圓明院北 遊歩道角 練馬区平和台1-4
川越街道から圓明院へつづく遊歩道の途中(この辺りを流れていた田柄川が暗渠になった上につくられた遊歩道らしい)金乗院のほうからこの遊歩道に出てきた交差点の角、ブロック塀に囲まれ雨除けの下に石塔が立っていた。
山門をくぐって境内に入り、正面の三段の石段を登ってゆくとその先左手に本堂。石段の手前を右へ曲がると鐘楼があり、その先が墓地になる。鐘楼の向かい側、道の脇に四基の石塔が並んでいた。
左端 光明真言供養塔 寛延元年(1748)大きな荒彫りの角柱型石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に光明真言曼陀羅を彫る。白カビがまんべんなくついていて銘は読みにくい。
その下中央に「奉供養光明真言一億遍悉地成就處」右脇に造立年月日。続けて結衆百七十五人。左脇に権大僧都法印王□代。その下に願主一名の名前が刻まれていた。
その隣 地蔵菩薩立像 明和3(1766)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面に錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。像の右脇に「光明真言供養塔」左脇に造立年月日。地蔵菩薩像付きの光明真言供養塔ということになる。
両側面には美しく蓮華が彫られ、左側面には下練馬講中十七人、さらに世話人一名の名前が刻まれていた。
続いて庚申塔 享保4(1719)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。例によって青面金剛の顔はつぶされ気味だが、相当いかつい感じがする。
第3手の両手の弓矢、半浮彫ぐらいが普通だが、ここでは線刻されていて、この辺りの表現は平板な印象を受ける。足元には邪鬼、二鶏の姿はなく、正面向きの三猿だけが彫られていた。
塔の左側面 梵字「ウン」の下「奉造立庚申待供養成就為二世安樂」両脇に造立年月日。右下に講中二十人。左下に願主は個人名が刻まれている。
右側面中央 武州豊嶋郡下練馬早鞭村(早淵村のことか)右脇に 右かわごえミち 六里余、左脇に 左 たなしミち 三里。やはりこれも道標になっていた。
右端
丸彫りの地蔵菩薩立像。真ん丸なお顔で悠然と佇む。指の先まで彫りは細かく蓮台も形良く重厚。どこにも銘が見当たらないために、残念ながらその詳細についてはなにもわからなかった。ところが先日、資料「練馬の石仏」に荘厳寺の無縁塔主尊地蔵として紹介されていた丸彫りの地蔵像がどうしても見つからなくて、これも探すのをあきらめていたのだが、その写真を見ていてやっと気が付いた。この正体不明の地蔵像がその「無縁塔主尊地蔵」だったのだ。像の下の台は新しいが、本来の台の正面に紀年銘があり、元禄16年(1703)造立の古い石仏らしい。後で見ていただくが、今は無縁塔の主尊として観音様が立っている。長いお務めを終えて今こちらに休んでいらっしゃるのかもしれない。
山門の先、左手に立派な本堂が見えてくる。その左手前にずんぐりとした宝篋印塔が立っていた。
宝篋印塔 正徳5(1715)隅飾型の笠を持ち、相輪はシンプルな基本形。塔身部四面には梵字が刻まれている。
基壇に願文。左側面最後に造立年月日。さらに講中と刻む。裏面に東武豊嶋郡 下練馬湿化味邑。さらに不動院醫王山荘厳寺現寓 祐嚴末弟
周嚴と刻まれていた。
本堂から東門へ向かう途中の南側に無縁仏が集められていた。舟形光背型の聖観音、如意輪観音が多く、中に石地蔵もいくつか見られる。石仏が三角形に積み上げられた頂点には聖観音立像が祀られていた。
最前列中央付近に馬頭観音菩薩立像 宝永4(1706)江戸時代初期独特の上部が前に反った舟形光背に馬口印を結ぶ二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。右脇 梵字「サ」の下に「為・・・・信士 菩提也」と個人の戒名が刻まれる。個人の墓石として聖観音菩薩、如意輪観音菩薩、地蔵菩薩、阿弥陀如来などを多く見るが、馬頭観音菩薩というのは非常に珍しい。
