平和台・氷川台の石仏

圓明院北 遊歩道角 練馬区平和台1-4


川越街道から圓明院へつづく遊歩道の途中(この辺りを流れていた田柄川が暗渠になった上につくられた遊歩道らしい)金乗院のほうからこの遊歩道に出てきた交差点の角、ブロック塀に囲まれ雨除けの下に石塔が立っていた。

入口両側に「東本村庚申講」と書かれた石柱が立ち、正面に立派な駒型の庚申塔。入口右のブロックの向こうに笠付きの石塔の笠が見えている。 


庚申塔 貞享2(1685)梵字「ウン」の下、日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。江戸時代初期らしく石質は固く色は黒っぽい。丸顔で三眼、首飾りをした青面金剛は瞑目して合掌。像の右脇「奉新造立庚申之供養結衆二世安樂所」左脇に造立年月日。続けて武州豊嶋郡下練馬本村と刻まれていた。


足元の邪鬼は踏みつけにされふてくされている。その下には正面向きの三猿。三猿の下の部分、両脇に二鶏が薄く線刻され、その間には10名ほどの名前が刻まれている。


雨除けの右の柱の前 庚申塔 宝暦2(1752)大きな笠付きの角柱型の石塔の正面「庚申講十人」右側面に造立年月日。下のほうに下練馬村 本村と刻まれていた。


左側面 是より 西 たなし道、東 いたはし道。やはり道標になっている。

練馬区立平和台図書館南路傍 練馬区平和台1-28-21


練馬区立平和台図書館の南、老人介護施設のある十字路の角の住宅のブロック塀の中に庚申塔が祀られていた。


庚申塔 天保5(1834)駒型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」両脇に造立年月日。下部には江戸道。台の正面には當村東講中と刻まれている。


塔の左側面にはかなりはっきりした文字で 南 ぞうしがや たかたみち。


右側面には 北 下祢りむま宿 とたわたしみち と刻まれていた。今回は確認できなかったが裏面にも 西 ふじ山 大山ミちとあるらしい。これだけ道標が多いということは、当時このあたりは交通の要衝として栄え、人の往来も激しかったということだろう。

東本村稲荷神社脇 練馬区平和台4-2-16


環状八号線を北町陸橋のほうから平和台方面に進み、練馬自衛隊南交差点で左折すると、250mほど先、道路右側に稲荷神社があった。その北側道路脇に小堂が立っている。


小堂の中 庚申塔 文久3(1863)石塔は風化が進み表面がデコボコで銘が読みにくい。正面、目を凝らしてみると、かなり大きな字で「庚申塔」と見える。


下の台の正面に三猿。こちらも表面は摩耗して丸くなっている。左の言わ猿は桃果を手にして座り、真ん中の聞か猿が横座り、右の見猿が足を投げ出すなど、それぞれが自由な動きのある三猿になっていた。


塔の左側面は風化が著しく進み、わずかに文久三・・・ところどころ村とか中とか文字らしいものが見えるがとても読める状態とは言えない。右側面は比較的読みやすく、右に武州豊嶋郡下練馬村本村、続いて廿四人講中。左上に右 大山 新高野 道と刻まれていた。

 

荘厳寺 練馬区氷川台3-14-26


圓明院の前の遊歩道を100mほど東に進み、右折して南に向かう。坂を上り切ったあたりから城北中央公園の脇を通って坂道を下りた先の信号交差点のあたりに荘厳寺の入口がある。正面に本堂が見えるが、ここは東門で、正門にはさらに坂道を下りまわってゆくことになる。


正門から参道を進むと石段があり、その先に山門、さらにその先左側に本堂がある。石段手前の参道両脇に石地蔵が立っていた。


参道左側 地蔵菩薩立像 正徳2(1712)丸彫りだが損傷は少なく、彫りも衲衣の襞、指の先まで細かく行き届き美しい。凛々しく知的な風貌が魅力的だ。台の正面には「為法界」


