増林の石仏

 
前波水神宮 越谷市増林6793南


県道19号線 定使野橋の400mほど北の新方橋(南)交差点を右折すると県道102号線に入り、増林から増森、中島方面に向かうことになる。この新方橋(南)交差点の西に水神宮があった。このあたりの字名をとって前波水神宮と呼ぶらしい。鳥居左に三基の石塔が並び、右の祠の脇にも石塔が立っている。


鳥居左手前の三基のうち 左 普門品供養塔 文化12(1815)角柱型の石塔の正面中央「普門品供養講中」両脇に造立年月日。


塔の左側面 ミなみ こしがや 江戸、きた のだ さしま みち。その下に願主、世話人各一名の名前が刻まれていた。


右側面 ひがし こやすくわんをんミち。子安観音=林泉寺の案内になっている。三方向の地名を示し、このT字路に立つ道標としてふさわしい。


その奥 敷石供養塔 嘉永6(1853)石塔の表面は風化のためかデコボコになっていて一部は読めなかった。正面「敷石寄□」両脇に造立年月日。下部には4名の名前か。


塔の右側面にはセハ人とあり3名の名前。左側面に前波組氏子中。その脇に小さく粕カベ新町の石工名が刻まれている。


右 成田山供養塔 慶応3(1867)これも表面がデコボコで一部文字が読みにくい。角柱型の石塔の正面左に大きな文字で「成田山」右に小さな字で増林□張 是・・二丁(?)下部に世話人三名の名前。塔の右側面は木が邪魔していて見えないが資料によると左 こしがや二十丁 右 のだ二里と刻まれているという。左側面には造立年月日が刻まれていた。


鳥居の先、拝殿の右脇には二基の石祠とともに大きな石塔が立っている。


普門品供養塔 嘉永元年(1848)自然石の表面に「普門品供養」


台の正面と右側面にそれぞれ9名の名前。左側面には世話人とあり4名の名前が刻まれていた。


裏面中央に造立年月日。さらにその脇には増林邑前波組講中と刻まれている。

 

清涼院墓地 越谷市増林1286付近


県道102号線、新方橋(南)交差点の東100mほど先の右側、細い道に入り南に進むとやがて用水の流れる近くの十字路にでるが、その少し手前、左側の路地の奥に墓地があった。昔は清涼院というお寺があったようだが今は周りには住宅が立ち墓地だけが残っている。


敷地の西側、塀の前に多くの石塔が並んでいた。手前は比較的大きな石塔が多く、奥のほうには個人の小さな墓石が続く。


左手前 丸彫りの地蔵菩薩坐像。風化が進み白カビも多い。像にも台にも銘は見えず詳細はわからない。


その後、石灯籠供養塔 享保7(1722)角柱型の石塔は上部に丸い突起があり、笠付きだったようだ。正面中央「奉納石燈籠念佛」念仏供養塔でもあるのだろうか?上部両脇に造立年月日。下部両脇に増林村 講中。両側面には銘は見当たらない。


自然石の石塔を挟んでその奥に十三仏供養塔 明和7(1770)紀年銘は塔の右側面に刻まれていた。


笠付き角柱型の石塔の正面、虚空蔵菩薩を上部中央に全部で13の如来、菩薩が浮き彫りされている。


台は二段。上の台の中央に江天旭潭とあり、両脇に天明7(1787)の紀年銘。塔の右側面の紀年銘は二月吉日となっていて造立日と思われるが、それよりも17年あとのこの紀年銘は何を表すのだろう?うまく判断できない。下の台には講中とあり、男女20人ほどの名前が刻まれていた。


その奥には三基の個人の墓石が並び、その先 三界万霊塔 寛延4(1751)駒型の石塔の正面上部、蓮華台の上に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。その下に「三界萬霊等」


塔の右側面「拾九夜念佛供養塔」下部右脇に講中三十人、左脇に願主は個人名。十九夜塔の主尊は如意輪観音が多く、そのほとんどは女人講、念仏講であったらしい。


塔の左側面 武州崎玉郡新方領増林村、その下に下全波とあるが今の前波だろう。左脇に造立年月日が刻まれていた。


その隣 順礼供養塔 文化7(1810)角柱型の石塔の正面上部に月山・湯殿山・羽黒山、坂東・西國・秩父。その下に「奉順禮百番供養塔」両脇に天下泰平・國土安穏。


塔の両脇上部に造立年月日。右側面下部 増林村とあり、世話人含めて二十数名の名前。


左側面下部には大吉村世話人とあり5人の名前、他に大沢下宿、向畑村、松伏村、赤岩村、藤塚村、中井村、川崎村などから十数人の名前が刻まれていた。広い地域の多くの人たちがこの塔の建立にかかわったことがわかる。


