南荻島の石仏

 

野合自治会館 越谷市南荻島4317


砂原から〆切橋で元荒川を渡り県道325号線を左折、すぐ次の角を右折して50mほど行くと左手に野合自治会館の入り口がある。道沿いの角の所には同じ敷地内にある諏訪神社の看板が立っていた。入り口から路地を奥に進むと、正面に自治会館、右に諏訪神社、左に墓地があり、墓地のブロック塀の前に北向きに六基、東向きに二基の石塔が並んでいた。


左端 六地蔵塔。角柱型の石塔の三面を彫りくぼめ、それぞれの面に二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。彫りは比較的細かく残っていてリアルな表現。本来の台を欠き銘文が確認できないため、残念ながら造立年などの詳細はわからない。


2番目 庚申塔 安永8(1779)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」塔の両側面に渡って造立年月日。下の台の一部は土に埋もれている。その正面には20名ほどの名前が刻まれていた。


塔の下部両脇に二鶏。その下には正面向きの三猿が彫られている。


3番目 庚申塔 享保2(1717)上部の形から笠付きだったものか。角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめて、その外上部に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが多くはっきりしない上に顔はつぶされているようだ。下の台の正面中央 縦に野合、挟むように横に講中と刻まれていた。


足の両脇に二鶏、下部に正面向きの三猿。邪鬼がいないが、元禄期から享保期あたりの青面金剛庚申塔では意外に邪鬼がないケースが多いような気がする。練馬区の取材のときにも元禄期の邪鬼無しの庚申塔を多く見かけた。


塔の左側面に造立年月日。下部に5名の名前。右側面 梵字「ウーン」の下「奉供養庚申待講結衆二世安穏攸」その下に4名の名前が刻まれていた


4番目 庚申塔 文政7(1824)駒型の石塔の正面 上部にはみ出すように発達した日月雲。その下に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の衣装の右裾が跳ね上がる形。


こちらはオーソドックスに二鶏、邪鬼、三猿が揃うが、三猿の構図はユニーク。左の言わ猿と右の見猿が正面向き、中央下に左向きに聞か猿がやや後ろに寄り掛かるように座る。下の台の正面には20名ほどの名前が刻まれていた。


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。この角度から見ると青面金剛の髪の毛、衣装の文様などの彫りがかなり細かく、江戸時代後期らしい雰囲気を感じる。


5番目も庚申塔 文化8(1811)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。目を吊り上げ力強く邪鬼を踏みしめる青面金剛。髪の毛の中央に蛇がとぐろを巻く。下の台の正面には10名の名前が刻まれていた。


青面金剛の膝の両脇、二鶏はかなり高い位置に彫られている。髪を振り乱し足を丸めながらあおむけに転がる邪鬼。その下の三猿は岩槻でよく見かけた「自由な三猿」左端の言わ猿は左手で中央の聞か猿を指さす。


塔の右側面に造立年月日。左側面には天下泰平 國土安全と刻まれていた。


北向きの六基の最後は文字庚申塔 享和元年(1801)駒型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」下部に三者三様な姿勢で座る三猿。左の言わ猿は左手に桃果を持つ。塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。


東向きに二基。左 地蔵菩薩立像 。舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。向かって右側がかなり風化が進み銘が読めず造立年不明。顔もはっきりしないのは人為的なものか?光背左下にここだけはくっきり「講中弐十人」と読める。


右 丸彫りの地蔵菩薩立像。体の表面も溶けはじめ丸くなり、頭も補修されたもののようだが、あとから補われたそのお顔は素朴で愛嬌がある。こちらも造立年などを確認できる銘は見当たらなかった。

 

野中自治会館 越谷市南荻島


県道48号線、野中バス停の西、用水路を隔てた先に野中自治会館がある。その奥に墓地があった。


道路に向かって二基の庚申塔が並ぶ。墓地の囲いの陰になって下のほうは一部見えない。


左 庚申塔。駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。髪の中央に蛇がとぐろを巻く。光背に銘が見当たらず、本来の台もなく造立年は不明。いつのものかは分からないが、全体に白カビが全くないのは不自然な感じがする。比較的最近大きな補修を受けたのだろうか?