塔の左側面に造立年月日。右側面中央に前湿化味村、右脇に施主個人名、左脇に法印宥厳代と刻まれていた。


参道右側 丸彫りの地蔵菩薩立像 元禄15(1702)やや白カビが多く錫杖の先が欠けている。


下の台の正面「奉造立地蔵」左側面に「為法界諸霊」右側面に造立年月日が刻まれていた。


石段の上、山門の左手前に 豊島八十八ヶ所霊場第五十八番 医王山荘厳寺「弘法大師」と彫られた明治44年建立の石塔が立ち、その向こうにいくつか石仏が見える。


白い塀の前にはタイプの異なる三基の庚申塔と地蔵菩薩坐像が並んでいた。


左端 庚申塔 享保17(1732)目の前に庭木があり、正面からの写真は撮れない。唐破風笠付き角柱型石塔の正面、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が著しく進み、青面金剛の顔のあたりはひどく破損。青面金剛の足元は邪鬼か磐座かよくわからない。その両脇に厚く二鶏を彫りだし、その下の三猿は正面向き。塔の右側面には「奉待庚申供養」と刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。続いて武州豊嶋郡上練馬内 高松村講中四十三人と刻まれている。今回練馬区を整理するにあたり旧村を参考にして、下練馬村(現在の北町、錦、平和台、氷川台、早宮、羽沢、栄町、桜台、練馬)から始めて、中新井村、中村まで、次に上練馬村、谷原村、田中村、最後に土支田村、石神井村、関村という構想でスタートした。実際ここまで見てきた石塔ではすべて下練馬村の銘があったが、ここで初めて上練馬、しかも谷原に近い高松村、約4km離れた地で建立されたこの庚申塔がなぜここにあるのだろうか?

その隣には板碑型三猿庚申塔 享保16(1731)上部に日月雲、その下を彫りくぼめた中、梵字「バク」の下に「奉供養庚申待成就處」両脇に上から「天下泰平 百穀豊熟」中ごろに「護持講中 現當悉地」下部に造立年月日が刻まれている。枠の部分下部に武州豊嶋郡下練馬村 前湿化見 講中三十二人。調べてみると江戸時代に下練馬村には今神、三軒在家、早淵、宮ケ谷戸、宿、本村などと共に湿化味(シケミ)という小字があったらしい。塔の下部にはしっかりと三猿が彫られていた。


続いて 庚申塔 宝暦5(1755)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。これもときどき見かける形だが、日月が塔から少しだけはみ出している。


大きなショケラが青面金剛のももに縋りつく。足元にはお尻を突き上げた邪鬼がうつぶせに横たわる。その下の三猿はユニーク。ポーズも自由で動きがあり、顔の表情も面白い。


塔の右側面中央に「奉造立青面金剛像一軀」その両脇に造立年月日。左側面には、武州豊嶋郡下練馬村  前湿化味講中 六人敬白と刻まれていた。


右端 地蔵菩薩坐像 宝暦4(1754)左足を垂らした丸彫りの半跏坐像。若干の白カビはあるものの欠損もなく蓮台もぶ厚く重厚。お地蔵さまは端正なお顔で悠然と座る。


蓮台の下、塔部正面、中央には梵字。地蔵菩薩の真言「オンカカカビイサンマエイソワカ」ではないだろうか。両脇に願文?「造作五従罪常念地蔵尊 遊戯諸地獄次定代学若」右側面に施主は個人名。左側面には造立年月日が刻まれていた。


山門の右手前、こちらもやはり白い塀の前に六地蔵と丸彫りの石地蔵が並んでいる。

六地蔵はいずれも舟形光背を持つが、右の四体と左の二体ではその形が微妙に違っていた。右の四体の光背右脇には享保十三年(1728)の紀年銘。


左の二体の光背右脇には元禄十五年(1702)の紀年銘が見える。26年の年の隔たりから考えると別の二組の六地蔵なのかもしれない。


左端 丸彫りの地蔵菩薩立像 寛保元年(1741)錫杖、宝珠ともに欠けていた。ちょっとうつむき加減のお地蔵様、静かに佇んでいる。


下の台の正面中央「為法界」両脇に造立年月日。右側面に武州豊嶋郡下練馬村、左側面に講中三十一人、三軒在家村とあり、施主 浄□と刻まれていた。

 


