山田・寺山・上寺山の石仏

浄国寺 川越市山田420[地図]


国道254号線山田交差点のすぐ西に浄国寺の入口がある。東向きに立つ山門はいつも閉まっているが、その脇の通用口が開いていてここから境内に入ることができる。


山門の左脇の小堂の中に六基の丸彫りの地蔵菩薩像塔と二基の馬頭観音塔が並んでいた。


右端 馬頭観音塔 明治15(1882)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。左側面に施主として個人名が刻まれている。


その隣 地蔵菩薩立像 宝暦10(1760)錫杖の頭の部分と宝珠が欠けている。顔も漠然としてはっきりしない。


塔の正面に居士、信女、二つの戒名、左側面に二童子、信女、合わせて三つの戒名。右側面に造立年月日。さらに網代村とあり、個人の名前が刻まれていた。江戸時代、このあたりは「網代村」だったらしい。


3番目 地蔵菩薩立像 宝暦3(1753)こちらも顔がはっきりしない。敷茄子だけ色が違っている。


塔の正面「奉造立地蔵菩薩爲二世安樂」両脇に造立年月日。右下に願主 〇〇町、左下に妙念比丘尼と刻まれていた。


その隣 大きな角柱型の石塔の上に地蔵菩薩坐像 享保9(1724)敷茄子はないが蓮台は重厚。


錫杖は健在だが左手の宝珠が欠けていた。頭部は顔の正面が削られていて、目も鼻も口も確認できない。


塔の正面「奉讀誦浄經一千部供養」両脇に造立年月日。右側面に「爲先祖代々菩提」左側面に網代村とあり、個人名が刻まれている。


5番目 地蔵菩薩立像 元文3(1738)こちらも宝珠を欠き、顔が漠然としている。


塔の正面を彫りくぼめた中に「奉讀誦浄土経一千部供養」両脇に造立年月日。
右側面「爲〇〇〇信士菩提」左側面には網代村、個人名。


6番目 地蔵菩薩立像 安永5(1776)こちらは宝珠、錫杖とも健在。顔はおぼろげ。


敷茄子は小さめだが前面に花が彫られていた。塔の正面「六十六部供養佛」両脇に造立年月日。
左下に行者 融心。両側面に居士、大姉、合わせて4つの戒名が刻まれている。


その隣、左から2番目 地蔵菩薩立像 明和6(1769)厚い敷茄子、蓮台を持つ重厚な構成の地蔵像。右手の錫杖の先が欠けていた。


その頭部が異様。「廃仏毀釈」で首を失ったあとに補われたのだろうか、目鼻を薄く彫った?円筒形の石が無造作に載った姿は痛ましい。


石塔の正面「奉造立地蔵菩薩」両脇に造立年月日。下部両脇に念佛 講中と刻まれていた。ここに並ぶ六基のうちでこれだけが講中仏ということになる。他の五基についてはいずれも個人の供養塔・墓石と思われるが、居士、大姉、などの戒名が多く、中には院号付きの戒名もあり、門前に祀らていることからも、この地域の有力な家の供養塔なのだろう。


左端 馬頭観音塔。長方形の光背に三面六臂の馬頭観音像を浮き彫り。像はカビもなく損傷は少ない。なぜかどこにも銘が見当たらず、残念ながら詳細は不明。


ふっくらと馬口印を結ぶ馬頭観音。頭上の馬頭は明快。顔は三面とものっぺらぼうだった。

 


境内に入って正面に本堂が立っている。その左手前、三基の石塔が東向きに並んでいた。


左 板碑型の三猿庚申塔。風化の為に銘が確認できず詳細は不明だが、元禄期以後には見られない、江戸時代初期に特徴的な形式の庚申塔である。


磐座の上に素朴な三猿が座る。その下に二鶏が半浮彫され、さらにその下に施主名が刻まれているようだ。なんどかトライしたが、かすかにそれらしく見えるだけで、きちんと読み取ることはできなかった。


右手前 庚申塔。角柱型の石塔の正面「庚申霊」これも紀年銘が見つからず詳細は不明。「庚」の上、「申」の左右は絵文字だろうか?


その後ろ 猿田彦大神塔。正面中央「猿田彦大神霊」周りに前の庚申塔と同じ奇怪な文字?紀年銘はなくこちらも詳細は不明である。


こちらは背面にも銘が刻まれていた。読めるのは「神」「即」「身」「成」「佛」あとはやはり奇怪な絵文字?これについては調べてもなんの手がかりもつかめず、ギブアップ。ご存じの方は教えてください。


本堂の左が墓地になる。墓地に向かう道の左側、本堂のほうを向いて左から如意輪観音塔と宝篋印塔が並んでいる。さらにその右には「夜泣き子育地蔵」と書かれた小堂が立っていた。


左 如意輪観音塔 寛政6(1794)大きな蓮台の上に二臂の如意輪観音坐像。脇に立つ解説板に「はいたさん」歯痛を直してくれる菩薩さまとして古くから信仰されていると書かれていた。


