大松・大杉の石仏

 

大松香取神社 越谷市大松


無量院から県道102号線を東に進むと、道は蛇行してやがて田園地帯の中を南に向かうことになる。小さな用水路を越えた先、左手に香取神社があった。拝殿の左の奥、境内社の横に二基の石塔が並んでいる。


左 庚申塔 元禄12(1699)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。正面に蓮を浮き彫りした大きな台の上、頭上に蛇をいただいた青面金剛が不機嫌そうに立っている。


光背右下「奉寄進庚申供養施主」左下に造立年月日。その下に大松村 敬白。青面金剛の足の下は邪鬼だろうか?どうもはっきりしない。三猿、二鶏も見当たらず、元禄期あたりの庚申塔はこういった例が結構多いようだ。その下の部分、正面に九名の名前が刻まれていた。


右 普門品供養塔 天保4(1833)荒彫りの石塔の正面、梵字「サ」の下「普門品一万巻供養塔」塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日が刻まれている。

香取神社南路傍 越谷市大松175


香取神社のすぐ南、道路西側の民家の生垣の中に二基の石塔が並んでいた。


左 念仏供養塔 享保8(1723)背の高い駒型の石塔の正面「一千日念佛成就供養」両脇に造立年月日。


上部 日月雲の下に合掌型の地蔵菩薩坐像を浮き彫り。静かに目を閉じ合掌する姿は実在したご住職の姿を写したものだろうか。


右 大乗妙典供養塔 正徳元年(1711)唐破風笠付の角柱型の石塔の正面、梵字「キリーク」の下に「奉納大乗妙典六十六部回國供養塔」


塔の左側面  梵字「サ」の下に造立年月日。右側面には梵字「サク」の下に武州崎玉郡新方領大松村 願主通譽圓心と刻まれていた。


笠の上の丸彫りの像は左足を立てて坐る形。如意輪観音は右足を立てて坐る独特の形を採り、これを輪王座と呼ぶらしいが、左足を立てたこの形も輪王座と言えるのだろうか。頭部を欠くが左手に宝珠を持ち、右手は錫杖を持つ形で地蔵菩薩坐像だろう。笠の上に相輪というのはしばしば見るが、笠の上に石像が乗るケースは珍しい。

 

大杉香取神社北路傍 越谷市大松62


大松香取神社から南に向かい、二つ目の交差点を左折して200mほど進むとT字路にぶつかる。そのすぐ手前、左手の住宅の入り口脇に石塔が立っていた。このお宅は江戸時代に大松村の名主を務めた家柄らしい。


庚申塔 天保9(1838)角柱型の石塔の正面を楕円形に彫りくぼめた中に「庚申塔」塔全体を白カビが覆いつくしている。


塔の左側面に造立年月日。その下に大松村。右側面にはこの家に代々受け継がれてきたという名前、「長野四郎兵衛」という銘が刻まれていた。

清浄院 越谷市大松60


先ほどのT字路を右折して少し行くとまたT字路にぶつかる。ここを右に入ると大杉香取神社、左に曲がってまた少し行くと左手に清浄院の入口があった。参道の左側、大きな阿弥陀如来坐像の周りに無縁仏が集められ、奥には小堂の中に比較的新しい六地蔵菩薩が祀られている。


六地蔵の左横には三基の石仏が並んでいた。


左 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)二段の台に蓮台を重ねその上に丸彫りの地蔵菩薩。2mほどの高さになる。


蓮台の中央に「奉納大乗妙典」下の台の正面に続けて「六十六部日本廻國諸願成就」台の正面は右から左へ外から同行 貳人、二名の比丘名、さらに俗名長野清左ェ門、息子同性玄隆となっていて、長野家の親子が同行二人して六十六部回国を達成し、その記念にこの石塔を造立したということらしい。


台の右側面に造立年月日。左側面に武州崎玉郡大松村回國比丘と刻まれている。


中央 地蔵菩薩立像 延宝3(1675)舟形の光背を持つ江戸時代初期らしい美しい石地蔵。こちらは個人の墓塔だった。


右 阿弥陀如来立像 寛文4(1664)舟形の光背に阿弥陀如来立像を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。右脇は白カビのために読みにくいが、上のほうに念佛結衆とあり、下のほうには大杦(杉の旧字)村 施主と刻まれていた。

 

大杉神社 越谷市大杉75南


大松の清浄院の入り口から西へ100mほど歩くと大杉香取神社の鳥居の前に出る。鳥居左脇に石塔が立っていた。上の写真の右の木の向こうに見えるのが香取神社の拝殿、左奥に見えるのは大杉自治会館である。


庚申塔 文化6(1809)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」


下の台の正面中央に聞か猿、左側の角には言わ猿が彫られていた。


右側の角の所に見猿。この三猿の構図は珍しい。その下の台は深く土中に埋もれているが、正面右端に文字が見えていた。資料によると本田講中 世話人とあり、二名の名前が刻まれているらしい。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡新方領大杦邑と刻まれている。

大杉自治会館 越谷市大杉75


神社の奥にある自治会館の東の一角、塀の前に石塔が集められていた。


右端 普門品供養塔 慶応2(1866)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品供養」塔の右側面に造立年月日。左側面にはたくさんの人の名前が刻まれているが表面が荒れていて読みにくい。


その隣 大乗妙典回国供養塔 寛政3(1791)正面を掘りくぼめた中、上部に阿弥陀三尊を梵字で表し、その下に「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」右脇に造立年月日。左脇には越後國岩船郡村上領新保村 願主□□法子と刻まれていた。


続いて普門品供養塔 天保9(1838)自然石の正面 凡字「サ」の下に「普門品供養」両脇に薄く造立年月日が見える。


中央には無縫塔が立ち、その左に阿弥陀如来立像 天和4(1684)きれいな舟形光背にバランスよく阿弥陀如来立像を浮き彫り。顔のあたりの白カビが涙のように見える。光背右脇に浄閑寺第六世來蓮社本譽閑悦和尚。左脇には造立年月日が刻まれていた。

 

稲荷神社 越谷市大杉458西


船渡新田集会所付近からさらに東へ600mほど、北陽中学校の東の交差点を右折して50mほど先の右手に稲荷神社の入口がある。住宅の間の細い道を入ってゆくと赤い鳥居の左脇に二基の石塔が立っていた。


右 庚申塔 寛政11(1799)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足下の邪鬼は猫のような顔をしてうずくまっている。下の台の正面には両側が内を向く形の三猿が彫られていた。


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。下の台の左側面に六名の名前、右側面には大杉新田 髄應和尚。さらに世話人とあり五名の名前が刻まれている。


左 猿田彦大神塔 天保13(1842)角柱型の石塔の正面 日月雲「猿田彦大神」



塔の右側面に造立年月日。左側面には大杉新田組 講中と刻まれていた。