豊玉北・豊玉南の石仏

林稲荷神社 練馬区豊玉北1-7


目白通りにある都営大江戸線新江古田駅の交差点から西に進み、二つ目の交差点を左折、一方通行の道を下ってゆくと右手に豊玉東小学校がある。その向かい側の林稲荷神社の入口脇に小堂が立っていた。小堂の中には両脇の正体不明の小さな二つの石塔を含めて四基の石塔が並んでいる。


左 聖観音菩薩立像 寛文3(1663)大きなゆったりとした舟形の光背に豊かな温かみのある観音様を浮き彫り。左手に茎の長い未敷蓮華を持ち右手は与願印。


銘は薄くなっていて読みにくい。光背左上に造立年月日。右脇、梵字「サ」の下に「奉建立念佛供養諸願成就処」と刻まれていた。


右 庚申塔 寛文3(1663)隣の観音像と全く同じ造立年月日。石塔のタイプは異なるが石質、色ともによく似ていて、同時に奉納されたものだろうか?


角柱型の石塔の正面 こちらの銘はさらに薄く読みにくい。中央に「奉建立庚申供養諸願成就処」両脇に造立年月日。この銘も隣の観音像とほぼ同じだ。


下部に大きな三猿が、両側面には雄鶏と雌鶏が彫られていた。いかにも江戸時代初期の庚申塔らしい雰囲気がある。

市杵島神社 練馬区豊玉北2-17


豊玉東小学校の北の道を西に向かう。この道は目白通りのすぐ南を並行して走る道路で、目白通りの喧騒が嘘のようなのどかな通りになっている。目白通りと環七通りの交差点、豊玉陸橋交差点につく少し手前、道路右側に市杵島神社があった。


大きな木立もあり、境内は薄暗い。神社の裏、境内社の近くに三基の石塔が並んでいる。後ろのブロック塀の向こうが目白通りで、ひっきりなしに車が走っていた。


左 庚申塔 宝暦13(1763)上部両隅を丸くした角柱型の石塔は斜めに断裂跡が見える。最上部に梵字「バン」中央を彫りくぼめた中「奉供養庚申尊像家内安全 祈攸」両脇に造立年月日。左下隅に願主は個人名が刻まれていた。


中央小堂の中 不動明王坐像 明治40(1907)角柱型の石塔の正面、火焔光背を背に剣と羂索を持つ不動明王坐像を浮き彫り。小堂の左側の側板の隙間から紀年銘はなんとか見えたがその他の銘は確認できなかった。


右 地蔵菩薩立像 宝永5(1708)基壇の上に二段の台石、厚みのある蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。目白通りのあふれる光をバックに悠然と立っている。


台の正面中央「講中二世安樂所」右脇に施主 個人名。左脇に同行二十三人。右側面に武州豊嶋郡中荒井村。左側面に造立年月日が刻まれていた。

豊玉氷川神社 練馬区豊玉南2-15


環七通りの丸山陸橋の北600mほどの交差点の東、豊玉南小学校の前に豊玉氷川神社がある。その広い境内の左奥には稲荷社があり、参道両脇に向かい合うように二基の石塔が立っていた。


参道右 庚申塔 正徳5(1715)正面に卍を彫られた立派な笠を持つ角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。彫りはかなり厚みがある。大きな欠損もなく均整ががとれていて銘も明快。この時代を代表する優品といえるだろう。


足元の邪鬼は正面向きで顔と両腕のみ。甲羅からはい出した亀のように見える。揃って正面を向いて座る三猿は中央の聞か猿だけやや小さいが、顔の表情まで細かく表現されていて楽しい。


塔の右側面に武州豊嶋中荒井村。下部に大きく立派な雄鶏。左側面には同行拾人。続けて願主は個人名。その下部にはしっかりと雌鶏が彫られていた。


参道左 庚申塔 正徳元年(1711)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「キリーク」の下に「奉造立庚申供養二世安樂攸」上部両脇に造立年月日。右下 願主 個人名。左下 同行十三人。


下の台の正面には土埃にまみれて三猿が彫られている。

 

正覚院 練馬区豊玉南2-15


豊玉氷川神社のすぐ東隣に正覚院の入り口がある。山門を入ると正面に本堂。参道右側は庭木やさつきなどの植え込みになっていて、その中に赤い前掛けをした地蔵菩薩像が立っていた。


地蔵菩薩像立像 昭和13(1938)丸彫りの堂々たる体躯のお地蔵様。前掛けで見えないが、左手に宝珠、右手は施無畏印だろうか?


下の台の正面 梵字「カ」の下「八子地蔵大菩薩」右脇に「為無縁八幼霊菩提」左脇に造立年月日。調べてみると、幼い子を里子にもらっては次々と死なせて土中に埋めていたものがいて、これが露見しそのものは処刑されたが、嬰児は父母も不明で引き取り手もない、そんな哀れな霊を弔うために当時のご住職が有志を募りこのお地蔵様を造立したものだという。台の右側面に願主名。左側面には施主とあり、二十名ほどの有志の名前が刻まれていた。


