古谷上の石仏

宿中央通り古谷郵便局南交差点角 川越市古谷上738[地図]


宿中央通りにある古谷郵便局のすぐ南の交差点の角に石塔が立っていた。このあたりを境に、町名は小中居から古谷上になる。


馬頭観音塔 文政9(1826)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に大きく「馬頭觀世音」


塔の右側面は白カビが厚く銘が読みにくい。やや下のほうに入間郡古谷上村、その隣に宿講中 世話人。


左側面を彫りくぼめて、その上部に造立年月日。その下、木埜目村 小中居村、それぞれ一名の名前が刻まれていた。

国道16号線南側歩道 川越市古谷上4525東[地図]

宿中央通りを北上して、古谷交差点のすぐ手前を右折、用水沿いの細い道を東に進むと国道16号線に出る。その歩道の脇に石塔が北向きに立っていた。用水沿いの道はこのあたりから緩やかにカーブして古谷本郷方面に向かう。資料にはこの石塔の所在地が「かんのん橋際」となっていて、この用水にかかるもっと東のほうの橋の周辺を探したのだがみつからず、半ばあきらめていた。40年の間にこちらに移動されたのだろうか。

大きな四角い台の上 馬頭観音塔 天保2(1831)角柱型の石塔の正面の上部、丸く彫りくぼめた中に馬頭観音坐像を浮き彫り。


蓮台の上に座る一面二臂の馬頭観音菩薩。ふっくらとした馬口印、頭上の馬頭もはっきりと、彫りは丁寧で細かい。


その下に造立年月日。さらに西 川越道と刻まれていた。


塔の右側面 上部に大きく右 よの 阿ふミや(おおみや?) 道。下部には武州入間郡 古尾谷上村 講中。


左側面には 左 おひふくろ あげを ミち。三方向五地名を示す立派な道標となっている。その下、右に字堀之内とあり、「セハ人」三名の名前が刻まれていた

宿公民館前墓地 川越市古谷上3787[地図]


国道16号線の古谷交差点を渡って、宿中央通りを北へ向かう。交差点のすぐ北、道路西側、宿公民館の南に墓地があり、その入り口に二基の石塔が立っていた。


右 庚申塔 文化7(1810)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。



江戸時代後期らしく彫りは細かく技巧的。逆巻く髪の中に蛇が顔をのぞかせる。顔をしかめてにらみつける青面金剛は力強く、なかなかの迫力だ。小さなショケラは足を折り曲げ合掌していた。


青面金剛の足元は複雑な紋様の凸凹のためにわかりにくいが、二鶏はいないようだ。邪鬼は顔がつぶれ不気味な姿。三猿は中央と左の猿が右を向き、右の猿だけが左向きというユニークな構図。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武刕入間郡 古谷上村宿講中 廿六人と刻まれていた。


青面金剛庚申塔の裏、南向きに庚申塔 延宝4(1676)三猿を主尊とする「三猿庚申塔」である。


中央、風化のためか文字が薄くなっているが、たぶん「庚申講人數」だろう。右脇に造立年月日。左脇 武州入東郡稲荷里古尾谷□上江。


ちょこんと座った縫いぐるみのような三猿が可愛い。三猿の下の部分に十名ほどの名前が刻まれていた。


その左隣 馬頭観音塔 安政5(1858)角柱型の石塔の正面 中央に「馬頭觀世音菩薩」右脇に造立年月日。左脇に西 川越道。塔の左側面、手前に崩し字で老袋渡し、その奥に願主一名の名前が刻まれている。


右側面は隙間が狭いうえにかなりの崩し字で難読。南 新川岸までは分かるがそれ以下は読めなかった。いずれにしてもこの馬頭観音塔は道標になっている。


入口左 大乗妙典供養塔 延宝4(1676)笠付きの角柱型の石塔の正面中央「奉漸讀大乗妙典一百部」上部両脇に「現世安穏 後生善處」下部両脇に造立年月日。塔の両側面にぞれぞれ数人の名前が刻まれていた。


