岩槻区野孫

野孫神社 岩槻区野孫623


しらこばと水上公園の西400mほど、まわりは見渡す限り水田が広がる田園地帯。ぽつぽつと住宅が集まるあたりに野孫神社があった。


拝殿の右側から奥に進むと拝殿裏には石祠などが立っていて、その一角に四基の庚申塔が並んでいる。

左から庚申塔 嘉永7(1854)角柱型の石塔の正面、日月雲「庚申塔」両脇に天下泰平・國土安全。


塔の右側面に造立年月日。左側面上部に講中とあり、その下に野嶋村 孫十郎村。


下の台は二段になっているが下の台の正面に三十人ほどの名前、左側面に野嶋村世話人三名の名前が刻まれていた。


その隣 庚申塔 文化9(1812)角柱型の石塔の正面、やはり日月雲の下「庚申塔」両脇に天下泰平・日月晴明。下の台の正面に三猿が彫られているが左右の猿が外を向く形は珍しい。


塔の右側面に造立年月日。左側面 野嶌村 講中 三拾人、孫十良村(講中)五人、さらに世話人 四人とあり、それぞれの氏名が刻まれていた。


下の台の左側面にもいくつか名前らしきものが見える。施主名だろうか。


続いて庚申塔 天保2(1831)角柱型の石塔の正面、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは細かく写実的。三角形の髪型で、裾の跳ね上がった衣装をまとった力士像のような青面金剛、このタイプの青面金剛像は、江戸時代後期、寛政期から文化、天保といった時期の庚申塔でよく見かけるように思う。


足下に狛犬のような顔をした邪鬼。これもよく見る。下の台の正面に彫られた三猿は隣の庚申塔の三猿同様、左右の猿が外を向く。二十年の隔たりがあるが同じ石工さんだろうか?


塔の右側面に天下泰平・國土安全。左側面には造立年月日。その脇に野嶋村と刻まれていた。


三猿の彫られた台の両側面、下部に小さな字でそれぞれ十数名の名前が刻まれている。その多くはひらがな二文字で女性が中心の講中かもしれない。


右端 庚申塔 宝永5(1708)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。ここの四基の庚申塔の中では最も古く、中央部は白カビが目立つ。


顔をつぶされた青面金剛、上左手にショケラをかかげる。光背上部両脇に造立年月日、左下に野島方と刻まれていた。


足下の邪鬼は正面向き。その下にやはり正面向きの三猿。その両脇に二鶏というシンメトリックでオーソドックスな構図。


両側面の下部にそれぞれ数名の名前が刻まれている。

 

野孫神社北東の畑 岩槻区野孫936北


野孫神社の前の道を東に進み、すぐの交差点を左に折れて100mほど先、右手の角の畑の中に庚申塔が立っている。後ろが畑でオープンなスペースのため、西向きに立つこの石塔は、午前中行くと完全な逆光状態になり撮影に苦労した。


庚申塔 正徳3(1713)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。路傍にあったためだろう、塔は厚く白カビに覆われ、下の台の文字も風化がすすみ読みにくい。


足を折り曲げたショケラ。光背右に「奉納庚申供養」左下に造立年月日。さらにその下に孫十良新田と刻む。邪鬼は大きめ、うずくまりながら様子をうかがっている。その下に正面向きの三猿。二鶏は見当たらなかった。

野孫神社北路傍 岩槻区野孫523付近


上の庚申塔のところからさらに北へ進むとやや広い道に出る。ここは変則的な四つ角?になっていて、ここで左に少しだけずれてまた北へ向かう道に入ると、そのすぐ先の右側、畑の縁に道路に向いて石地蔵が立っていた。さらにこの道をずっと北へ進むとやがて県道214号線笹久保通りに出る。この交差点の左角の石地蔵は1月5日の記事で紹介した。


地蔵菩薩立像 寛文9(1669)光背右上を大きく欠く。お地蔵さまはやわらかい微笑みを浮かべているように見える。光背右「念佛供養」その下に野島村とあり、本願 井出茂左衛門 同行四十五人。光背左上「奉地蔵一尊造立」その下に造立年月日が刻まれていた。

野孫神社北の細道 岩槻区野孫523付近


石地蔵からさらに北に歩くと右手に入る細い砂利道があり、奥の左側に石塔が立っているのが見える。


庚申塔 元禄13(1700)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを持つ。青面金剛の頭の上、真ん中に蛇が見えるが、変わった髪型、あるいは被り物か?光背上部両脇に造立年月日。


足の両脇に比較的はっきりとした二鶏。邪鬼は正面向きM字型。青面金剛と同じような顔つき。その下の三猿も正面向き。三猿の下の部分に七名の名前が刻まれていた。

野孫神社北西路傍 岩槻区野孫750付近


野孫神社北東の庚申塔とその北の石地蔵の間の道を東に進むと1月17日の記事で紹介した人巻集会所のある交差点に出る。この道を反対に西に進むと左側交差点のところにに商店があり、その先から道がやや細くなる。ここを直進して100mほど、道路右側、小さな稲荷社の横の小堂の中に石塔が立っていた。


大乗妙典供養塔 天保11(1840)角柱型の石塔の正面上部に地蔵菩薩坐像と弘法大師坐像を浮き彫り。その下中央「奉納大乗妙典日本六十六國供養塔」両脇に天下泰平・日月晴明。


塔の右側面 寄進とあり、四名の名前、続いて願主として二名の名前。さらに左側に尾ヶ崎村 山替地、畑仲、岩付領須加村とあり、その下に五名の名前が刻まれている。


左側面には歌が刻まれ、その脇に四國八十八ヶ所御つち写十九ばん・・・。続いてその奥に造立年月日が刻まれていた。