山門をくぐって境内に入り、正面の三段の石段を登ってゆくとその先左手に本堂。石段の手前を右へ曲がると鐘楼があり、その先が墓地になる。鐘楼の向かい側、道の脇に四基の石塔が並んでいた。


左端 光明真言供養塔 寛延元年(1748)大きな荒彫りの角柱型石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に光明真言曼陀羅を彫る。白カビがまんべんなくついていて銘は読みにくい。


その下中央に「奉供養光明真言一億遍悉地成就處」右脇に造立年月日。続けて結衆百七十五人。左脇に権大僧都法印王□代。その下に願主一名の名前が刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像 明和3(1766)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面に錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。像の右脇に「光明真言供養塔」左脇に造立年月日。地蔵菩薩像付きの光明真言供養塔ということになる。


両側面には美しく蓮華が彫られ、左側面には下練馬講中十七人、さらに世話人一名の名前が刻まれていた。


続いて庚申塔 享保4(1719)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。例によって青面金剛の顔はつぶされ気味だが、相当いかつい感じがする。


第3手の両手の弓矢、半浮彫ぐらいが普通だが、ここでは線刻されていて、この辺りの表現は平板な印象を受ける。足元には邪鬼、二鶏の姿はなく、正面向きの三猿だけが彫られていた。


塔の左側面 梵字「ウン」の下「奉造立庚申待供養成就為二世安樂」両脇に造立年月日。右下に講中二十人。左下に願主は個人名が刻まれている。


右側面中央 武州豊嶋郡下練馬早鞭村(早淵村のことか)右脇に 右かわごえミち 六里余、左脇に 左 たなしミち 三里。やはりこれも道標になっていた。


右端 丸彫りの地蔵菩薩立像。真ん丸なお顔で悠然と佇む。指の先まで彫りは細かく蓮台も形良く重厚。どこにも銘が見当たらないために、残念ながらその詳細についてはなにもわからなかった。ところが先日、資料「練馬の石仏」に荘厳寺の無縁塔主尊地蔵として紹介されていた丸彫りの地蔵像がどうしても見つからなくて、これも探すのをあきらめていたのだが、その写真を見ていてやっと気が付いた。この正体不明の地蔵像がその「無縁塔主尊地蔵」だったのだ。像の下の台は新しいが、本来の台の正面に紀年銘があり、元禄16年(1703)造立の古い石仏らしい。後で見ていただくが、今は無縁塔の主尊として観音様が立っている。長いお務めを終えて今こちらに休んでいらっしゃるのかもしれない。


山門の先、左手に立派な本堂が見えてくる。その左手前にずんぐりとした宝篋印塔が立っていた。


宝篋印塔 正徳5(1715)隅飾型の笠を持ち、相輪はシンプルな基本形。塔身部四面には梵字が刻まれている。


基壇に願文。左側面最後に造立年月日。さらに講中と刻む。裏面に東武豊嶋郡 下練馬湿化味邑。さらに不動院醫王山荘厳寺現寓 祐嚴末弟 周嚴と刻まれていた。


本堂から東門へ向かう途中の南側に無縁仏が集められていた。舟形光背型の聖観音、如意輪観音が多く、中に石地蔵もいくつか見られる。石仏が三角形に積み上げられた頂点には聖観音立像が祀られていた。


最前列中央付近に馬頭観音菩薩立像 宝永4(1706)江戸時代初期独特の上部が前に反った舟形光背に馬口印を結ぶ二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。右脇 梵字「サ」の下に「為・・・・信士 菩提也」と個人の戒名が刻まれる。個人の墓石として聖観音菩薩、如意輪観音菩薩、地蔵菩薩、阿弥陀如来などを多く見るが、馬頭観音菩薩というのは非常に珍しい。


丸顔でふくよかなお顔をした馬頭観音菩薩の頭上、両足で観音様の頭を挟むようにして身を乗り出す馬。その蹄の先まで確認できるほど明確な見事な彫りで、この点からもユニークな馬頭観音像と言えるだろう。