大乗妙典供養塔の裏、北向きに六基の石仏が並んでいた。ほとんどが墓石で、左から舟形光背型の地蔵菩薩立像 正徳5(1775)、2番目が舟形光背型の阿弥陀如来立像 寛文13(1673)、3番目が丸彫りの地蔵菩薩立像 享和2(1802)、一つ飛ばして5番目が丸彫りの地蔵菩薩立像 安永7(1778)、右端が舟形光背型の地蔵菩薩立像元禄12(1699)


4番目 丸彫りの地蔵菩薩立像。ここでは際立って大きく立派な石地蔵であるが、白カビも多く、風化も進んでいる。


台の右側面奥に武州、手前に古・・、左側面手前に宿、奥に念佛・・台が深く埋まっていて銘の全体は読めないが、武州古谷上村宿の念佛講中によって造立されたお地蔵様、講中仏だろう。台の正面は風化のために溶けていて紀年銘は確認できなかった。

 

沼端交差点南西墓地 川越市古谷上2053[地図]


沼端の信号交差点の南西角にある墓地。同じ敷地内には「沼端自警隊」の倉庫が立っている。墓地の入口から入ってすぐ右手、倉庫のそばにコンクリート造りの祠と庚申塔が並んでいた。(先日この前を通ったら、この倉庫はつい最近撤去されたらしく影も形もなく、その裏の火の見やぐらだけが残っていた)


祠の中を覗くと、厨子の中に木造の地蔵菩薩立像?が祀られていた。


鳥居の奥に庚申塔 宝暦7(1757)大きな四角い台の上 駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
 

頭上に蛇を載せた青面金剛。口のあたりだけが削られているが、他の部分は彫りもしっかり残っていて大きな欠損も見られない。像の右脇に「奉供養庚申塔」と刻まれている。


青面金剛は胡坐をかいた邪鬼の両肩の上に乗っていた。この邪鬼は初見。その両脇に二鶏を線刻。その下の三猿も個性的。中央の聞か猿だけが右向きに座り、両脇が正面向きという構図も見た覚えがない。三猿の下の部分、右から入間郡古谷上。続いて造立年月日。左のほうには願主 施主 合五拾人と刻まれていた。

沼端公民館前 川越市古谷上2055[地図]


交差点の北50mほど先、道路左側の沼端公民館の前に石仏が並んでいた。奥には墓地がひろがっている。

左端 地蔵菩薩立像 寛文3(1663)鋭角的な舟形光背に地蔵菩薩像を浮き彫り。光背の左上のほうに錫杖の先の部分が残っていて、柄のほうは欠損。それにしてもずいぶんと長い錫杖である。


光背両脇に銘が見えるがごく薄く読みにくい。右脇は2行。上のほうに武州日東郡古尾谷庄沼端村・・・・途中白カビもあり読み取れず、下のほうに念佛講中。その横の行は上から中ほどまでまったく読めなかったが、最後のあたり、造立地蔵菩薩像攸とあった。左脇、上のほうに施主 天法院・・・以下は読めない。その横に造立年月日。その下は足元まで細かい文字が見えるのだが、残念ながらこちらも読み取れなかった。


その隣 阿弥陀如来立像 寛文6(1666)やはり鋭角的な舟形光背を持つ。こちらのほうはさらに銘が読みにくく、なんとか紀年銘の部分だけ確認。これも講中仏ではないかと思うのだが確証はない。


続いて丸彫りの六地蔵菩薩立像 天明6(1786)六体の尊像、蓮台、石塔ともに欠損なく揃い、六地蔵としての統一感がある。石塔の正面に刻まれた銘は右端から「念佛講中」2番目には天明六年四月吉日とあり、これが造立年月日と思われる。3番目には「三界萬霊」これだけは右側面にも銘があり、天明六年の命日、大姉戒名が刻まれていた。4番目は中央に権律師とあり、命日は延宝8(1680)、100年後の六地蔵塔にその名が刻まれたということは村にとって重要な功績を残したということか?5番目には天明5年の命日と信女戒名。左端の塔の正面には古尾谷上村沼端と刻まれている。



