桜区上大久保

 

常楽寺 桜区上大久保269[地図]


埼大通り、新大宮バイパスと埼大の真ん中あたりの信号交差点を右折して大泉院通りに入る。400mほど先、県道215号線との交差点の角に常楽寺があった。入口は交差点を左折してすぐ左側、奥に本堂が見える。


本堂の手前、左側に四基の石塔が並びその奥に青い瓦屋根の小堂が立っていた。

左から 庚申塔 享保6(1721)四角い台の上、唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


蛇冠、どんぐりまなこの青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。細かい指先まで丁寧な彫り。


足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元に邪鬼がうずくまり、その下に三猿。両脇の猿は内側の足を立てて斜め向きに座る。


塔の左側面に造立年月日。その横に武州足立郡植田谷領上大久保村講中。下部に願主九人の名前が刻まれていた。


右側面に「庚申供養尊」白カビがびっしりとこびりつき近づいてやっと銘が読み取れる。


その隣 宝篋印塔 安永9(1780)屋根型の笠を持つ江戸時代中期の典型的な宝篋印塔。


基礎の正面中央に「奉造立宝篋印塔爲二世安樂也」両脇に造立年月日。裏面に施主 浦和町とあり個人の名前が刻まれていた。


続いて百ヶ所順礼供養塔 享保6(1721)四角い台の上、宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔。


正面を二重に彫りくぼめた中、梵字「サ」の下に蓮台に立つ聖観音菩薩像を浮き彫り。左手に未敷蓮華を持ち、開花を促すように右手をそのつぼみに当てる。


蓮台の下「秩父 坂東 西國 百ヶ所順礼諸願成就之攸」両脇に造立年月日。


四角い台の正面、右端に武州足立郡植田谷領 上大久保村。続いて多くの名前が刻まれていた。


一番奥に庚申塔 文政13(1830)四角い台の上、角柱型の石塔の正面に大きく「庚申塔」


塔の左側面、武州足立郡植田谷領上大久保邑 講中。その奥に西 は弥くら?引又道。


右側面に造立年月日。右脇に北 よの 大みや道。左脇に東 わらび 江戸道。三方向六地名が刻まれていて道標になっている。


小堂の中、左に大型の丸彫りの地蔵菩薩立像、右に六地蔵菩薩が祀られていた。


左 地蔵菩薩塔。二重の台の上、厚い敷茄子、蓮台に地蔵菩薩立像。台の両側面に銘が刻まれているが隙間が狭く読み取れず、造立年など詳細は分からない。


右 六地蔵菩薩立像 文化8(1811)丸彫りだが六体は大きな欠損もなくよくそろっている。


六基の石塔の正面にそれぞれ銘が刻まれていた。右から當村中 邑々助力。二番目に「念佛講中」


3番目に造立年月日。4番目に願主一名の名前。


5番目に足立郡上大久保村。左端は中央に法印権小僧都。両脇の紀年銘は命日だろう。

 

さいたま桜高等学園近く路傍 桜区上大久保599脇[地図]


新大宮バイパスの上峰交差点から埼大通りへ向かう県道215号線。大泉院通りとの交差点の80mほど手前、さいたま桜高等学園の先の道路左側、三差路の角の電信柱の脇にブロックで囲まれたスペース、ゴミ捨て場のように見えたのだが・・・


ブロックに囲まれていたのは巳待供養塔 宝永5(1708)角柱型の石塔の上に弁財天坐像が乗っている。


舟形光背を持つ蛇冠八臂の弁財天坐像。光背は一部が欠け、尊顔も不鮮明。持物は上から鉤形の武具?左手は塔?中右手は何か持っているが光背が欠けていて不明。左手に法輪。下の手には弓矢。前の手、右手に剣。左手は宝珠を持っていたはずだが風化のためにこれも欠けていた。


角柱型の石塔の正面、右から武州足立郡上大久保村 各々敬白。続いて「奉供養巳待一結衆」以上十四人。中央「倫覬現當福樂善根増長」さらに國土豊饒家々久昌。左端に造立年月日。写真では見えないが右の最下部に本願主と刻まれていた。

埼大北東アパートブロック塀前 桜区上大久保175[地図]


埼大通りと大泉院通りの交差点から200mほど西、押しボタン交差点を斜め右に入り、路地を進むと突き当りのアパートの隅、ブロック塀の前に小型の石塔が立っている。


馬頭観音塔。四角い台の上、舟形光背に馬頭観音坐像を浮き彫り。紀年銘は見当たらず造立年など詳細は不明。光背、像ともに風化が著しい。


尊顔は崩れているが、この角度から怒髪に馬頭は健在。胸前に馬口印を結ぶ。


塔の左側面は無銘。右側面には上大久保村と刻まれていた。

鴨川左岸土手道脇 桜区上大久保1008[地図]


鴨川左岸、上浅間橋東詰から北へ120mほど進むと右手の空き地に石塔が並んでいた。


周りは大久保領家と下大久保。鴨川沿いにポツンと上大久保の飛び地。大小合わせて五基の石塔。いずれも馬頭観音塔である。


左から 馬頭観音塔 嘉永3(1850)舟形光背に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。顔は削れているが馬頭はくっきり。


塔の右側面に造立年月日。左側面には領家村 願主とあり、三名の名前が刻まれていた。


中の三基は銘が見当たらずただの自然石のように見えるが、酒井さんの資料によると、それぞれ安政5(1858)の文字塔、文政11(1828)の文字塔、文化6(1809)の像塔らしい。


右端 馬頭観音塔 明治11(1878)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。


塔の右側面は無銘。左側面には下大久保邑とあり、個人の名前が刻まれていた。