神明町・宮本町の石仏

 

国道4号線神明町交差点北東路傍 越谷市神明町2-245南


国道463号線を北越谷駅方面に向かい、国道4号線を神明町交差点で越えた先の信号交差点を左折、50mほど進むと道路左側、緑色のフェンスに囲まれて石塔が立っていた。真新しい駒型の石塔でタオルがかかっていたが、覗いてみると「馬頭観世音」と刻まれている。


新しい石塔の後ろに隠れるように馬頭観音塔 嘉永3(1850)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。下部右から新明下村。世ハ人 馬持中、願主 □良と刻まれている。前の新しい馬頭観音塔はこの馬頭観音塔が古くなってきたためにそれを模して造立されたものなのだろう。

新明町二丁目集会所前墓地 越谷市神明町2-301付近


元荒川右岸沿いに走る県道52号線、神明町二丁目交差点から250mほど北へ進むと斜め左に降りてゆく細い道がある。この先に集会所があり、その前は墓地になっていた。墓地の入り口付近、ブロック塀のあたりに多くの石塔が並んでいる。


右から普門品供養塔 安政2(1855)角柱型の石塔の正面「普門品供養塔」両脇に天下泰平・五穀成就。塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡崎西庄 神明下村講中と刻まれていた。


続いて文政12年の三界萬霊塔、詳細不明の二基の石地蔵が立ち、その奥 地蔵菩薩立像 享保11(1726)舟形光背上部に梵字「カ」中央に地蔵菩薩立像を浮き彫り。台の正面に神明下 男女と刻まれている。


光背右脇「奉供養為二世安樂」左脇に造立年月日。左下に願主 西念。


その隣、阿弥陀如来立像 寛文5(1665)大きな舟形光背に阿弥陀如来立像を浮き彫り。光背の一部が欠けていた。


像の右脇「奉待庚申講人數」左脇「記二世安樂之攸」江戸時代初期に見られる阿弥陀如来を主尊とする庚申塔ということになる。続いて両脇に造立年月日。さらに下部両脇に八名の法名、俗名が刻まれていた。


続いて首のもげた丸彫りの石地蔵が立ち、その隣 大乗妙典供養塔 正徳4(1714)笠付きの角柱型の石塔の正面を彫りくぼめ、中央に「奉供養大乗妙典六十六部成就処」右下に法師忍可、左下に一人の俗名。


塔の右側面 中央に梵字文。右脇に造立年月日。左脇には武州崎玉郡神明下邑と刻まれている。


塔の左側面中央に「南無大師遍照金剛」右脇に三界萬霊有無兩縁、左脇に信心檀那二世安樂。中央下部に啓白と刻まれていた。


続いて六体の小型の石仏が並び、左側の端に一石六地蔵塔 元禄13(1700)上部を唐破風笠様に彫った石塔の正面、蓮台に立つ六地蔵菩薩を浮き彫り。左脇に造立年月日。


右脇「奉供養百堂巡礼為二世安樂」百堂供養塔ということになる。近づいてみると小さな地蔵菩薩像だが彫りは細かく丁寧で美しい。


足元の部分、右に本願・・、中央に神明(下村か?)左端に同行卅七人と刻まれていた。

神明町一丁目自治会集会所 越谷市神明町1-54南


県道52号線、神明町二丁目交差点から南東、越谷駅方面に400mほど進んだあたり、細い道を右に入って少し行くと道路左手に神明町一丁目自治会集会所がある。敷地内に八雲神社、富士浅間神社の二つの社があり、その先に石塔が並んでいた。


左 庚申塔 自然石の正面中央「青面金剛」


台の正面、右に造立年月日、左に崎玉郡神明村講中。台の両側面にはそれぞれ10名の名前が刻まれている。


右 庚申塔 造立年不明。角柱型の石塔の正面上部に日月雲。その下中央に大きな字で「庚申」台の正面に「在家組」両側面にはそれぞれ数名の名前。
 

塔の側面は風化が著しく剥落もあり、造立年月日が刻まれていそうなものだが見当たらない。

 

迎摂院 越谷市宮本町2-54


元荒川右岸沿いの県道52号線、神明町二丁目交差点から越谷駅方面へ800mほど進むと道路右側に 迎摂院の入り口があった。中へ入ると山門手前、右側の墓地の塀の前に四基の石塔が並んでいる。



最近整備されたものらしく、右端の地蔵菩薩像は平成6年建立のごく新しいものだった。


右から2番目 庚申塔 享保7(1722)角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。


ちょうどこの辺りは白カビが付着していて青面金剛の表情はよくわからない。後ろの二組の腕はどちらも肩のあたりからやや上向きについていて、空間のバランスがちょっと変わっている。


足元もカビが多く見にくいが頭を左にしたうつぶせの邪鬼のようだ。その下に二鶏を線刻。さらにその下に三猿。風化が進み中央の聞か猿?の頭のあたりは欠けているがこの三猿は動きがあって面白い。