青面金剛の衣装の裾の寄れ、厚みのある二鶏、様子をうかがう悪人面の邪鬼、やけにリアルな三猿。彫りは細かく技巧的。江戸時代後期の作風のような気がするが、どうだろう?


右 庚申塔 延宝9(1681)駒型の石塔の正面 上部に日月雲。中央 梵字「ウーン}の下「奉供養庚申講結衆二世安樂祈所」両脇に造立年月日。


下部に素朴で存在感のある三猿が彫られていた。三猿の下の部分は細かい文字らしいものが見えるが、自然にできた傷なのか、それとも人名なのか、どうもはっきりしない。


墓地の奥 東向きに地蔵菩薩坐像 寛保3(1743)石塔の上に丸彫りの坐像。像、塔ともに白カビが多い。塔の正面「法界衆生為二世安樂也」右脇に権大僧都法印観長、左脇に慶尊比丘尼。


塔の左側面は無銘、右側面に造立年月日が刻まれていた。


自治会館の東側、ブロック塀のエンドに角柱型の石塔がまるで門柱のように立っている。


猿田彦大神塔 天保4(1833)塔の正面 日月雲「猿田彦大神」右下に右 かきあげ 大もん はとがや。左下 左 こしがや と刻まれていた。


右側面に造立年月日。その下に 左 〆きり まくり かすかべ と刻まれている。


左側面はブロック塀のために全体を見ることができない。資料によると上部に 武州崎玉郡越ケ谷領 荻嶋村 願主 野中組連中。下部には 右 のしま いわつき とあり、さらに石工名が刻まれているという。


道路を挟んで東向いにも小さな墓地があり、その入り口に笠付きの石塔が立っていた。六地蔵塔 寛政10(1798)大きな基壇の上に四角い台、石塔、笠で高さは2mを超す。


角柱型の石塔の三面にそれぞれ二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。正面は凝った形に彫りくぼめてあり、その枠の部分に造立年月日が刻まれている。


台の正面 右から萩嶋村 野中組。萩嶋は荻嶋の誤字だろうか。続いて 願主 むす、惣講中拾三人と刻まれていた。

 

中組集会所脇墓地 越谷市南荻島

県道48号線を砂原のほうから南に進み、国道4号線との「南荻島」交差点手前、荻島小学校の東の信号交差点は変則的な五差路になっている。ここで県道から斜め右に入る道を道なりに400mほど、右折して細い道に入り西に向かうとその突き当りに中組集会所があった。すぐ横にお堂がありその奥は墓地が広がっている。


墓地の前、空き地に面して五基の石塔が並んでいた。


左端から 庚申塔 寛政7(1795)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の台の正面に11名の名前が刻まれている。


中央でつながった日月雲の下、例のごとく顔がつぶされた青面金剛。六臂の持物はオーソドックス。


ショケラは青面金剛のももにしがみつく。足の両脇に二鶏。正座してかがみこみ顔だけを正面を向けた静かな表情の邪鬼。その下の三猿は中央が正面向き、左右が内を向いて座る。


塔の右側面に造立年月日。左側面に萩嶋村と刻まれている。前回紹介した野中自治会館の六地蔵塔の台にも「萩嶋村」とあった。実はこのあと見る「猿田彦大神塔」にも萩嶋村とある。「荻」と「萩」間違え易い漢字であることは確かだが、これだけ続くと本当に誤字と判断していいのか、ちょっと不安になる。


2番目 庚申塔 正徳3(1713)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 中央を舟形光背の形に彫りくぼめた中に合掌型六臂の青面金剛立像を浮き彫り。上部に日月雲。


足元の邪鬼は正面向き。両腕と頭だけが彫られている。邪鬼の両脇に二鶏を線刻。邪鬼の下に大きなサイズの三猿。中央が正面向き、左右が内向きの構図。三猿の下の部分に十数人の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉造立庚講所願成就攸」と刻まれている。