入口の右側の大きな雨除けの下に八体の石地蔵が集められていた。


中央左 地蔵菩薩立像 寛文元年(1661)きれいな舟形の光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。風化もなく美しく気品のある立ち姿。光背右脇「奉造立石地蔵一躰念佛講衆為二世・・・」左脇に造立年月日。下部両脇に同行拾四人敬白と刻まれている。


その右 地蔵菩薩立像 安永4(1775)真ん丸なお顔をした丸彫りの立像だが、錫杖、宝珠など欠けずにきれいに残っている。台の正面「南無□□地蔵大菩薩」


台の左側面に造立年月日。続いて施主は個人名が刻まれていた。


その右に並ぶ三体の石地蔵は左の三体とともに六地蔵菩薩と思われる。一見像の高さが不ぞろいのように見えるが、蓮台とその上のセメントの厚さがかなり違うためで、像のサイズ、様子などは似通った印象を受ける。


こちらの台には童子、童女、などの戒名が多く見える。真ん中の台の正面に女中六人、十月吉日とあるのはどういうつながりだろう。


左の三体。真ん中がやけに大きく見えるが、やはり足元のセメントが厚いようだ。


蓮台の下の丸い敷茄子の部分の大きさ、文様などは六基とも全く同じで、その下の台の銘の文字なども同一と思われる。童子、童女など多くの戒名が見えるが、手前の台の正面には「奉造立六地蔵」続いて念佛同行六十五人、さらに清涼院主海□□、最後に享保5(1720)の紀年銘が刻まれていた。

増林用水そば十字路角 越谷市増林591


清涼院墓地からさらに南に進むと用水路沿いの道との十字路交差点に出る。この十字路の東南の角の住宅の前に二基の石塔が立っていた。


雨除けの下 左 庚申塔元禄17(1704)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


日月を包み込むような発達した瑞雲。青面金剛の頭上は蛇だろうか。顔面は損傷がひどい。


足の両脇に立派な二鶏。足元の邪鬼は顔をしかめて這いつくばり、その下の三猿は両脇が内側を向いて座る。彫りは丁寧でしっかりした印象を受ける。台の正面には漢字で11名、ひらがなで3名の名前。


塔の左側面に造立年月日。その下にひらがな三文字で6名の名前。右側面には「奉供養庚申講諸願成就」その下にこちらも「おふく」「おふし」など6名の名前が刻まれていた。


右 庚申塔 嘉永7(1854)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」塔の左側面 右 のだミち、右側面には 左 ふどう道。この地域で「ふどう」は大相模不動・大聖寺のことだろう。


塔の裏面中央に造立年月日が薄く刻まれていた。

 

国道102号線南個人墓地 越谷市増林3500東


県道102号線新方橋(南)交差点から東に進むと道は一度大きく左にカーブする。カーブのところ、道路右側に個人の墓地があった。写真ガードレールにカーブありのサインがあり、電信柱にはミラーが備え付けられている。


入口から四、五番目の東向きに立つ石塔は大乗妙典供養塔 享保5(1720)背の高い駒型の石塔の正面、浮き彫りにされた仏像の下に「大乗妙典六十六部日本廻國成就之所」下部両脇に敬白 謹言。


上部に浮き彫りされているのは阿弥陀如来坐像と思われる。小さいが彫りは細かく味わいがある。


塔の右側面に造立年月日。下部右に願主 圓心。左に施主個人名。塔の左側面に造塔の由来が刻まれていて内容が興味深い。いわゆる六部僧の圓心が全国六十六か所法華経奉納を発願し、増林村の有力者の援助を得て、享保5年3月から10月にかけて全国行脚、多くの人の助けもあって無事帰郷した記念に造立した石塔だという。

県道102号線北路傍 越谷市増林3557付近


県道102号線をさらに東に進むと、道路左の三差路に三基の石塔が並んでいた。


左 庚申塔 文化3(1806)塔の上部は欠けていて日月は確認できない。正面中央、文字の痕は剥げ落ちているが「庚申」だろう。


塔の右側面に造立年月日。左側面には女人講中と刻まれていた。


中央 庚申塔。紀年銘が見当たらず詳細は不明。駒型?の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の衣装の裾が大きく跳ね上がっている。


邪鬼はあおむけに顔面と腹部を踏まれ、これは相当に苦し気だった。その下には三猿が彫られている。


右 庚申塔 文政13(1830)角柱型の石塔の正面を楕円形に彫りくぼめた中に「庚申」

塔の最下部に三猿。台の正面に「笹原組」塔の両側面に造立年月日が刻まれていた。

 