六地蔵の隣 地蔵菩薩像立像 文化9(1812)こちらは墓石だった。


墓地の入口近く 四角い台の上に六字名号塔 寛文2(1662)宝珠を載せた笠付きの角柱型の石塔の四つの面を彫りくぼめた中に「南無阿弥陀佛」


近づいてみると枠の部分、「南無阿弥陀佛」の周りに、おびただしい数の文字が刻まれている。白カビが多く、彫りも薄くなっていて全部を読み取るにはそれ相応の時間と根気が必要だが、数回訪ねてみてその中のいくつかは読み取れた。こちらは左側面、「阿弥」の右横に維時寛文二と読める。さらに左の枠に古谷上江、鴨田村。


こちらが左側面と裏面。裏面には名号以外に文字は見当たらない。左側面の右枠に田嶋村八人、古市場、左枠に野田村?四人、などと読める。かなり多くの村、人の名前などが刻まれているようだが、地名などなじみがないとこれを読むのは難しそうだ

実相院 川越市古谷上4266[地図]


古谷上交差点から北へ400mほど、右手に古谷小学校を見てそのすぐ先を左折すると実相院の山門の前に出る。きれいに整備された参道の奥に本堂が見えた。

本堂の左手前、西のほうに広がる墓地の入口に石仏が並んでいる。

左端、東向きに大きな丸彫りの地蔵菩薩立像 享保7(1722)左脇に個人の造立による念仏供養塔が立っていた。

薄く白カビが見えるが欠損はなく彫りもきれいに残る。静かな表情でたたずむ姿には気品がある。


石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉建立地蔵菩薩」両脇に地蔵菩薩塔でよく見る偈文。「延命地蔵菩薩経」の中にある一節らしい。訓読みしてみると「毎日の晨朝に諸定に入り、六道に遊化して苦を抜き楽を与える」となる。塔の右側面に造立年月日。左側面に古尾谷上村とあり、願主一名の名前、続いて施主 四拾六人と刻まれていた。


その奥、小堂の中の六地蔵菩薩立像 宝暦3(1753)丸彫りの六体のお地蔵さまは大きさもほぼ揃っていて比較的風化も少ない。


右から2番目のお地蔵様の丸みを帯びた台の正面、中央に「奉造立地蔵菩薩」両脇に偈文。右側面、奥に造立年月日。続いて古尾谷上村とあり二名の名前が刻まれている。


六地蔵の奥に二基の地蔵菩薩像が並ぶ。地蔵菩薩立像 嘉永2(1849)石塔部は剥落が多いが、地蔵菩薩像のほうには風化の様子が見られず、像は本来のものではないのかもしれない。


その奥 地蔵菩薩立像 安永2(1773)石塔に戒名が刻まれ施主は個人名、この二基の地蔵塔はどうやら墓石のようだ

 

堀ノ内集会所 川越市古谷上4235[地図]


実相院の西にある堀ノ内集会所の左脇、フェンスに囲まれた一角にいくつか石塔が並んでいた。


集会所近くに地蔵菩薩立像 享保元年(1716)舟形光背に輪光背を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。白カビが多く銘も読みにくいが、右下のほうに霊位と見え、墓石なのだろう。左脇に造立年月日が刻まれている。


フェンス近く、丸彫りの地蔵菩薩立像 文化元年(1804)像に欠損はないが敷茄子の正面だけが剥がれ落ちていた。塔の正面「奉納百八拾八箇處 西國四國秩父坂東 百萬遍供養佛」両脇に天下太平 国土安全。


塔の右側面 武州入間郡小室村、その下は施主名か?左のほうに造立年月日が刻まれている。


左側面 願主とあり、古谷上村堀ノ内 阿弥陀堂、続いて二名の僧侶の名前が刻まれていた。この集会所の場所は阿弥陀堂の跡地なのだろう。

黒須自治会館前 川越市古谷上4067[地図]


実相院の北西にある黒須自治会館の右手前、ブロック塀に囲まれて石塔が並んでいる。右脇には卵塔と不明塔、左脇には板碑の残欠が立っていた。


正面の右端 千部供養塔 宝暦14(1764)石塔の正面 梵字「サ」の下に「千部供養塔」


塔には白カビが厚くこびりついている。左側面 中央上部に「経曰」とあり四行ほどの銘文が刻まれているが、中央あたり観音と見え、また正面に観音菩薩を表す梵字「サ」があることから観音経千部供養塔だろうか。