3番目 庚申塔 延享2(1745)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面を凝った形に彫りくぼめて、外に日月雲、中に 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の髪型は頭頂部が平らで、後ろの二組の腕の付き方は「川口型」を思わせる。


三猿も左右が内を向き、しかも足を投げ出す点は「川口型」造立年も「川口型」の最盛期とかぶる。ただし、「川口型」は鈴・ショケラ持ちか合掌型に限られ 、剣・ショケラ持ちは見られなかった。邪鬼もふつうは頭が左なので、「川口型」と同じ石工の仕事ではないと思うが、地理的にもそれほど離れているわけではなく、なんらかの影響を受けているのかもしれない。


塔の左側面は無銘。右側面には造立年月日が刻まれている。


4番目 庚申塔 宝永4(1707)ここでは最も古い庚申塔。白カビも多く、風化が進む。舟形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の第2手、右手には蛇が絡みついている。青面金剛の両脇に造立年月日が刻まれていた。


足の両脇に合わせて9名の名前。足元の邪鬼は正面向きに身を乗り出す。その下には比較的大きな正面向きの三猿が彫られている。


右端 猿田彦大神塔 文化6(1809)角柱型の石塔の正面 日月雲「猿田彦大神」下部右端に萩嶋村講中とあり、12名の名前が刻まれていた。


塔の右側面「奉納 中臣祓一万度 三種大祓い拾万度」左下に個人名。願主、または世話人か。


塔の左側面に造立年月日。その下のほうに 南 鳩ケ谷道、北 岩槻道と刻まれていた。

 

中組集会所南西路傍 越谷市南荻島1382


県道48号線の荻島小学校の東の信号交差点から斜め右、南西方向に入る道は、田園風景の中を抜けて、やがてひやみず橋のあたりで国道463号線を越え後谷方面に向かう。この道沿いに民家も点在していてこれがたぶん旧道ではないだろうか。この旧道沿いに前回見た中組集会所、今回紹介する三か所の石仏を見ることができる。中組集会所の入り口から200mほど進んだ道路右側、青々とした稲田をバックに庚申塔が立っていた。

庚申塔 寛政2(1790)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の表面は風化が進んでいる。


下部に溶けかかった二鶏、邪鬼、三猿。台の正面に十数人の名前が刻まれていた。

旧道脇道畑 越谷市南荻島1145


上の庚申塔のあたりから道は一度Sの字にカーブする。その付近、脇道を入った先の畑の隅に二基の石塔が立っていた。


左 庚申塔 寛政3(1791)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」下の台の正面に比較的大きな三猿が彫られている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には「奉供養意趣者百甲申参詣為二世安樂也」その下に個人名が刻まれていた。

ひやみず橋そば墓地 越谷市南荻島2204北隣


さらに進むと用水路に架かる「ひやみず橋」を越えた先の角地に小さな墓地があった。中央、道路に面してお堂、右側が墓地、左側に小さな畑があってその端に二基の石塔が立っている。


お堂の左側の格子戸の中には小さな金塗りの地蔵菩薩立像が祀られている。木造だろうか?近づくことができず詳細は不明。その右奥に二基の石塔が並んでいた。


右 六地蔵塔 正徳2(1712)駒型の石塔の正面、二段に三体づつ地蔵菩薩立像を浮き彫り。


左脇に造立年月日。右脇「念佛講施主頭妙仙同行三拾二人」と刻まれている。


左 聖観音菩薩立像 寛文5(1665)大きな舟形光背の正面に左手に蓮華を持ち、左手は与願印の聖観音菩薩立像を浮き彫り。


銘は彫りが薄くなって近づいてやっと確認できる。光背左に造立年月日。右脇に「念佛講道行廿五人」と刻まれていた。


お堂の左、畑の端のほうに二基の石塔が並んで立っている。

右 庚申塔 天明元年(1781)駒型の石塔の正面、発達した日月雲の下に 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。像の所々に白カビがこびりつく。塔の右側面に造立年月日。


足元に大型の邪鬼を彫る。左向きにうずくまる邪鬼の顔はつぶされていた。その下に二鶏と三猿。両脇の猿は体育座りで内を向く。


台と塔の間にコンクリートで補修した跡。台は深く埋まり、正面には十数名の名前があるらしいのだがほとんど見えなかった。右側面、やはり全体は見えないがはっきり「萩嶋」と確認できる。「萩」=「荻」の誤字だとして、これほど多く見られるのはちょっと妙な感じがする。本当に誤字なのだろうか?


