古谷本郷の石仏

古谷本郷阿弥陀堂墓地 川越市古谷本郷623[地図]


国道16号線の古谷上交差点から南東に向かう古谷八幡通りを600mほど進むと、道路右側に墓地があった。通りに面して小さな入口があるが、こちらは墓地の裏口で、本当の入口は古谷八幡通りのすぐ南、用水沿いに八幡通りに並行して走る細い道のほうにあった。入口正面に見えるのは農業センター、その裏一帯が墓地になる。


入口から入ると左右両側に石仏が集められていた。こちらは右側の風景。立派な小堂の中に丸彫りの地蔵菩薩像。その右脇、ブロック塀に近く狭苦しい場所に二基の石塔が並んでいる。


小堂の中 分厚い蓮台の上に地蔵菩薩立像 正徳5(1715)尊顔はやや細長く端正。像はカビなどは見られず、また錫杖など大きな欠損もなく美しい。


台の正面 中央上部に梵字「バク」その両脇に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」さらにその両脇に造立年月日。右端には古谷本郷村 施主一名の名前、左のほうに願主名、左端に 出□中江と刻まれているが地名だろうか?両側面は隙間が狭く写真は撮れないがぞれぞれ数名の名前が刻まれていた。


小堂の脇 馬頭観音塔 寛政4(1792)舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。足元の部分に古谷本郷とあり、施主一名の名前が刻まれている。


白カビにまみれているが、近づいてみると彫りは細かく立体的。三面忿怒相、迫力がある。頭上の馬頭も明快。小ぶりで個人の造立ではあるが秀品だと思う。


その隣 庚申塔 天和3(1683)駒形の石塔の正面、両脇に造立年月日。中央は白カビが厚く不鮮明だがどうやら銘は刻まれていないようだ。


塔の中ほどに素朴な三猿を浮き彫り。その下の部分に数名の名前が刻まれていた。


こちらが入口の左側の風景。小堂の中に丸彫りの地蔵像。その左脇、ブロック塀の間に庚申塔。小堂の右奥に六地蔵が並んでいた。


小堂の中 地蔵菩薩立像 宝永4(1707)入口右の小堂の地蔵菩薩像とほぼ同じような規模の丸彫り像である。


こちらのお地蔵さまもカビなどはなく、また欠損もなく美しい。真ん丸なお顔だが、よく見るとお地蔵さまは正面ではなくちょっと右を向いている。過去に一、二度こういったお地蔵様に出会った覚えがあるが、これは相当に珍しい。首に補修跡はなく、初めからこのような状態だったのは間違いない。


厚い蓮台の下、丸みを帯びた台の正面、中央に「千日念佛供養塔」右脇に導師名、左脇に願主名、さらに左端に造立年月日。両側面はこちらも写真は撮れなかったがそれぞれ数名、合わせて10名ほどの名前が刻まれていた。


小堂とブロック塀の間に庚申塔 寛延4(1751)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が著しい。


石塔の上部は特に白カビが多く、青面金剛の顔の様子などはまったくわからない。左手には足を折り曲げた小さなショケラを吊るしていた。


足元にうずくまる邪鬼。顔が溶けていてゾンビのようだ。その下の三猿、右の猿は風化のため原型をとどめない。左の猿は内向き、中央の猿は後ろ向きに座っているように見える。


塔の左側面に造立年月日。右側面には武州入間郡 施主古尾谷本郷 畑中中と刻まれていた。


一番奥に六地蔵菩薩立像 明和4(1767)地蔵像、蓮台、石塔部の様子はやや不ぞろい。


右端と左から2番目の石塔の正面に武州入間郡 古谷本郷畑中 講中。右側面には6基とも明和4年の紀年銘が刻まれていた。

 

本郷橋北住宅前 川越市古谷本郷1001[地図]


古谷八幡通りの南、用水路にかかる本郷橋の北の交差点、住宅の前に石塔が立っていた。写真右の道はすぐ先で八幡通りに、交差点を左折して用水沿いに50mほど進むと、道路右側に阿弥陀堂墓地がある。


庚申塔 造立年等不明。実は9月の時点でこの石塔には気が付いていたのだが、塔の正面に薄く「庚申」らしい文字があるだけで紀年銘なども確認できず、とりあえず記事にはしなかった。上の写真はその時の一枚。