右側面に願文。左のほうに造立年月日が刻まれている。


台の正面 右のほうから施主五十二人、続く二行は願主だろうか僧侶の名前と思われる。


その隣 丸彫りの地蔵菩薩立像 享保7(1722)白カビが多く宝珠がかけているものの、その立ち姿はバランスがよく堂々としている。


石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「カ」の下「奉新造立地蔵尊念佛講」両脇に偈文。


右側面には大姉、禅定門、信女、禅定尼、四つの戒名。左側面には施主 黒須村とあり名前があるがこれは読めなかった。続いて女中五十人。その奥に造立年月日。さらに願主名が刻まれている。


その隣 舟形光背に地蔵菩薩立像 寛文11(1671)風化のため光背の一部は損傷。像も顔はつぶされているようではっきりしない。


光背右脇 銘が一部読めないが、下のほうは「供養」その上は「念佛」か?左脇に造立年月日。宝珠と錫杖の一部が欠けていた。


お地蔵様の足のあたり、光背下部に多くの名前が刻まれている。ひらがなの名前もあり、女性も含む大きな講のようだ。


左端 こちらも地蔵菩薩像のようだが欠損が大きく造立年などは不明。光背右脇の銘の中に「法師」とあり、僧侶の墓石だろう。

 

蔵根橋南西路傍 川越市古谷上5651[地図]


麦生川(むぎゅうかわ)にかかる蔵根橋(ぞうねばし)から南西に100mほど進んだ交差点の角、住宅のブロック塀の前に庚申塔が立っていた。


雨除けの下、庚申塔 元文5(1740)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。今までに見たこともない非常に個性的な庚申塔である。


塔の上部、日天と月天の間に梵字「バン」像の右脇に「ウン」「タラーク」左脇に「キリーク」「アク」五つの梵字はそれぞれ大日如来、阿シュク如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来を表し、合わせて金剛界五仏というらしい。庚申塔にこれを見るのは初めてだ。頭上にとぐろを巻いた蛇を載せた三眼の青面金剛は目をいからせ、口をへの字に忿怒の表情を示す。宝輪を持つ左手の脇に「奉造立青面金剛尊」と刻まれていた。


下の左のほうの手はショケラの髪の毛をつかむ。このショケラがやけに大きくしかも後ろ向きで、これもユニーク。右手には矢を持っているが弓は?矢の下のあたりに造立年月日。その両脇に講會中 三十四人と刻まれている。青面金剛の足の両脇には二鶏を半浮彫り。足元にやや小型の邪鬼が首を傾けるような形で寝そべる。邪鬼の下に正面向き、ダイヤ型の三猿が彫られていた。

蔵根橋西三差路 川越市古谷上5683[地図]


蔵根橋からまっすぐ西に200mほど進む。大きな信号交差点の少し手前、三差路のところに石塔が西向きに立っている。写真右の道は蔵根橋へ、左の細い道は私道のように見えるが・・・


馬頭観音塔 慶応3(1867)角柱型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音菩薩」右脇に造立年月日。左脇に白カビの中、西 川越道と刻まれていた。


塔の左側面は銘がしっかり読み取れる。上のほうに大きく「左」とあり、その下に老袋渡し、その横に上尾あきは 道と刻まれていた。たまたま近くを通りかかった年配の方のお話では、以前はこの左の細い道の先に橋があって、その先に「老袋の渡し」があったという。地図で確認してみると蔵根あたりから荒川を渡ると9月19日の記事で紹介した「握津」地区になる。握津公民館の前に立っていた馬頭観音塔の道標にもあったように、握津から宝来を経て中釘の秋葉神社へと続く道は古い主要な街道で、今はさびしい握津は思った以上に大きな集落だったのかもしれない。


右側面はカビが厚くこびりついていて、ライトをあててやっと銘を確認した。上のほうに「右」その下はたぶん蔵根川道。土地の人の話では写真右の道はあとから広げられたもので昔はさびしい道だったということだ。麦生川は蔵根川ともよばれたのだろうか。


下部右側、古谷上村字蔵根。左側に願主とあり、鈴木□左エ門と刻まれている。この石塔は馬頭観音塔であるが、道標としての役割も大きいようだ。

麦生橋南路傍 川越市古谷上5758付近[地図]