左 巡礼供養塔 寛政10(1798)角柱型の石塔の正面 上部に阿弥陀三尊を梵字であらわし、その下に「奉供養 西国 四國 秩父 坂東 為二世安樂也」観音霊場100か所、四国霊場88か所、合わせて188か所の霊場巡礼を記念したものか。上部両脇に造立年月日、下部両脇に願主 敬白と刻まれていた。

 

玉泉院北共同墓地 越谷市南荻島365前


玉泉院の西の道を北へ400mほど進むと道路左側角に共同墓地があり、入口付近に石塔が集められていた。


六地蔵塔 宝暦7(1757)唐破風笠付きの角柱型の石塔の三面にそれぞれ二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。正面の二体の両脇に造立年月日。下部には六つの戒名と施主の名前が刻まれている。


両側面 地蔵菩薩像は舟形光背の形に彫りくぼめられた中に彫られていた。下部にはそれぞれ三つの戒名が刻まれる。


その左脇に馬頭観音塔 大正5(1916)駒型の石塔の正面を浅く彫りくぼめた中に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。こちらは個人のもののようだ。

玉泉院 越谷市南荻島209


国道4号線南荻島交差点の少し北、陸橋のあるあたりで国道から東に入ると真言宗豊山派の玉泉院があった。本堂の左側、墓地の入り口に石塔が並んでいる。


右から一石六地蔵塔 元禄5(1692)駒型の石塔の正面二列に六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。中央 梵字「カ」の下「奉供養六地蔵為法印尊□菩提(略字)」最後の略字はカタカナのサを縦に二つ重ねた菩薩の略字(ササ菩薩)に「、」を付けた「ササてん菩提」というもの。中ほど両脇に造立年月日。下部両脇に施主 欽白と刻まれている。


続いて六地蔵菩薩立像 安永2(1773)舟形の光背を持つ六体のお地蔵様。その表情も塔のサイズなどもほぼ似通っている。


右から2番目の光背に世話人、堤根講中。境内に集会所があって「堤根集会所」となっていた。堤根はこのあたりの字名なのだろう。4番目の光背右脇に造立年月日。左端の光背には願主名が刻まれていた。


その左 六地蔵塔 明和7(1770)笠付きの角柱型の石塔の三つの面にそれぞれ二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。


正面には「奉納大乗妙典 六十六部 日本回國供養」回国供養塔ということになる。上部両脇に「天下和順 日月清明」像の下の部分、右のほうに三つの戒名と命日。左のほうには法華経一千部、尚運法師、越谷領荻嶋村 矢部定七行者。この人が回国巡礼者、いわゆる「リクブさん」なのだろう。


塔の左側面 二体の地蔵像の下に造立年月日。右側面こちらも地蔵像の下、右から二郷半領とあり俗名、戒名、命日?さらに「百番供養」「一切精霊」続いて名前もいくつか刻まれていた。


六地蔵の向かい側、隅のところに光明真言供養塔 宝永3(1706)ところどころ白カビが厚い。


正面を彫りくぼめた中、上部に光明真言曼陀羅。蓮の花を彫り、その下に施主敬白。右脇「奉供養光明真言十万遍攸」左脇に造立年月日。


塔の下部には大きな蓮の花。その両脇に堤子組(=堤根組)四十四人。


塔の右側面 下部に漢字で十数名の名前。左側面下部にはかな文字でこちらも十数名の名前が刻まれていた。

玉泉院南路傍 越谷市南荻島87


玉泉院の東の道を南に進む。200mほど先、信号交差点の少し手前の道路右側の駐車場の隅に庚申塔が立っていた。


庚申塔 天保12(1841)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」塔の左側面に個人名。右側面には造立年月日が刻まれている。