増林駐在所西T字路角 越谷市増林3763


県道102号線をさらに東に進むと左手に増林派出所がある。そのすぐ手前のT字路の左側の角の所に石塔が立っていた。


庚申塔 天保7(1836)駒型の石塔の正面中央を彫りくぼめた中「庚申」


塔の下部に三猿。台の正面に16名の名前が刻まれている。


塔の右側面は無銘。左側面には造立年月日が刻まれていた。

護郷神社東路傍 越谷市増林3711


上の庚申塔がある場所から少し西に戻るとやはりT字路になっているが、ここを曲がって細い道を南に向かう。少し行くと左手に石塔が立っていた。ここも隣に祠がある。


庚申塔 天保7(1836)駒型の石塔の正面中央を彫りくぼめた中「庚申塔」


塔の下部に三猿。台の正面に16名の名前。名前が違っているだけで、どうみても上の庚申塔とそっくりだ。


右側面は無銘。左側面に造立年月日。紀年銘まで同じ。この二基の庚申塔は仲のいい隣組が一緒に同じ石工に仕事を依頼したものだろうか。

護郷神社 越谷市増林3199


さらに進んでゆくと道は緩やかに右にカーブして西に向かうようになる。200mほど先、右手に護郷神社があった。鳥居の手前、右の庭の中に大きな石塔が立ち、さらに道路際に二基の石塔が並んでいる。


庭木の中 法華経供養塔 寛文元年(1661)笠付きの背の高い角柱型の石塔の正面「奉造立法華千部供養石塔一基」両脇に造立年月日。これだけの立派な石塔だが講中などの文字は見当たらず、台にも銘はなかった。塔の左側面に施主 個人名。右側面に個人の戒名があり為菩提也とあるからやはり個人のものかもしれない。


道路脇に並ぶ二基の石塔はいずれも庚申塔の文字塔だった。


右 庚申塔 文政7(1824)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」左側面は無銘。右側面に造立年月日が刻まれている。


左 庚申塔 貞享2(1685)上部の三角形が急な形の板碑型の石塔の正面「奉造立庚申青面金剛」左脇に造立年月日。


下部に三猿を彫り両脇に施主敬白。さらにその下の部分に9名の名前が刻まれていた。

 

福寿院跡墓地 越谷市増林1138隣


前回見た護郷神社の鳥居の付近から左に小道を入ると住宅がいくつかあり、その先は行き止まりになっている。住宅と住宅の間に荒れ果てた墓地があった。入り口近く、小道に面して四基の石塔が並んでいる。


左から二番目 普門品供養塔 享和2(1802)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下「奉讀誦普門品拾巻供養塔」両脇に天下泰平・五穀豊穣。他の三基は墓地のほうを向いて立っているが、この石塔だけは路地のほうに向かって立っていた。


塔の右側面上部に造立年月日。その下に當所上組 講中 二拾五人。


左側面上部には新四國八拾五番とあり、正觀世音・子大権現。下部に當院、さらに願主4名の名前が刻まれている。


奥に入ると左側に歴代の住職の墓石が並んでいた。この右側の一帯は雑草が生えていたり畑になっていて、一般の個人の墓地は残っていない。


左端に大きな基壇を持つ立派な石塔 安永4(1775)。角柱型の石塔の正面 梵字「ア」の下、権僧正 快運。僧都はよく見るが僧正というのはまれで、高僧の墓石らしく二段になった台の正面に凝った獅子を彫る。台の左側面に發願主とあり3名の名前、并講中と刻まれていた。


列の右端の二基の像塔も住職の墓石。左 聖観音菩薩立像は元禄10(1697)の造立、右の地蔵菩薩立像は文字が薄くはっきりしないが舟形の光背の形、像の様子からやはり江戸時代初期のものと思われる。



その奥、左側に五基の石塔が並んでいた。


中央 弘法大師坐像 安永8(1779)右手に三鈷杵、左手に念珠を持つ。


背面に「奉造立弘法大師為令法・・・・・・」最後に造立年月日が刻まれていた。


その隣 不動明王立像 安永7(1778)火炎光背に剣と羂索を持つ不動明王立像を浮き彫り。


背面 梵字「カーン」の下、右に造立年月日。続いて富井山現住法印快秀造立之者也。隣の弘法大師像と同じ名前が刻まれている。

墓地の一番奥 宝篋印塔 安永6(1777)相輪を欠く。バックの家を見るとすぐわかるが実際は相当傾いて立っている。手前には下部を欠いた板碑が倒れたままになっていた。

 

