっている。


六体とも同じ銘が刻まれていた。光背右脇「為奉造立六地蔵二世安樂□」左脇に造立年月日。300年以上たっても当時のまま六地蔵像が残っているということになるのか。


六地蔵尊の小堂の右脇に立つ大きな駒型の石塔は巡礼供養塔 文化6(1809)正面中央「奉供養四國西國秩父坂東順礼為國家安全二世安樂。右脇上部に造立年月日。その下に先祖代々精霊とあり、さら下部には三つの戒名。左脇には願主 當村孫右衛門 行年七十八歳。個人による造塔だろうか?


六地蔵尊の小堂の裏に多くの石塔が並んでいる。写真右の四基の石塔は個人の墓石だった。


左から見てゆこう。左端は名号塔 天保12(1841)角柱型の石塔の正面中央に「南無阿弥陀佛」


塔の左側面「三界萬霊 六道四生 有縁無縁 平等利益」右側面には豊後之産新里郡豆田町 大超寺弟子立之。さらに造立年月日が刻まれている。


2番目 馬頭観音塔 寛政6(1794)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音菩薩」塔の左側面 心願主 當村 平左衛門立ル。右側面に造立年月日が刻まれていた。


3番目 馬頭観音坐像 安永9(1780)舟形光背に三面六臂 忿怒相の馬頭観音坐像を浮き彫り。額の上の馬頭もはっきり彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には「是畜馬菩提之塔」と刻まれている。


4番目 庚申塔。造立年月日不明。光背の上部を大きく欠く。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足元は足元は磐座で邪鬼はいない。元禄期の庚申塔によく似た例を見るがその頃のものだろうか?下部には大きな三猿が彫られていた。


光背右脇に「成就所」と見える。銘の下の部分だろうが、この文字の位置から考えると、破損する前の本来の光背は相当大きかったものと考えられる。


右端 庚申塔 享保15(1730)こちらも光背の多くの部分を欠いている。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。キツネのような顔立ちの青面金剛。頭上には蛇がとぐろを巻く。頭の右脇「奉供養 庚申講 所願成就」左脇に造立年月日。足の右脇に同行、左脇に女中三十人と刻まれていた。


足元に邪鬼。両脇に小さく二鶏。その下に彫られた三猿は白カビも多くあまりはっきりしない。

 

越谷登戸郵便局東路傍 越谷市登戸町26


県道49号線、北から武蔵野線のガードをくぐり南へ700mほど、南越谷病院の南の信号交差点を左折し東へ向かうと道路左手に越谷登戸郵便局がある。その150mほど先の路傍に庚申塔が立っていた。


庚申塔 万延元年(1860)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申」下の四角い台の正面には12名の名前が刻まれているが、そのうち11名は女性の名前だった。


塔の右側面に造立年月日。左側面に大きく「ふどう道」


台の左側面には世話人とあり一名の名前。右側面には登戸村 女人講と刻まれている。

稲荷神社西交差点角 越谷市登戸町14


県道115号線(草加産業道路)は陸橋で武蔵野線を越える。蒲生方面から北上して陸橋の手前の側道を進むと信号交差点に出る。この信号交差点の南西の角の生け垣の中に庚申塔が立っていた。


庚申塔 文政10(1827)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「ウン」の下に「青面金剛」塔の両側面に造立年月日が刻まれている。


下の台の正面 摩耗していて全体が漠然としているが、岩槻でよく見かけた「自由な三猿」が彫られていた。台の両側面にはサツキの枝葉が迫っていてまともに写真を撮れなかった。左側面に 是より日航道中こしかや、右側面に是より大さかミ道とあり、やはり不動道の道標になっている。

稲荷神社 越谷市登戸町4


庚申塔の立つ交差点から東で向かうとすぐ、道路左側に稲荷神社の入り口があった。参道の奥、鳥居の手前の幟立ての左側の隅のあたりに小堂が立っている。


小堂の中 庚申塔 寛政11(1799)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」下部には三猿が彫られていた。


塔の左側面 大きく願主 登戸村。その下に世話人一名の名前。右側面には造立年月日。さらに供養 男女講中と刻まれている。

県道49号線新越谷駅入口交差点角 越谷市南越谷1-1


武蔵野線南越谷駅の東の地域は新しい住居表示で南越谷となったが、もともとは登戸村の一部だったということでここで一緒に取り扱う。南越谷駅から県道49号線に出たところの信号交差点の角の所に石塔が立っている。写真左の道路が県道49号線、奥に見えるのが武蔵野線のガードになる。