玉泉院南個人墓地 越谷市南荻島86


上の庚申塔のある駐車場から細い道を西に進み県道52号線を横切ってさらに西に向かうと、道路右側に小さな墓地があった。


墓地の入り口あたり、上部に光明真言を梵字で円周状に刻んだ曼陀羅をもつ墓石 元禄12(1699)が立っている。このような光明真言曼陀羅を刻んだ石塔はいろいろなところで見かけるが、江戸時代初期のものでこれほどくっきりと残っているのは珍しい。石の材質が良いということもあるが、やはり何代にもわたって大事にされてきたということなのだろう。

 

玉泉院東四つ角駐車場横空き地 越谷市南荻島


玉泉院のすぐ東の交差点、四つ角の交差点の隣の空き地に5基の石塔が並んでいた。

左端 庚申塔 寛文9(169)立派な宝を持つ笠付きの角柱型石塔。下の台を含めるとその高さは2mを超す。台の正面に未敷蓮華、塔の両側面にも大きな蓮華が彫られていた。


正面を彫りくぼめた中、上部に梵字「ウーン」を挟むように日月を線刻。中央に「奉造立庚申供二世安樂攸」両脇に造立年月日。下部両脇に結衆 敬白。


その下、さらに深く彫りくぼめて、縁側に並んで腰を下ろしたような風情の三猿を彫る。表現は素朴だが味がある。その下の部分、右側の枠外に武州埼玉郡荻嶋村とあり、三猿の真下には8名の名前が刻まれていた。


2番目 庚申塔 天明5(1785)角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめて、その外に日月雲、中に 青面金剛立像 合掌型六臂。下の台の正面、資料によると堤根講中とあり世話人二人の名前が刻まれているというが、ご覧の通り泥が厚くこびりついた状態で文字は確認できなかった。


頭の後ろに輪上の頭光背。足元には大きな邪鬼のみで、二鶏、三猿は見当たらない。


塔の左側面、白カビの中に薄く造立年月日が刻まれていた。


3番目 三福神塔 寛政10(1798)石祠の正面、かなりの部分が剥がれ落ちているが中央は「辨財(天)」右は「大黒(天)」左は「毘沙(門天)」だろう。


塔の左側面は剥落が著しく、確認できるのは「世話人」のみ。右側面に造立年月日。こちらもヒビが目立ち、崩落寸前という感じがする。


4番目 弁財天塔 明治15(1882)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「辨才(天)」新しい石塔にもかかわらず正面下部は剥落。塔の右側面は無銘。左側面に紀年銘。


右端 馬頭観音塔 大正3(1914)顔はやはり一部が剥がれ落ちているが、頭上の馬頭は大きくはっきりと残っている。台の正面には有志者一同と刻まれていた。


塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。さらに南埼玉郡荻嶋村 牛馬商とあり個人名が刻まれている。

五社稲荷神社 越谷市南荻島3659


5基の石塔が並んだ交差点から東に200mほど進むと五社稲荷神社の参道にぶつかる。長い参道の先、階段の上に稲荷神社の拝殿があった。もと荻島村内にあった五社を合祀して神社名を「五社稲荷神社」と改めたものらしい。



階段の上、稲荷神社の拝殿の左手前、天満宮の脇に石塔が立っている。


大祓文字塔 。先日見た中組集会所前の墓地の入り口にも同じような石塔が立っていた。角柱型の石塔の正面に「奉納 一万度中臣太祓」その両脇に天下泰平 國家安全と刻まれている。紀年銘はなく造立年は不明。


本殿の裏へ回るとさらに四つの境内社があった。右奥の道祖神蛇の脇に石塔が立っている。


猿田彦大神塔 安政6(1859)角柱型の石塔の正面 日月雲「猿田彦大神」


塔の右側面に造立年月日。左側面には荻嶋邑野中組講中とあり、その下に二人の世話人の名前が刻まれていた。