丸顔でふくよかなお顔をした馬頭観音菩薩の頭上、両足で観音様の頭を挟むようにして身を乗り出す馬。その蹄の先まで確認できるほど明確な見事な彫りで、この点からもユニークな馬頭観音像と言えるだろう。
東門を出ると信号交差点の向かい側に墓地があった。入口左の石塔を見るとこちらも荘厳寺墓地らしい。入口右に六地蔵が見える。
六地蔵菩薩立像 明和6(1769)丸彫りで六態揃うが、像の大きさ、蓮台、敷茄子の様子からみて、一部は後から建て加えたものかもしれない。
右から3番目、合掌する地蔵像の台の正面、中央に梵字で地蔵菩薩の真言「オンカカカビイサンマエイソワカ」右脇「地蔵菩薩□大慈悲」左脇に「若聞名号不堕黒闇」右側面中央に造立年月日。右脇に念佛講中敬白。左脇に願主、世話役それぞれ一名の名前が刻まれていた。
光傳寺 練馬区氷川台3-24-4
荘厳寺の東門のある信号交差点から南へ坂道を下り、二つ目の交差点を右折、250mほど先の交差点の角に光傳寺の入口がある。正面に山門が立ち、本堂までまっすぐに参道が続く。
山門をくぐり境内に入ってすぐ右手、鐘楼の向こうの塀の前に五基の石塔が立っていた。
右から庚申塔 宝永5(1708)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
日月の中に梵字「ア」と「ウン」を刻まれていた。これは初めて見る。口をへの字にして合掌する青面金剛。頭上は蛇だろうか?よく見ると第3手、本来あるはずの弓矢が見当たらない。手じたいが途中から切れているようで、これはどうしたのだろう。
足元に顔だけの?邪鬼。その下の三猿も顔がのっぺらぼうで、このあたりは風化のせいだろうか?
塔の右側面「奉造立庚申青面金剛二世安樂所」右下に下練馬村とあり、その下に10人ほどの名前が刻まれている。
左側面に造立年月日。左下に法印慧龍代。こちらもその下に9名の名前があり、合わせて20名ほどの講だろう。
その隣 六十六部供養塔 寛保元年(1741)真四角の台の上 角柱型の石塔の正面に「日本廻國六十六部供養塔」右下に武州豊嶋郡下練馬村。左下に願主一名の名前。塔の右側面阿弥陀三尊種子の下「南無阿弥陀佛」両脇に天下泰平 國土安全。
左側面中央に「為二親菩提」両脇に造立年月日が刻まれている。
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続いて丸彫りの地蔵菩薩立像。ちょっと頭を傾け優しい慈愛に満ちた笑みを浮かべている。残念ながら本来の台を欠き、紀年銘などが確認できないが、練馬区教育委員会発行の「練馬の石仏」(昭和57年刊)に写真が載っていて、縦長の台の正面に三つの戒名、右側面に正徳2年(1712)の紀年銘、左側面に前湿化味村 宇佐美氏の名前、続いて法印恵龍代と刻まれているらしい。
その隣 聖観音菩薩立像 宝暦4(1754)舟形光背、梵字「サ」の下に蓮華を持ち与願印の聖観音菩薩里立像を浮き彫り。
光背右脇「奉造立觀世音菩薩」左脇に造立年月日が刻まれていた。
左端 地蔵菩薩立像 寛文10(1670)鋭角的な舟形の光背、梵字「イ」の下に端正な顔立ちの地蔵菩薩立像を浮き彫り。
彫りは細かく衲衣の襞まで丁寧に表現される。光背右脇「為権大僧都盛□法印菩提也」左脇には造立年月日。その下に甲州□□□村之住僧頼音房 敬白と刻まれていた。
参道左側に十一面観音堂がたっている。その手前の小堂の中に石地蔵が祀られていた。
地蔵菩薩立像 寛政8(1796)舟形光背に錫杖・宝珠を持った地蔵菩薩立像を浮き彫り。全体に風化が進み、特に顔はつぶれていてのっぺらぼう。近くに解説板が立っていて、「子育地蔵尊」だということだった。光背右上に「光明真言」右脇に下練馬村湿化味講中拾六人。左脇に造立年月日が刻まれている。
堂の中、十一面観音菩薩立像。丸彫りの大きな石仏だが、光線の具合が悪くしっかりした写真は撮れなかった。紀年銘なども見ることはできず残念ながら詳細は不明である。