蓮台の下、石塔の正面に「功徳主念佛講中敬白」両脇に造立年月日が刻まれている。


その隣 宝篋印塔 宝暦7(1757)基礎に多くの戒名が刻まれていて、個人建立の供養塔と思われる。


右の小堂の中 地蔵菩薩坐像 享保20(1735)大きな角柱型の石塔の上、蓮台に座る地蔵菩薩。顔は削れて目鼻もはっきりしない。カンが強く夜泣きをする赤ちゃんに悩まされた若いお母さんが、このお地蔵様に願かけして夜泣きが治ったという伝説があるという。


塔の正面「奉讀誦浄經妙典千部供養」両脇に造立年月日が刻まれていた。

 

安養院 川越市山田158[地図]


浄国寺の前の山田交差点から国道254号線を離れ、斜め右に入ってまっすぐ南に進む道は、神明町を通って川越市中心部へ向かう。浄国寺から400mほど南、山田小学校のすぐ近くに安養院の山門が立っていた。


境内に入ると、参道左脇に二基の石塔が北向きに立っている。


右の丸彫りの地蔵菩薩立像 慶応元年(1865)は、塔の正面に四つの童子戒名が刻まれていて個人の墓石だった。


左 如意輪観音坐像 寛政11(1799)角柱型の石塔の上に丸彫りの如意輪観音二臂像。塔の正面中央「如意輪觀世音」両脇に造立年月日。


塔の左側面に念佛連中とあり、その下に志垂村、宿粒村、向小久保村、現山田地域に江戸時代にあった三つの村の名前が刻まれている。


その先、やはり参道の左側に地蔵塔など、石仏が本堂のほうを向いて並んでいた。六地蔵塔と思われるもの、多くの墓石などの中に、講中造立の地蔵塔、馬頭観音塔が立っている。


左から2番目 角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像 安永2(1773)


塔の正面に「万人講中」「奉納念佛七万五千巻」その下に宿粒村の数人に名前が刻まれていた。さらに左側面中央に「奉納大乗妙典六十六部供養」両脇に造立年月日が刻まれている。


左から4番目 馬頭観音塔 安永6(1777)駒型の石塔に二臂の馬頭観音立像。右脇に造立年月日。左脇に施主だろう、個人名が刻まれていた。小型ではあるが頭上の馬頭もくっきり、胸の前でふっくらと馬口印を結んでいる。

 

正光院 川越市寺山5[地図]


山田の浄国寺から西に進み、県道160号線を横切って300mほど先、もうすぐ入間川の土手にでようかというあたりに正光院の入口があった。山門の向こうに本堂の大きな屋根が見える。山門の左側には寺導が立ち、小堂の中に比較的新しい六地蔵が祀られていた。


山門の右脇に石仏が並んでいる。地蔵塔が二基、一番奥に庚申塔。地蔵塔と庚申塔の間に、小型の石塔が立っていた。


左から地蔵菩薩立像。手前に反った舟形光背の上部に梵字「カ」その下に厚く地蔵菩薩像を浮き彫り。全体の印象としては寛文期から延宝期あたりの造立と思われるが、残念なことに光背左脇に刻まれている紀年銘のあたり、月日は残っているのだがその上の部分が削れていて、造立年は不明とするしかない。錫杖の先と宝珠はどちらも欠けていた。


丸彫りのように厚い地蔵像。円頂、福耳、首のシワまでリアルに表現されていて美しい。光背の表面がざらついていて銘は読み取りにくい。右脇は難読。左脇に男女・・老若・・・とか、三界・・・彼岸・・・など、ところどころ読めるのだが今一つはっきりしない。顔の両脇の銘だけがほぼ読み取れた。「地蔵菩薩大慈悲 若聞名号(旧字)不堕□□」もう少し時間をかけて検討してみたいところだが・・・


その隣 地蔵菩薩立像 宝暦8(1758)重厚な蓮台と敷茄子を持つ丸彫り重制の地蔵塔。石塔の正面「奉造立地蔵尊」両脇に造立年月日。左側面に武州入間郡 下寺山村 施主とあり、僧俗二名の名前が刻まれている。


首に補修の跡が見えるが、錫杖、宝珠は健在。きりっとした厳しい表情でたたずむその姿は、どこか人間臭い。


地蔵塔と庚申塔の間に馬頭観音塔 文化8(1811)駒型の石塔の正面に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。側面は荒彫りで銘は見当たらなかった。


右端 庚申塔 宝暦4(1754)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型八臂。塔の規模も大きく立派で本格的な庚申塔である。


彫りは細かく技巧的。頭上にとぐろを巻いた蛇を乗せた青面金剛の顔は削られていてのっぺらぼう。八臂の青面金剛像は珍しい。四組目の腕は左手に蛇、右手にショケラを持っていた。


足元にやはりのっぺらぼうの邪鬼がおしりを突き出すような形で横たわる。邪鬼の両脇に二鶏。下の台の正面に大型の三猿が彫られていた。


塔の右側面、中央に「奉庚申造立諸願成就祈所」右脇に武刕入間郡下寺山村、左脇に八幡山正光院住法印宥範立之と刻まれている。


左側面中央に造立年月日。右脇に施主 兩村中、左脇に寒念佛。両側面の銘を合わせて考えると、正光院のご住職が上寺山村、下寺山村の二つの村の人たちに声掛けをして、寒念仏供養塔としてこの庚申塔を造立したということだろうか。