東門を出ると信号交差点の向かい側に墓地があった。入口左の石塔を見るとこちらも荘厳寺墓地らしい。入口右に六地蔵が見える。


六地蔵菩薩立像 明和6(1769)丸彫りで六態揃うが、像の大きさ、蓮台、敷茄子の様子からみて、一部は後から建て加えたものかもしれない。


右から3番目、合掌する地蔵像の台の正面、中央に梵字で地蔵菩薩の真言「オンカカカビイサンマエイソワカ」右脇「地蔵菩薩□大慈悲」左脇に「若聞名号不堕黒闇」右側面中央に造立年月日。右脇に念佛講中敬白。左脇に願主、世話役それぞれ一名の名前が刻まれていた。

 

光傳寺 練馬区氷川台3-24-4


荘厳寺の東門のある信号交差点から南へ坂道を下り、二つ目の交差点を右折、250mほど先の交差点の角に光傳寺の入口がある。正面に山門が立ち、本堂までまっすぐに参道が続く。

山門をくぐり境内に入ってすぐ右手、鐘楼の向こうの塀の前に五基の石塔が立っていた。


右から庚申塔 宝永5(1708)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


日月の中に梵字「ア」と「ウン」を刻まれていた。これは初めて見る。口をへの字にして合掌する青面金剛。頭上は蛇だろうか?よく見ると第3手、本来あるはずの弓矢が見当たらない。手じたいが途中から切れているようで、これはどうしたのだろう。


足元に顔だけの?邪鬼。その下の三猿も顔がのっぺらぼうで、このあたりは風化のせいだろうか?


塔の右側面「奉造立庚申青面金剛二世安樂所」右下に下練馬村とあり、その下に10人ほどの名前が刻まれている。


左側面に造立年月日。左下に法印慧龍代。こちらもその下に9名の名前があり、合わせて20名ほどの講だろう。


その隣 六十六部供養塔 寛保元年(1741)真四角の台の上 角柱型の石塔の正面に「日本廻國六十六部供養塔」右下に武州豊嶋郡下練馬村。左下に願主一名の名前。塔の右側面阿弥陀三尊種子の下「南無阿弥陀佛」両脇に天下泰平 國土安全。


左側面中央に「為二親菩提」両脇に造立年月日が刻まれている。


続いて丸彫りの地蔵菩薩立像。ちょっと頭を傾け優しい慈愛に満ちた笑みを浮かべている。残念ながら本来の台を欠き、紀年銘などが確認できないが、練馬区教育委員会発行の「練馬の石仏」(昭和57年刊)に写真が載っていて、縦長の台の正面に三つの戒名、右側面に正徳2年(1712)の紀年銘、左側面に前湿化味村 宇佐美氏の名前、続いて法印恵龍代と刻まれているらしい。


その隣 聖観音菩薩立像 宝暦4(1754)舟形光背、梵字「サ」の下に蓮華を持ち与願印の聖観音菩薩里立像を浮き彫り。


光背右脇「奉造立觀世音菩薩」左脇に造立年月日が刻まれていた。


左端 地蔵菩薩立像 寛文10(1670)鋭角的な舟形の光背、梵字「イ」の下に端正な顔立ちの地蔵菩薩立像を浮き彫り。


彫りは細かく衲衣の襞まで丁寧に表現される。光背右脇「為権大僧都盛□法印菩提也」左脇には造立年月日。その下に甲州□□□村之住僧頼音房 敬白と刻まれていた。


参道左側に十一面観音堂がたっている。その手前の小堂の中に石地蔵が祀られていた。


地蔵菩薩立像 寛政8(1796)舟形光背に錫杖・宝珠を持った地蔵菩薩立像を浮き彫り。全体に風化が進み、特に顔はつぶれていてのっぺらぼう。近くに解説板が立っていて、「子育地蔵尊」だということだった。光背右上に「光明真言」右脇に下練馬村湿化味講中拾六人。左脇に造立年月日が刻まれている。


堂の中、十一面観音菩薩立像。丸彫りの大きな石仏だが、光線の具合が悪くしっかりした写真は撮れなかった。紀年銘なども見ることはできず残念ながら詳細は不明である。

 


本堂の左奥にある広い墓地の入口左脇に三基の石塔が並んでいた。近くに立つ解説板によるとこの三基の石塔は氷川台4-46に安置されていたもので、地域の開発が進んだために講中の人たちが相談して、平成5年にこちらに移転してきたものだという。