馬頭観音坐像 天保5(1834)二段の大きな台の上、駒型の石塔の正面に馬頭観音坐像を浮き彫り。


頭部がつぶれているが頭の上にははっきりした馬の頭が彫られていた。蓮台に座る馬頭観世音は馬口印を結ぶ前手を含めると八臂。宝輪、剣、斧、羂索などを持つ。


塔の右側面に造立年月日。下のほうの台の右側面に「三十二邑」近隣32の村の人々がこの石塔の建立にかかわったということだろうか。


塔の左側面には大きく「十九夜塔」と刻まれていた。越谷でも十九夜塔はいくつか見かけたが、その多くは如意輪観音を主尊とするもので馬頭観音というのは珍しい。


台の正面の文字は薄くなっていてとても読みにくい。「越谷宿」「大澤町」「馬持中」あとは数人の名前が刻まれているようだ。

 

照蓮院 越谷市瓦曽根1-5


県道49号線の瓦曽根ロータリー交差点の東、細い道を入り込んだ先に照蓮院の山門が立っていた。


山門を入ってすぐ右、塀の前に六地蔵の小堂があり、その左脇にも石塔が立っている。


六地蔵菩薩立像 享保元年(1716)六体はほぼ似たようなサイズで台も同じような印象を受ける。頭部はいずれも新しいもののようで、あとから補修されたものかもしれない。


3番目の像の敷茄子の正面に造立年月日があり、その両脇に施主 村中と刻まれていた。


左脇の石塔は如意輪観音坐像 寛文9(1669)舟形の光背上部に天蓋を施し、その下に二臂のたっぷりとした如意輪観音坐像を浮き彫り。その頭のあたり、周りに「奉造立如意輪観音二世安樂所」体の両脇に造立年月日。右下に念佛講、左下に三十五人と刻まれている。

瓦曽根二丁目自治会倉庫脇 越谷市瓦曽根1-5


照蓮院の南の大きな空き地は照蓮院の駐車場になっていて、同じ敷地内に自治会倉庫、消防分団、防災備蓄倉庫が立っている。自治会倉庫の脇に金網に囲まれていくつか石塔が並んでいた。


庚申塔。舟形光背に日月 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。光背は大きく破損。顔もつぶれている。金網の中には入れないので正確なところはわからないが紀年銘も残っていないようだ。足の両脇に二鶏。足元の邪鬼は頭を左にしてうずくまり、その下には三猿が彫られていた。

栃木銀行裏路傍 越谷市瓦曽根1-1


県道49号線の瓦曽根交差点から西に入り、県道49号線と並行して走る旧道を横切った先、駐車場の向かいの空き地に多くの石塔が集められていた。


右端 大きな丸彫りの地蔵菩薩立像 明治29(1896)こけしのような風情のお地蔵様。錫杖を欠く。下の台の正面は無銘。左側面 請負人 仕立人とあり、各一名の名前。右側面は右端に造立年月日。続いて12名の名前が刻まれている。


その隣 大きな基壇の上に秋葉大権現塔 文政10(1827)笠付きの石塔の正面「秋葉大権現」台の正面に「秋葉講中」両側面にそれぞれ12名の名前。いずれも名前の上に屋号が付いている。台の裏面 右端に造立年月日。続けて世話人とあり8名の名前。最後に石工名が刻まれていた。


六面六地蔵石幢をはじめ残りの石塔は肩を並べるように立っている。駒型の三基は庚申塔で、残りの小さな石塔は墓石だった。


六面六地蔵石幢 文化元年(1804)六面にそれぞれ地蔵菩薩立像を浮き彫り。六地蔵のうちひときわ大きなお地蔵さまは子供を抱いていて、足にも子供がすがりつく「子安地蔵」だった。写真右下に立てかけられた笠はこの石塔のものだったのだろう。


下の台の正面に「三界萬霊」右側面に造立年月日。左側面に 當所念佛講中とあり、続いて世話人3名の名前が刻まれている。


北向きに並んだ四基の石塔の右端 庚申塔 宝暦2(1752)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。かなり白カビが目立つ。右脇に「奉造立庚申尊像」さらに両側面に渡って造立年月日が刻まれていた。足元は磐座だろうか?三猿はもしかしたら土の中かもしれない。


西向きに並んだ四基の石塔の左から2番目 庚申塔。日月雲 青面金剛立像 剣・羂索持ち六臂。風化が進み紀年銘などは見当たらない。うつむき型?の三猿。この辺りではこのタイプの三猿をよく見る。三猿の上は磐座で、その上に狛犬のような邪鬼が頭を右にして伏せている。磐座の両脇のくぼみの所に二鶏が彫られていた。


左端 庚申塔 寛政2(1790)三基の庚申塔の中で一番彫りがきれいに残っている。駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足の両脇に二鶏。足元の邪鬼はふてぶてしくにらみを利かせている。その下にはっきりとした三猿。塔の右側面に造立年月日。左側面には新町とあり個人名が刻まれている。