風化が著しく石塔全体に傷が多い。石塔の正面中央、「庚申」の下は「中」のようにも見えるが今一つはっきりしない。塔の両側面ともに銘は見当たらなかった。


下の台の正面 右から此方 與野 大宮とあり道標になっている。左に願主として個人名が刻まれていた。

 

古谷本郷氷川神社 川越市古谷本郷872[地図]


古谷八幡通りを東に向かい、途中斜め左に入った先、氷川神社の参道の左に石塔が立っていた。


庚申塔 寛延3(1750)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔全体に白カビが覆いつくしている。


矛と宝輪、弓矢を手に、胸前で合掌する青面金剛。像の右脇に造立年月日。左脇、上のほうに施主とあり、下のほうは白カビが厚く読みにくいが、斎藤□□□というように見える。


浮き彫りされた像は厚く本格的で、全体のバランスも良い。頭上には蛇がとぐろを巻いていた。


足の両脇に二鶏。足元には邪鬼が不敵な表情でうずくまる。その下に両脇が内を向く構図の三猿が彫られていた。

古谷本郷薬師堂墓地 川越市古谷本郷1394前[地図]


古谷八幡通り、川越線のガードをくぐって少し先を左折、細い道を進むと左側に薬師堂の墓地があった。ブロック塀で囲まれた墓地は東西二か所に分かれている。

東の墓地のブロック塀の前、大きな宝篋印塔を中心に多くの石塔が並んでいた。


右から小型の石地蔵の隣に庚申塔 享保13(1728)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔全体に白カビが多い。


像の右脇「奉納庚申供養」その下に古尾谷本江村。左脇に造立年月日。その下に施主 女中二十二人と刻まれている。


足の両脇に二鶏を半浮彫。足元の邪鬼は貧弱。細い足を深く折りたたんで土下座しているようだ。その下に正面向きの三猿が彫られていた。


宝篋印塔の脇、西向きに並ぶ三基の石塔。右 法華千部供養塔 天明6(1786)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「奉漸讀法華千部供養塔」塔の両側面には小さな文字で長い銘文。左側面の銘文の最後に造立年月日が刻まれている。


中央 大乗妙典六十六部供養塔 文化3(1806)角柱型の石塔の正面「奉納大乗妙典日本回國六十六部供養塔」右側面に造立年月日。左側面に施主一名の名前が刻まれていた。


左 秩父三十四番供養塔 弘化3(1846)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「奉拝秩父三十四番供養塔」秩父観音霊場順礼を記念したものだろう。右側面に造立年月日。さらに施主一名、世話人二名の名前。左側面は細かい文字が見えるが大部分が剥落していた。

中央 大きな基壇の上に宝篋印塔 嘉永6(1853)屋根型の笠を持つ、江戸時代後期に典型的な宝篋印塔。


基礎の裏面、右端に造立年月日。続いて住職の名前。中央付近、施主とあり、當村 普門品連経講。最後に世話人五名の名前が刻まれていた。


ブロックの小堂の中に丸彫りの六地蔵菩薩立像。像は大きさがまちまちだが、その下の台はそろっている。


六つの台、正面に地蔵菩薩名。両脇に施主 講中。側面に戒名などが見えるが紀年銘は確認できなかった。


薬師堂の手前、両脇に二基の地蔵塔。石塔も像も同じような大きさで、一対のもののように見える。


左 地蔵菩薩立像 宝永5(1708)丸彫りの地蔵像だが欠損なく美しい。


角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「念佛供養願主松運社如譽行眞大徳」念仏供養塔である。右脇に古尾谷本郷講中六十九人。左脇に造立年月日。上の像は後から作られたものかもしれない。


右 地蔵菩薩立像 文化2(1805)像と蓮台と石塔、色がそれぞれに異なっているようだ。


石質が悪いのか、石塔の銘は薄く読み取るのが難しかった。正面中央に「百萬遍供養」こちらも念仏供養塔である。その下に男女六十六人。上部両脇に造立年月日。右下に世話人一名、左下に願主一名の名前が刻まれている。さて、ここからは推測するしかないのだが、左の地蔵塔の造立年とは100年あまりの隔たりがあり、この二基の石塔自体は本来何の関係もないものだったのではないだろうか。あるいは、その上に乗る二体の地蔵像は、堂前に対になるように、あとから同じような時期に作られたのだろうか。