左 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)丸彫りの延命地蔵。丸顔で錫杖と宝珠を手に悠然と立つ姿はまさしく「お地蔵様」という感じがする。


下の台の正面 梵字「カ」の下に「奉造立地蔵尊」右脇に造立年月日。左脇に二世安樂所。右側面に武州豊嶋郡下練馬村。左側面に施主 講中十四人と刻まれていた。昭和57年刊行「練馬の石仏」ではこのお地蔵様は「川流し供養地蔵」として紹介されている。どうにも手に負えない無法者を、村の人たちが簀巻きにして川に流してしまったらしい。その後、供養のためにこのお地蔵様を造立したという。施主の14人は無法者を川流しにした村の人々ということになるのだろう。


中央 庚申塔 宝永2(1705)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。像の両脇に造立年月日。


足の両脇に二鶏を線刻。足元の邪鬼はおとなしく覇気がない。その下に正面向きの三猿。三猿の下の部分に十数人の名前が刻まれていた。


右 大乗妙典供養塔 宝暦6(1756)角柱型の石塔の正面阿弥陀三尊種子の下「大乗妙典供養塔」両脇に天下泰平 國土安全。塔の左側面に造立年月日。その下に個人名。右側面には「日本回國為二世安樂」その左に戒名が刻まれている。


墓地の入り口右脇には屋根型の笠を持つ宝篋印塔 享保14(1729)が立っていた。右奥に小さな石仏が見える。


塔身部四面に蓮台に座る四仏の像を彫る。梵字であらわすものが多いが、ゆったりと座る阿弥陀如来をはじめとする四仏のお姿には心安らぐものがある。基礎部四面には願文が刻まれていた。


反花の付いた台、正面には武州豊嶋郡 下練馬村 大明山 無料院 光傳寺 第六世 権大僧都 以下四名の僧の名前が刻まれている。左側面には講中とあり、続けて願主一名、施主として7名の名前が刻まれていた。


裏面にさらに施主4名の名前、左端に造立年月日。右側面には9名の戒名が刻まれる。


右奥に異形の不動明王坐像 天明5(1785)口角が上がり目を吊り上げた不動明王。右手に剣、左手に羂索。像の胸のあたり、一部は剥げ落ち、光背も火焔模様が剥落の為あいまいではっきりしない。


背中のほうに回ると上部がセメントで補修されているのがわかる。背中右側に造立年月日。続いて湿化味 講中拾四人と刻まれていた。


墓地に入ってすぐ右手に地蔵菩薩立像 寛政8(1796)ゆるやかな舟形の光背は寛政期にしては余裕があり、像の彫りも丁寧で美しい。

頭上には「光明真言」光背右脇 武州豊嶋郡下練馬村三軒在家。その下に願主。光背左脇「講中為二世安樂也」その下に造立年月日。続いて講中拾一人と刻まれていた。


墓地に入ってすぐ左側には多くの無縁仏が並んでいた。前二列は舟形光背型の古いものが多く、中ほどに五輪塔など、その後ろが角柱型の石塔が集められているようだ。江戸時代初期のものだけでも見ておきたい。


前列 左端 聖観音菩薩立像 明暦3(1657)銘が確認できるものの中では最も古い石仏。左手に未敷蓮華をもち、右手をそっと添えている。大きく立派な舟形光背、像も重厚で存在感がある。


前列右端 阿弥陀如来坐像 延宝8(1680)カビが多いのは残念だがバランスの良い坐像。


2列目右端 金剛界大日如来立像 寛文10(1670)光背上部を欠く。智拳印を結ぶ右手首の先も欠けていた。


二列目右から2番目 阿弥陀如来立像 延宝2(1674)来迎印と思われる。光背上部に「キリーク」


3番目 一石双体仏 天文4(1535)?白カビが多すぎて銘は確認できないが、資料を信じればこれはとびぬけて古い石仏ということになる。



前から四列目の右から3番目 一石三体地蔵菩薩塔。梵字「カ」の下に真ん丸童顔の三地蔵、小首をかしげた姿がかわいい。同じような石塔が無縁塔最後列中央あたりにあり、合わせて二石六地蔵となるものと思われる。