塔の左側面に造立年月日。右側面は白カビが多いが、かろうじて銘が読める。梵字「ウーン」の下「奉剋彫青面金剛聖容庚申講二世安樂攸」右下に神明村 講中、左下に敬白。両側面とも下部に4名の名前が刻まれていた。



その隣 庚申塔 元禄13(1700)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の台の正面には講中とあり、二十数人の名前が刻まれている。


青面金剛の顔はぼやけてしまっているが腕や足の質感は生々しい。光背右には石を埋めて補修したらしい跡がある。両脇に渡って造立年月日が刻まれていた。


足元の邪鬼は腕を出して正面を向くが、口からは牙が見えていて、あまり見たことがないご面相になっている。最下部に正面向きの三猿。邪鬼と三猿の間、中央に庚申講中とあり、脇に5名の名前が刻まれていた。


左端 出羽三山供養塔 寛政12(1800)角柱型の石塔の正面 日月雲の下、円の中に「月山 湯殿山 羽黒山」続けて供養塔。


塔の右側面に造立年月日。脇に天下泰平 國土安全。左側面には埼玉郡四町野村講中とあり、さらに大先達 大乗院と刻まれていた。

山門を入ると正面に本堂がたち、右側は墓地になる。墓地の前には大きな二基の石塔は並んでいた。

手前 弘法大師宝号塔 文政4(1821)基壇の上に二段の台。敷茄子、蓮台と重ね、その上に角柱型の石塔。


正面一番上に梵字「ア」「ウン」を並べ、その下に遊行僧 木食観正の書で弘法大師のご宝号「南無大師遍照金剛」と刻む。下部両脇に木食、観正とありその下に花押。塔の右側面に造立年月日。左側面には當院第二十世法印秀山代、願主 正随。さらに敷茄子の正面には光明真言講中と刻まれている。



下のほうの台の両側面は無銘。正面に世話人3名の名前。上のほうの台の正面には細かい字で多くの村の人たちの名前がびっしりと刻まれていた。およそ100名ほどになりそうだ。


上の台の両側面にも正面同様に細かい字でそれぞれ100名ほどの名前が刻まれる。三つの面には読み取れるだけでも高畑、四町野、神明下、砂原、増森、三ノ宮、鷺後、荻嶋、大竹、西新井、恩間、大森、大道、間久里、平方、釣上・・・・・近隣の50以上の村の名前が確認できる。


奥に宝篋印塔 文化2(1805)階段付きの基壇を含めるとその高さは5m近い。


基礎部裏面、四面に渡る願文の最後に造立年月日が刻まれていた。

 

元荒川右岸遊歩道脇 越谷市宮本町1-1-11向



迎摂院から元荒川右岸の土手の遊歩道を東に歩いてゆくと、東武線の線路の手前あたりに小堂が立っていた。


薄暗い小堂の中には二基の石塔が祀られている。


右 弁才天・水神宮 文政7(1824)石祠の周面 梵字「ソ」の下に「弁才天」梵字「バ」の下に「水神宮」右側面に造立年月日、左側面に個人名が刻まれている。越谷は元荒川をはじめ大小いくつかの川が市域を縦横無尽に流れていて、水難除けのための水神宮、弁財天塔が多いようだ。 


左 庚申塔 文政2(1819)角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。江戸時代後期に典型的な青面金剛。このタイプの青面金剛像は岩槻のほうで多く見かけて宿題のひとつになっているが、その地理的な分布は思ったよりも相当に広そうだ。機会を見て今まで行ったことのあるすべての地域で再確認してみたい。寛政期以降、1800年から1850年頃、 剣・ショケラ持ち六臂で、彫りは細かく、衣装の裾が大きく跳ね上がった青面金剛。「江戸後期裾跳ね型」・・・なんか冴えない。庚申塔を詳しく研究されている方々にとってはすでに知られたタイプなのだろうか。分類済ですでに名前がついていたら教えていただけるとありがたい。塔の右側面に造立年月日。左側面は小堂の壁との隙間がなく確認できなかった。


足元に獅子のような邪鬼。その下にうつむき加減に三猿。彫りは細かく、表情も豊かで見ていて楽しくなる。

薬師堂
越谷市宮本町2-182北


迎摂院の200mほど南、住宅街の中に薬師堂がある。参道右、雨除けの下に石塔が並んでいた。同じ敷地内、参道左側に宮本町二丁目集会所、薬師堂の左奥には稲荷神社の小さな社がたっている。


雨除けの下の四基の石塔。ちょっと話が先走るが、資料によると右端の青面金剛庚申塔と左から2番目の青面金剛庚申塔の台が取り違えられているという。こうやって見ると特に左の庚申塔の塔と台の石の色がかなり違っていて確かに違和感がある。