本堂の左奥にある広い墓地の入口左脇に三基の石塔が並んでいた。近くに立つ解説板によるとこの三基の石塔は氷川台4-46に安置されていたもので、地域の開発が進んだために講中の人たちが相談して、平成5年にこちらに移転してきたものだという。
左 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)丸彫りの延命地蔵。丸顔で錫杖と宝珠を手に悠然と立つ姿はまさしく「お地蔵様」という感じがする。
下の台の正面 梵字「カ」の下に「奉造立地蔵尊」右脇に造立年月日。左脇に二世安樂所。右側面に武州豊嶋郡下練馬村。左側面に施主
講中十四人と刻まれていた。昭和57年刊行「練馬の石仏」ではこのお地蔵様は「川流し供養地蔵」として紹介されている。どうにも手に負えない無法者を、村の人たちが簀巻きにして川に流してしまったらしい。その後、供養のためにこのお地蔵様を造立したという。施主の14人は無法者を川流しにした村の人々ということになるのだろう。
中央 庚申塔 宝永2(1705)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。像の両脇に造立年月日。
足の両脇に二鶏を線刻。足元の邪鬼はおとなしく覇気がない。その下に正面向きの三猿。三猿の下の部分に十数人の名前が刻まれていた。
右 大乗妙典供養塔 宝暦6(1756)角柱型の石塔の正面阿弥陀三尊種子の下「大乗妙典供養塔」両脇に天下泰平 國土安全。塔の左側面に造立年月日。その下に個人名。右側面には「日本回國為二世安樂」その左に戒名が刻まれている。
墓地の入り口右脇には屋根型の笠を持つ宝篋印塔 享保14(1729)が立っていた。右奥に小さな石仏が見える。
塔身部四面に蓮台に座る四仏の像を彫る。梵字であらわすものが多いが、ゆったりと座る阿弥陀如来をはじめとする四仏のお姿には心安らぐものがある。基礎部四面には願文が刻まれていた。
反花の付いた台、正面には武州豊嶋郡 下練馬村 大明山 無料院 光傳寺 第六世 権大僧都 以下四名の僧の名前が刻まれている。左側面には講中とあり、続けて願主一名、施主として7名の名前が刻まれていた。
裏面にさらに施主4名の名前、左端に造立年月日。右側面には9名の戒名が刻まれる。
右奥に異形の不動明王坐像 天明5(1785)口角が上がり目を吊り上げた不動明王。右手に剣、左手に羂索。像の胸のあたり、一部は剥げ落ち、光背も火焔模様が剥落の為あいまいではっきりしない。
背中のほうに回ると上部がセメントで補修されているのがわかる。背中右側に造立年月日。続いて湿化味 講中拾四人と刻まれていた。
墓地に入ってすぐ右手に地蔵菩薩立像 寛政8(1796)ゆるやかな舟形の光背は寛政期にしては余裕があり、像の彫りも丁寧で美しい。
頭上には「光明真言」光背右脇 武州豊嶋郡下練馬村三軒在家。その下に願主。光背左脇「講中為二世安樂也」その下に造立年月日。続いて講中拾一人と刻まれていた。
墓地に入ってすぐ左側には多くの無縁仏が並んでいた。前二列は舟形光背型の古いものが多く、中ほどに五輪塔など、その後ろが角柱型の石塔が集められているようだ。江戸時代初期のものだけでも見ておきたい。
前列 左端 聖観音菩薩立像 明暦3(1657)銘が確認できるものの中では最も古い石仏。左手に未敷蓮華をもち、右手をそっと添えている。大きく立派な舟形光背、像も重厚で存在感がある。
前列右端 阿弥陀如来坐像 延宝8(1680)カビが多いのは残念だがバランスの良い坐像。
2列目右端 金剛界大日如来立像 寛文10(1670)光背上部を欠く。智拳印を結ぶ右手首の先も欠けていた。
二列目右から2番目 阿弥陀如来立像 延宝2(1674)来迎印と思われる。光背上部に「キリーク」
3番目 一石双体仏 天文4(1535)?白カビが多すぎて銘は確認できないが、資料を信じればこれはとびぬけて古い石仏ということになる。
前から四列目の右から3番目 一石三体地蔵菩薩塔。梵字「カ」の下に真ん丸童顔の三地蔵、小首をかしげた姿がかわいい。同じような石塔が無縁塔最後列中央あたりにあり、合わせて二石六地蔵となるものと思われる。