岩槻区浮谷

浮谷神社西 藪の中 岩槻区浮谷1225付近


柏崎小学校の東を通る道を南に700mほど進み、横根のほうから陸橋を越えてくる道との交差点を左折、100mほど先の道路左側、藪の中に入ってゆく細い砂利道がある。入ってすぐ右側に石塔が立っていた。現場は浮谷神社のちょうど真西の方向になる。


阿弥陀如来立像 宝永2(1705)光背最上部に梵字「キリーク」その下に阿弥陀如来立像を浮き彫り。古いものだが、目立った損傷は見られない。光背右脇「奉像立念佛供養現世安穏後生善所」左脇に造立年月日。


足下の部分、右端に漢字で一名、続いてかな文字で十三名の名前が刻まれている。

浮谷神社北西路傍 岩槻区浮谷1153付近


浮谷神社の北を通る道を西に向かい、200mほど先で一度左に曲がりすぐまた右に曲がるカーブ付近、道路左側の路傍に小堂が立っていた。


庚申塔 寛政12(1800)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。二匹の邪鬼の頭を踏む。続いて二鶏、三猿が彫られている。三猿は両脇が外向きという変わった構図。塔の側面は隙間が狭く写真は撮れない。両側面に渡って造立年月日があり、左側面にはさらに数名の名前が刻まれていた。

杉田電線西路傍 岩槻区浮谷2324付近


県道324号線を真福寺のほうから南に下ってきて、浮谷に入って少し行くと右側に杉田電線という大きな工場がある。その南を通る道を工場の敷地に沿って西に向かい100mほど歩いてゆくと、道路右手の住宅のブロック塀のところに石塔が頭を出していた。

 

庚申塔 正徳6(1716)板碑型の三猿庚申塔。日月雲の間に梵字「ウン」中央に「奉造立庚申供養」右脇に造立年月日。左脇には浮谷村願主とあり、二名の名前が刻まれている。

目白大学北路傍 岩槻区浮谷137向


県道324号線をさらに南に進み、目白大学入口から斜め右に入る。200mほど先の信号交差点を左折してすぐ、左手のツツジの植え込みの中に石塔が立っていた。


山王大権現塔 享保14(1729)荒彫りの角柱型の石塔の正面、日月雲「山王大権現」その下に三猿を彫る。もともと猿は山王大権現の使いとされ、庚申信仰は、三猿との関連から山王信仰との結びつきがみられると言う。このような三猿を彫った「山王大権現塔」も広い意味で庚申塔ということができるのだろうか。


背面にも銘が見えるが、ツツジの枝が張っていて近づくことができず確認はできなかった。

西光院 岩槻区浮谷2677


県道324号線の目白大学入口付近から細い道を東に入ると、道路左側に西光院がある。その入り口の塀の前に庚申塔が立っていた。


庚申塔 元禄12(1699)舟形の光背に合掌型六臂の青面金剛立像を浮き彫り。全体に白カビが目立つ。光背右脇「奉造立庚申供養」左脇に造立年月日。


青面金剛の足が妙に生々しい。足元に正面向きの邪鬼。その下に三猿だが、右の見猿は一部欠損。両脇に二鶏。さらにその下の部分に浮谷村 同行男女 十三人と刻まれていた。

 

常福寺 岩槻区浮谷2561


県道324号線、前回紹介した西光院の入り口のさらにもう一つ南の信号交差点を左折、細い道を100mほど行くと常福寺の入り口がある。ここをまた左折してしばらく進むと山門の前に出る。


山門の手前、左側に墓地の入り口があり、そのブロック塀の前に六地蔵が並んでいた。全体の様子から六体は一緒に造立されたものと思われる。


それぞれの塔の左側面に施主として個人名が刻まれているが、左から三基目の左側面には當所女人中と刻まれていた。台、像ともに紀年銘は見当たらない。


山門をくぐると本堂まで参道はきれいに整備されていた。右に大きな石塔が一基、参道左側には新しい大きな石仏をはじめ、たくさんの石塔が並んでいる。


参道右にポツンと立っていた角柱型の石塔は大乗妙典供養塔 安永6(1777)台は二段になっているが銘は見当たらない。塔の正面「大乗妙典壹部一石一字書写供養塔」左側面に「有縁無縁三界萬霊等利益」


塔の右側面に「當來下生彌勒尊佛」裏面に願文があり、最後に造立年月日が刻まれていた。


参道左側、大きな石仏は入口近くからお釈迦様、布袋さま、お地蔵さま、となっているがいずれも新しい。その先に七基の石塔が並んでいた。


左から 角柱型の馬頭観音塔 文政8(1825)正面に大きく「馬頭觀世音」


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡浮谷村 観音講中。その下に世話人とあり、五名の名前が刻まれている。


その隣 馬頭観音坐像。台に文字らしいものが見えるが判読できず詳細は不明。


三面六臂忿怒相。頭上に馬の首を乗せ、馬口印を結ぶ。彫りは厚く細かい。白カビが多いのは残念だ。


続いて地蔵菩薩立像 寛文9(1669)舟形の光背に美しい地蔵菩薩像を浮き彫り。光背右脇「奉納百堂同行十九人二世安全所」左脇に造立年月日。光背下部両脇に渡って武州岩付領 浮谷村敬白と刻まれている。


その隣の角柱型の石塔 天明7(1787)正面に「當山聖觀世音行基菩薩御作」どういう意味になるのだろう?


塔の右側面に「如是畜生發菩提供養塔」このような使われ方は初めて見る。


左側面に造立年月日。その下に當村願主とあり、馬持中と刻まれている。両側面を合わせて考えてみると馬頭観音塔だろうか?裏面には常福現住岩臾代新造立と刻まれていた。


続いて百ヶ所観音供養塔 明和3(1766)塔の正面上部に観音菩薩坐像を浮き彫り。その下に「奉納 秩父 坂東 西國 百ヶ所供養塔」


塔の左側面 右 いわつき江廿八丁、ぢおんじ江参り半。その下に武州埼玉郡岩附領浮谷山常福寺、脇に造立年月日。


右側面 左 そうか江四り。その下に浮谷村施主とあり、五名の名前が刻まれていた。


その奥 三界万霊塔 寛政7(1795)唐破風笠付の角柱型の石塔の正面を彫り窪めた中に十三仏を浮き彫り。一体一体は小さいが、損傷もなく美しい姿を保っている。下の台の正面には浮谷村 願主圓成敬白。さらに世話人とあり四名の名前が刻まれていた。


左側面中央「有縁無縁三界萬靈等」その両脇に造立年月日。その下に浮谷惣村中。さらに近隣21の村名。それぞれの講中を合わせると百数十名の人たちがこの石塔の建立に協力したことになる。


右側面に八つの戒名とその命日、裏面には五つの戒名とその命日が刻まれていた。


七基の右端 舗石供養塔 寛政3(1791)正面上部に舗石願主とあり、その下、右から造立年月日、続いて十数人の名前、一番下に商人講中と刻まれている。


本堂すぐ手前、参道の左側に板碑型の百堂順礼供養塔が立っていた。


上部に阿弥陀三尊を梵字であらわし、その下に「奉参詣百堂順礼同行廿五人二世安樂之□」右脇に造立年月日。左脇に武州奇西郡埼玉正岩付之内浮谷村と刻まれていた。