林泉寺東路傍 越谷市増林3894


県道102号線、林泉寺から100mほど東、道路左側の角のところに石塔が立っていた。


庚申塔 天保3(1832)角柱型の石塔の正面上部左右に小さな文字で「日月清明」その下に大きく「庚申」これは見たことがない構図。塔の両側面に渡って造立年月日。


塔の正面下部にかわいらしい三猿を彫る。台の正面には右端に中妻組講中とあり続いて10名の名前。左端に世話人の名前が刻まれている。

ふれあい橋東路傍 越谷市増林4215東南


県道102号線のふれあい橋交差点を越えて東へ100mほど進むと、左側路傍、電信柱の陰に小さな石塔が立っていた。


巡礼供養塔 寛政5(1793)駒型の石塔の正面 阿弥陀三尊の種子の下「奉納 秩父西國坂東為二世安樂也」上部両脇に造立年月日。下部には4名の名前が刻まれている。

宝蔵院跡墓地 越谷市増林4330裏


さらに東100mほど先を左折して砂利道の細い道に入ってゆくと奥に下組集会所がある。その路地の左側に墓地があり、路地沿いに四基の石塔が並んでいた。遠目にもこの四基はいずれもかなり白カビが多い。墓地の中には江戸時代初期に見られる古い形式の比較的小型の宝篋印塔なども多く立っていて興味深いものがあるが、個人のお墓の中なのでゆっくり見ることはできなかった。


左から 地蔵菩薩立像 正徳2(1712)舟形の光背は右上が大きく欠けている。中央に地蔵菩薩立像を浮き彫り。立像自体はバランスの取れた立ち姿。


顔のあたりはつぶれているのか、白カビが厚く付着しているため、その様子はうかがえない。光背も文字の判読は難しく、光背右脇にかすかに正徳二、続く数文字は読み取れず、その下に施主と刻まれている。左脇のほうはほとんど読み取れなかったが、左下は「講中」のように見える。


2番目 庚申塔 寛政2(1790)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


足の両脇に二鶏。足元では背を踏まれた邪鬼が頭を起こし正面をうかがう。その下に三猿と揃っているが全体に風化が進みはっきりとしない。


塔の両側面に造立年月日。どちらもその下部に5名の名前、合わせて施主は10名となる。


3番目 庚申塔 享保元年(1716)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


白カビがひときわ多く、銘はとても読みにくい。右脇、青面金剛の左手の弓の下あたりに造立年月日。左脇は矢の羽の下あたりから「奉造立庚申□□成就□所」さらにその下に念佛同行四十八人敬白と刻まれていた。正面向きの三猿の下の部分にも文字らしいものが見えるが施主名だろうか。


右端 庚申塔 文化8(1811)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申」


台の正面 でこぼこしてるだけかと思ったらどうやら三猿らしい。中央は顔を傾け左耳に手を当てる聞か猿。下半身は土に埋まっている。両端の二猿はどうもはっきりしない。


塔の両側面に造立年月日。いずれも下部に世話人も含めて十数名の名前が刻まれていた。

 

城之上稲荷神社 越谷市増林6006付近


新方川に架かる城之上橋を北のほうから越えてすぐ、道路左側にある細い道に入ると、その先に稲荷神社の赤い鳥居が立っていた。鳥居の先左側に境内社が見える。


境内社の左脇に二基の石塔が並んでいた。


左 庚申塔 寛政12(1800)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」


台は二段で、上の段の中央に横を向き右足を投げ出す聞か猿、下の段に向かい合って座る見猿と言わ猿。その両脇に講中と刻まれている。こういった構図はこれまで類例がなくとても興味深い。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州崎玉郡増林村 城之上組と刻まれていた。


右 馬頭観音塔。駒型の石塔の正面 梵字「カン」の下「馬頭觀世音」


塔の左側面 こしかや、右側面にふ動道。どの面にも紀年銘が見当たらず造立年月日などはわからない。

千代田橋西土手下 越谷市増林5298


千代田橋の西詰、新方川右岸の土手下の民家の敷地内に三基の石塔が並ぶ小堂が立っていた。


右 水神宮 文化3(1806)駒型の石塔の正面中央「水神宮」右脇に造立年月日、左脇に 向 ふどふミち。


塔の右側面 橋向 左 ばばわたし道。左側面には 松ぶし道、さらに願主とあり3名の名前が刻まれている。


中央は不明塔。近づいてみても全く銘が見えない。ここに祀られるからにはそれなりのものだとは思うのだが・・・


左 馬頭観音塔 天保13(1842)角柱型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。左側面には増林二子曽根とあり、施主は個人名は刻まれていた。