桜区新開

 

真光寺 桜区新開1-6-35[地図]


新開通り、鴻沼川に架かる新開橋の北200mほど、道路左側に真光寺の入り口がある。墓地の入り口右脇の小堂の中に六地蔵が並んでいるが、こちらは比較的新しいものだった。


入口の右側、ブロック塀の前に小堂が立ち、その奥に石塔が並んでいる。


小堂の中に疱瘡神塔 文化3(1806)笠付き角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめて、中央に「疱瘡神」側面の銘は確認できない。


その奥に庚申塔 享保11(1726)四角い台の上、唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。台の正面、右から新開村、講中十四人、左に願主一名の名前が刻まれていた。


蛇冠、三眼、ドングリ眼、口をへの字の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。その腕に蛇が絡みつく。


足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は全身型。その下に正面向きの三猿。このあたり白カビが多い。


塔の右側面「奉造立庚申待供養」横から見ると像の彫りは結構厚い。


左側面に造立年月日。その横に武刕足立郡与野領・・・下部は白く変色し銘は判読できないが新開村か?


続いて陀羅尼経供養塔。笠付き角柱型の石塔の正面、梵字「アーンク」の下に「陀羅尼経」紀年銘などは見当たらず。詳細は分からない。


その隣 馬頭観音塔 宝暦6(1756)舟形光背に三面二臂の馬頭観音立像を浮き彫り、白カビも多く像も溶けだしていて、尊顔は初め見たときは一面かと思ったがよく見るとどうやら三面らしい。光背左脇に「馬頭觀世音」右脇に梵字が刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面に施主は個人名が刻まれている。


続いて 馬頭観音塔  嘉永元年(1848)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。塔の左側面に施主 個人名が刻まれていた。


左端 馬頭観音塔 明治33(1900)駒型の石塔の正面「馬頭□□□」下部は剥落。右脇に造立年月日と施主名。正面両脇に五月三日没、九月 没とあり、相次いで亡くなった二頭の馬の供養のために造立されたものらしい。


入口左側のブロック塀の前には多くの無縁仏が並んでいる。こちらに目がいってしまって見逃してしまいそうなのだが・・・


入口の門扉と無縁仏の間の狭い空間に石塔が立っていた。


四国移霊場標石 文化2(1805)角柱型の石塔の正面、上部に四國 その下に八十八ヶ所第三十□□。剥落のため何番なのかは確定できない。右脇に土佐國五□□移。高知県の30番台の霊場を調べると37番に五智院岩本寺があるが、こちらか?その下に「新」とあるのは新開村、左に真光□=真光寺だろう。


塔の右側面は狭く写真は難しいが、屋久王以ん 江 八丁。田島の薬王院だろう。左側面に造立年月日。その下に施主とあり個人名が刻まれていた。


墓地の入口の左脇 宝篋印塔 文化3(1806)基壇の上に台を重ね、大ぶりの屋根型笠まで総高3m近い。塔身四面に梵字が刻まれている。


基礎の正面、「宝筐院陀羅尼経白」ではじまる偈文。台の正面右に當村。続いて發願主、二名の名前。左に世話人村中と刻まれていた。


基礎の右側面に「光明真言一千萬遍供養塔」と読むべきか。台のほうにも光明真言講中十方施主とあり、光明真言供養塔でもある。


基礎の裏面に偈文。左側面に造立年月日。さらに供養導師とあり安養山圓乗院の住職の名前が刻まれていた。与野本町の圓乗院の末寺だったのだろうか?台のほうに与野町の石工の名前が刻まれている。