上の馬頭観音塔のすぐ西の信号交差点は五差路になっている。南へ進むと国道16号線古谷上交差点、西は伊佐沼の沼端方面、東が蔵根橋、北はここから二方向に分かれて、広い道路は北西に、鴨田を通り産業団地を抜けて菅間方面へ、やや狭い道路は北東に向かい老袋方面に至る。この入間川右岸を北上する道は古道で、馬頭観音塔などの石仏が数多く見られる。麦生川にかかる麦生橋の少し手前、道路右側に五基の馬頭観音の文字塔が並んでいた。


右端 馬頭観音塔。自然石に「□頭観世音」上部が欠けていて造立年は不明だが比較的新しいもののように思われる。施主は個人名が刻まれていた。


右から2番目 馬頭観音塔 明治21(1888)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。左側面 入間郡古谷上村 沼端とあり個人名。伊佐沼の近くにあったものか?


3番目 板碑型の馬頭観音塔 宝暦8(1758)中央に「馬頭觀音大士」両脇に造立年月日。左右の縁の部分に個人名が刻まれている。


4番目 馬頭観音塔 弘化3(1846)正面中央「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。右側面は無銘。左側面に古谷上村蔵根とあり、願主個人名が刻まれていた。


左端 馬頭観音塔 明治43(1910)正面中央に「馬頭觀世音」右側面は無銘。左側面に造立年月日。願主はこちらも個人名。五基の馬頭観音塔は周辺路傍にあったものが整理されてこちらに集められたものではないだろうか。

握津公民館入口 川越市古谷上6407[地図]


荒川左岸の河川敷にある握津公民館の入口に南向きに石塔が立っていた。石塔の前の道は西に進むと大宮カントリークラブのゴルフコースに突き当たり、東に進むと荒川の土手に突き当たる。石塔の左脇の細い道の先には今は廃屋になった握津公民館が立っている。


馬頭観音立像 天明2(1782)真四角な台の上、分厚い角柱型の石塔の正面に三面六臂忿怒相の馬頭観音立像を浮き彫り。白カビも多く顔は半ば削れているが、彫りはしっかりしていて力強い。ふっくらと馬口印を結び、頭上の馬頭も確認できた。


塔の左側面 大きな字で 西 川越 おふや満 ちちふ 道。当時、ここから西に進むと、平方、老袋の渡しがあった。荒川を越えると川越、その先は北へ向かうと秩父往還、南へ向かうと大山道の古道があったのだろう。


塔の裏面 北 あげを はらいち 岩つき 志をん寺 道。上尾は北だが、原市、岩槻、慈恩寺はここからは東のほうになる。上尾から東へ向かい原市経由で岩槻というのが慈恩寺参詣の道としては一般的だったということだろう。


塔の左側面 東 あきば よの 江戸 道。「あきば」は中釘にある秋葉神社。その先は与野を通って江戸へ向かう。右端に武刕入間郡川越領古谷上村新田。左下に願主一名。さらに講中廿一人と刻まれていた。

 

公民館東路傍 川越市古谷上6652付近[地図]


握津公民館入口の馬頭観音塔から東へ200mほど進むと道路右側の藪の中に石塔が立っているのが見えた。気を付けないと通り過ぎてしまうような場所で、道端に置かれた二個の敷石が目印になる。


雨除けの下、庚申塔 寛延3(1750)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。石質は硬そうで像も銘もクリア。


三眼の青面金剛。口をへの字に正面をにらみつける。像の右脇「青面金剛庚申供養」左脇に造立年月日が刻まれていた。


足の両脇に二鶏。線は細かく丁寧。足元の邪鬼はやや小型、青面金剛のミニチュア版のような顔で横たわる。その下に大きな正面向きの三猿。柔らかな表現でリアルな印象を受けた。三猿の下の部分、武刕入間郡 施主二十二人 古尾谷上村 阿久津。前回見た馬頭観音塔が、講中21人、こちらが22人。河川敷の中、今はほとんど生活を感じさせないような場所だが、当時はそれだけの人々がこの土地で暮らしていたということだろう。


塔の左側面 左 阿き葉みち、右側面 右 川越道と刻まれ、馬頭観音塔と同じようにこちらも道標になっている。


庚申塔の脇には明治21(1888)造立の馬頭観音の文字塔が立っていた。