右から 庚申塔 宝暦6(1756)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔の一部が欠け、青面金剛の顔もつぶされていた。足首も細くなっていて足元の塊も岩なのか邪鬼なのかはっきりしない。


正面に三猿が彫られた台。こちらも風化が進み丸みを帯びていた。塔と台の継ぎ目のセメントがなるほど新しいように見える。


塔の左側面は無銘。右側面 梵字「ウーン」の下「奉供養庚講中」両脇に造立年月日が刻まれていた。


2番目 六地蔵塔 寛政9(1797)角柱型の石塔の正面と両側面にそれぞれ二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。裏面に造立年月日。台の正面には野尻組中と刻まれている。


3番目 庚申塔 文政10(1827)下の台は二段。どちらも風化のために摩耗してはっきりしないが、上と下の石の色は明らかに違う。塔の左側面に造立年月日。右側面には「天下泰平 國土安全」


正面を彫りくぼめた中に日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。右足をやや前に出して青面金剛はあおむけの邪鬼を踏む。全体に躍動感があり力強い。


上の台の正面に三猿。すっかり丸くなってしまって漠然としているが、三猿は横並びではなく中央の猿が高い位置に三角形の構図だろうか。下のほうの台には銘は見当たらなかった。


左端 庚申塔 文化6(1809)角柱型の石塔の正面 日月雲の下、大きく力強い字で「庚申」下部に三猿。


塔の右側面「天下泰平 國土安全」その下に野尻組 講中とあり、7名の名前。左側面には造立年月日。こちらも下部には7名の名前が刻まれていた。

 

稲荷神社 越谷市宮本町2-127南


越ケ谷の久伊豆神社付近から県道49号線を横切り越ケ谷小学校の北を通って西に進む道は、東武線の下をくぐりバス通りを神明町方面に向かう。東武線を越えた次の信号交差点は宮本町1丁目、2丁目、3丁目、赤山1丁目の四つの町の境界線の交差する地点で交通量もかなり多い。この交差点の北西の角に稲荷神社があった。


参道の右、ブロック塀の前に三基の石塔が並んでいる。


右 庚申塔 寛政6(1794)角柱型の石塔の正面梵字「ウーン」の下「青面金剛」下部に三猿。台の正面に10名の名前。台の両側面にもそれぞれ5名の名前が刻まれていた。


塔の右側面「日月清明 天下和順」左側面には造立年月日。続けて願主 授寶。


中央 庚申塔 天明4(1784)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


あまり見たことのない被り物をした青面金剛。顔はつぶれていた。足を折り曲げたショケラが足にしがみつく。


足の両脇に二鶏。足元の邪鬼は大きめだがこれも顔がはっきりしない。その下に両脇が内を向く構図の三猿。台の正面、右に願主とあり、続けて14名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面に「天下泰平 國土安全」と刻まれている。


左 牛頭天王塔 天保11(1840)屋根付きの石祠の正面「牛頭天王」その下に「伊勢太」伊勢講のようだ。右側面は無銘。左側面に造立年月日が刻まれていた。

十王堂集会所 越谷市宮本町1-107北


稲荷神社のある交差点の100mほど北、道路右側に墓地があり、その入り口に道路のほうを向いて二基の石塔が並んでいた。墓地の同じ敷地内には十王堂集会所が立っている。


左 庚申塔 明和8(1771)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。


足元は白カビが多くはっきりしないがどうやら邪鬼のようだ。その下に両脇内向きの三猿を彫る。


塔の右側面に造立年、左に月日。両側面とも下部にそれぞれ5名の名前が刻まれていた。


右 阿弥陀如来庚申塔 寛文3(1663)鋭角的な舟形の光背に阿弥陀如来立像を浮き彫り。下の台は裏面に安永7年の紀年銘があり後からつけられたものと思われる。


光背最上部に「弥陀」右脇に「奉待庚申講人數」地蔵院。その下に4名の名前。左脇に造立年月日。その下に5名の名前。最下部両脇に施主 敬白と刻まれていた。


二基の石塔の裏、集会所の前に石仏が並んでいる。なぜか資料では取り上げられていない。


入口近く、地蔵菩薩立像 明治27(1894)塔の左側面に迎摂院住職の名前が刻まれているが、裏面に施主は個人名になっていて個人の供養塔のようだ。


その奥に六地蔵菩薩坐像。坐像の六地蔵は非常に珍しい。あちらこちら一生懸命探してみたのだがどうしても銘が見当たらなかった。残念ながら詳細は不明。


その奥 宝篋印塔 宝暦6(1756)正面に「奉供養寶塔」裏面に造立年月日が刻まれている。


左端 如意輪観音坐像 元禄7(1694)舟形光背、梵字「ア」の下に六臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。右脇に妙心禅定尼霊位とあり、こちらも個人の墓石らしい。