その少し先に二基の石塔が立っているのが見える。周りにはサツキが密生していて、写真では見えないが小さなせせらぎも流れていて近くから見ることが難しい。


右 庚申塔 享保8(1723)角柱型の石塔の上部は欠損。正面に「□申」右脇に願主は個人名。左脇に講中拾三人。その下にも断裂跡が見える。


塔の右側面に造立年月日。左側面に豊嶋郡中荒井村。たぶん上の「武州」の部分が欠落したのだろう。


左 庚申塔 延宝7(1679)唐破風笠付き角柱型の石塔。


正面を彫りくぼめた中、阿弥陀三尊種子の下「奉待庚申供養石塔 二世安樂」両脇に造立年月日。塔の下の部分、さつきの葉の間に三猿の頭だけがのぞいている。


参道から離れて植え込みの奥のほうに進むと、ここにも二基の石塔が立っていた。


手前 庚申塔 文化元年(1804)舟形光背に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち二臂。日月を欠く。二臂像の青面金剛というのもほとんど見たことがない。また邪鬼、三猿、二鶏も見当たらない。光背上部 左 ほりのうち、右 中村薬師。両脇に造立年月日。右下に豊嶋郡中荒井村、左下に講中拾二人と刻まれている。


奥 光明真言供養塔 享保19(1734)角柱型の石塔の正面 上部の梵字は一部つぶれているが大日如来を表す「バーンク」だろうか?その下に「奉為造立光明真言塔數百万遍二世安樂」中央両脇に造立年月日。下部には講中 拾四人と刻まれていた。

 


本堂の左側からまわって奥のほうへ進むと、その先には大きな墓地が広がっていた。墓地入口に赤い前掛けをしたお地蔵様が並んでいるのが見える。


左側に六体、正面に三体、右側に二体の丸彫りの地蔵像。墓地を守る番人たちといった風情だ。


左側 六地蔵菩薩立像 享保20(1735)中央二体は頭部を後から補われたもので、一見不ぞろいな印象を受けるが、その体形、衲衣の模様、蓮台などの様子はよく似ていて、六地蔵として奉納されたものと思われる。


それにしても顔だけ見ていると六者六様の顔立ちで、これは不ぞろいとしか言いようがない。左から3番目、あとから補われた顔には目も鼻もなく異様。「寄生獣」を見るようだ。


蓮台の下の台の銘は、左三基は正面に講中二十人 願主 同人と刻まれ両側面は無銘と、全く同じものだった。


右の三基は両側面にも銘があり、右端と右から3番目が同じ銘。右から2番目だけが様子が異なる。


右端および右から3番目、台の正面中央「奉納為二世安樂」その右に講中二十人。左脇に願主は個人名。左側面に武州豊嶋郡中荒井村。


右側面に享保20年の紀年銘。左の三基の台の銘と筆跡?は同一と言ってよいだろう。


右から2番目。台の正面は左の三基と同じく講中二十人 願主 同人。左側面中央には念佛施主四十人と刻まれている。その両脇は施主名だろうか?


右側面中央には大きく童女名の戒名。両脇に享保18年の紀年銘。こちらは命日と思われる。資料ではこの六地蔵全体の造立年を享保18年としているがどうだろう?私見ではあるが、六地蔵は享保20年に同時に奉納され、そのうちの一基はその少し前に亡くなった幼子の供養のために特に刻銘して奉納されたということではないだろうか。


正面の三基。いずれも丸彫りだが、こちらも顔の様子がそれぞれ個性があって面白い。


左 地蔵菩薩立像 享保元年(1716)錫杖宝珠ともに欠く。顔の形がユニーク。お地蔵様のよくある形というと丸みを帯びたお顔に耳朶の発達した福耳で薄く目を閉じるといった感じかと思うが、こちらのお地蔵さまはどれも当てはまらす、なんだか普通の人間っぽい顔をしている。


敷茄子に銘があった。いい加減に撮って帰ってから見たら全然ピントが合っていなくて正確には読めない。現場できっちり確認してくるべきだったと反省。願主個人名。講中廿四人か?後日確認して訂正します。


台には銘が見当たらず、像の後ろに回って紀年銘を見つけた。背中いっぱいに大きな字で武州豊嶋郡中荒井村。その脇に造立年月日が刻まれている。


中央 地蔵菩薩立像 宝暦6(1756)三体の中で一番お地蔵様らしい顔をしているが、額が広く、目つきがこころなしか厳しい。


台の正面中央 梵字「カ」の下「奉造立地蔵尊」両脇に造立年月日。さらに講中五拾二人。ずいぶん大きな講だ。


右 地蔵菩薩立像 宝永3(1706)四角いお顔で円頂福耳、ややしもぶくれでユーモラス。まなざしは温かく優しく微笑みかけている。


像の後ろに「奉造立石地蔵尊二世安樂所」左脇に造立年月日が刻まれていた。


右側、戦没者慰霊碑、新しい観音菩薩立像とともに二基の丸彫りの地蔵像が並んでいる。


左 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)重厚な蓮台の上に堂々とした体躯のお地蔵様。彫りも細かく美しい。蓮台の下の台の正面 講中 男三十・・・女三十・・・。下のほうは苔がこびりついていて読めないが、合わせて60人以上のこれも大きな講だ。


近づいてみるとあごの部分が大きく損傷している。それでも威厳を欠くことなく毅然としている。


像の背中、梵字「カ」の下  武州豊嶋郡中荒井村。続いて造立年月日が刻まれていた。


右 地蔵菩薩立像 昭和44(1969)無垢な童子のような美しい顔立ちのお地蔵様。台の正面に「延命地蔵尊」右側面に造立年月日。願主は女性である。どんな思いで奉納されたのだろう。当時、世間は一連の大学紛争や70年安保闘争などで騒然としていたのだが・・・