 

雁見橋東南墓地 川越市上寺山153北[地図]


石原町北交差点からまっすぐ西に進む県道39号線は雁見橋で入間川を越えて鯨井、鶴ヶ島方面に向かう。県道が橋に向かって登り始めたあたり、途中を左下に降りてゆく道に入り下ってゆくと、県道との間のスペースがうらぶれた墓地になっていた。写真の奥の高いところに見えるのが県道39号線。右の白いガードレールは県道から左下に分岐して降りてきた道。ガードレールの切れたあたりから墓地の敷地の中に入ることになる。入口近くに青い屋根の小堂、その先に比較的新しい建物があり、その周りに石塔が立っていた。


小堂の中 庚申塔 享保15(1730)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。全体の構成はオーソドックス。時代のわりに風化はそれほどでもない。


頭上に蛇を乗せ、目をいからせる青面金剛。人為的なものか、鼻・口など顔の真ん中は損傷。合掌した手の先もあやしい。像の右脇に「奉造立庚申守護之所」左脇の上部に造立年月日。その下に武刕入間之郡と刻まれていた。


青面金剛の足の両脇に比較的大きな二鶏。足元に邪鬼が小さく横たわる。その下の三猿は正面向きに座る。さらにその下の部分に上寺山村 講中者とあり7名の名前が刻まれていた。


庚申塔の小堂の後ろ、建物のちょうど横あたりにひときわ背の高い石塔が立っていた。写真後ろ、バスが走っているのが県道39号線、左に青い車がみえるのが入間川の土手の上の道である。


塔の上部 日月雲の間に梵字が三つ、「バク」「アン」「マン」か?中央に「奉納法華妙典六拾六部大日本廻國成就所」ここでいう「法華妙典」=「大乗妙典」で、こちらの石塔は「大乗妙典供養塔」と同じことになるが、「法華妙典」と表すのはかなり珍しいのではないだろうか。

右脇に武刕入間郡庄内領上寺山村、左脇に造立年月日。その下に願主一名の名前が刻まれていた。


建物の前に二基の地蔵塔が並ぶ。左 地蔵菩薩坐像 文政8(1825)二段の台、それも上の台は反花付き、角柱型の石塔、こちらも上に反花が付き、その上に敷茄子・蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像という豪華な地蔵塔。全体に白カビも少なく、このロケーションから考えると驚くほど保存状態がいい。塔の正面を凝った窓型に彫りくぼめた中、上部に菊の花、その下には延命地蔵経の偈文。塔の右側面に銘が刻まれているがこちらはかなり薄くなっていて、やっと造立年がわかるくらいで、その他の銘は読み取ることができなかった。戒名らしいものも見当たらず、ただの墓石とか個人の供養塔とは思えないのだが・・・


右 地蔵菩薩立像 文化15(1818)隣の地蔵塔とほぼ同時代のもの。こちらも丸彫り像だがほとんど損傷が見られず白カビも少ない。


塔の正面に「三界萬霊」両脇に造立年月日。左側面に偈文。右側面には武刕入間郡河越領 上寺山村念佛講中 惣郷中と刻まれていた。

 

観音堂 川越市上寺山136[地図]


県道39号線の雁見橋の東、橋へ向かう上り坂の手前の信号交差点を左折、南へ350mほど進むと道路右側に観音堂の入り口がある。細い道に入り本堂の前に出ると、堂の左手前に丸彫りのお地蔵さまが立っていた。


地蔵菩薩立像 正徳4(1714)四角い台の上に厚い敷茄子、蓮台。その上に静かな表情でたたずむお地蔵様。白カビは多いが首に補修跡が見当たらず錫杖・宝珠も健在。


台の正面、右端に造立年。中央に願文。左のほうに武刕入間郡 上寺山村 □譽善入。住職が願主としてこの地蔵菩薩塔の造塔の功徳を説いて呼びかけたのだろうか。


台の左側面に十一の町村の名前、中に川越町中も含まれている。


右側面にも十一の村名。上寺山村を合わせると、23の村がこの地蔵菩薩塔の造立のために協力したということだろう。


お地蔵様の背中の中央に銘が刻まれていた。「奉納大乗妙典日本廻国供養塔」単なる地蔵菩薩塔ではなく大乗妙典供養塔ということになる。

観音堂北十字路角 川越市上寺山92南[地図]


観音堂の入口のすぐ北の交差点、北西の角に石塔が南向きに立っていた。


馬頭観音塔 文政6(1823)駒型の石塔の正面に「馬頭觀世音」


塔の左側面に造立年月日。その横に 左 農業道と刻まれているが、これは初めて見た。


塔の右側面は風化のために銘が読みにくい。右側に右 今成村、その下に川越道。左側の銘はところどころ文字は見えるが全体としては読み取ることができなかった。