岩槻区尾ヶ崎新田

正福寺墓地 岩槻区尾ヶ崎新田192付近


埼玉スタジアムの真東、綾瀬川を越えた先に区画整理に伴って新しく再建された稲荷神社があり、その裏は正福寺の墓地になっていた。アプローチとしては埼玉スタジアムの東の地点から大きな通りを美園方面に進み最初の信号交差点を左折、綾瀬川を渡ってすぐ左手にある商店の脇を左に入ると写真の地点に着く。


正福寺の墓地の入口は鍵がかかって入れない。フェンス越しにのぞいてみると墓地の一角に三基の庚申塔が立っていた。前に二基の文字塔と後ろに像塔、三基は三角形に並んでいて、残念ながら後ろの像塔の下部はほとんど見えない。


左前 庚申塔 元禄2(1689)角柱型の石塔。上部の飾りが変わっていて、あるいは笠付だったのかもしれない。彫りは薄くなっていて白カビもそれなりに多い。


正面中央「奉造立石燈籠一基庚申供養為二世安樂也」両脇に造立年月日。


下部両脇に結衆敬白とあり、その下に比較的大きな三猿。塔の両側面にはそれぞれ十名ほどの名前が刻まれていた。


右前 庚申塔 寛文10(1670)やはり角柱型で上部に笠が乗っていた痕跡が見られる。この二基の文字塔は造立年も近く、サイズ、形、銘など共通点が多い。同じ講中、施主によって建立されたものではないだろうか。


塔の正面中央「奉造立石燈籠一基庚申供養為二世安樂処」両脇に造立年月日。


下部両脇に「敬白」その下にやはり三猿を彫るが、こちらはやや丸みがありサイズも小さい。塔の両側面にはそれぞれ数名の名前が刻まれている。


後 庚申塔。大きな舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。二基の文字塔の間から邪鬼と三猿がかすかに見える。


光背上部に梵字「ウン」光背右脇「奉造立庚申供養二世安樂」左脇は紀年銘のはじめが欠けているが丙戌年とあり、宝永3(1706)か明和3(1766)だろう。資料によると光背下部に男女結衆、女子七人。尾ヶ崎新田、施主三十人と刻まれているということだが、今回は確認することはできなかった。

地蔵堂 岩槻区尾ヶ崎新田192付近


稲荷神社の西の一角にお堂が立っていて、中をのぞくとお地蔵さまが祀られている。その脇に石塔が立っていた。(写真で後ろに見えているのは正福寺の墓地)


馬頭観音立像 宝暦13(1763)慈悲相六臂。光背の一部が欠けているが彫りは細かく馬の頭もくっきりと、馬口印を結び静かに佇む観音様は美しい。光背下部両脇に造立年月日。足の下の部分に施主 尾ヶ崎新田 村中と刻まれていた。

正福寺北路傍 岩槻区尾ヶ崎新田89の北


笹久保新田を綾瀬川沿いに美園方面に向かう道の途中、道路左側に笹久保新田集会所(地蔵堂)がある。さらに美園駅方面に500mほど進み尾ヶ崎新田に入ってすぐ、道路右側の路傍、電信柱の脇に石塔が立っていた。


道標 慶応元年(1865)正面上部に紋章を彫りその下に「成田山」その下は草に隠れているのだが江十八里、つまり成田山へ十八里となる。


塔の左側面 東 こしがやへ壱り半、南 はとがやへ二り半。その奥には造立年月日。


右側面 西 おおみやへ三り、北 いわつきへ壱り半。左下に尾ヶ崎新田と刻まれていた。