恩間の石仏

勢至堂 越谷市恩間730の北


東武線せんげん台駅の南西600mほど、大袋北小学校の西100mほどの細い道路の角の所に墓地があった。西側にある入り口から境内を見ると、ブロック塀の向こう、入口近くの両脇に石塔が立っている。


入口左 庚申塔 宝暦5(1755)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。第二手左手にショケラを持つ「岩槻型」


足の両脇にはっきりとした二鶏。邪鬼はM字型に腕を張るが「岩槻型」の邪鬼のように正面向きではなく頭を左にして寝そべる。三猿も両脇が内を向く構図。台の正面には恩間村講中とあり、9人の名前が刻まれていた。


入口右 地蔵菩薩立像 享保8(1723)丸彫りの石地蔵、穏やかな様子をしている。


六角形の台の正面 右に造立年月日。続いて法師名が刻まれていて、こちらは僧侶の墓石らしい。


入口から真正面に、中央の卵塔を挟むように数基の石塔が並んでいた。


左から 庚申塔 寛政5(1793)大きな駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


斜に構えた青面金剛の衣装の裾は左右ともに跳ね上がっている。足元には狛犬のような邪鬼が口をへの字にしてにらむ。その下に二鶏。さらにその下に三猿。左の猿は扇子を振り上げ、中央の猿は御幣を肩に担ぎ、右の猿は両手で調子をとりながら、いずれも片足立ちになって踊っていた。ここまで陽気な三猿も珍しい。


塔の右側面「奉建立庚申供養」左側面に造立年月日。その脇に武州埼玉郡岩槻領恩間邑。台の正面には講中とあり、6人の名前が刻まれていた。


その隣 不動明王坐像 明和3(1766)炎の光背に剣・索を持った不動明王を浮き彫り。下の台の正面に新坂 学善法子。脇に造立年月日が刻まれている。


卵塔を挟んでその右 聖徳太子立像 文政6(1823)笠付きの角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中に聖徳太子孝養像を浮き彫り。柄香炉を手に父である用明天皇の病気平癒を祈る太子の16歳の時の姿だという。塔の右側面に造立年月日。左側面に岩槻領恩間村。台の正面には講中とあり、17人の名前が刻まれていた。


右端 聖観音立像 文化5(1808)下の台の正面には岩槻領恩間村講中とあり、14人の名前が刻まれている。


頭の周りに円形の頭光背。左手に蓮を持った聖観音菩薩は白カビの中にも気品がある。右脇に「奉讀誦普門品供養」左脇に造立年月日が刻まれていた。


墓地の外、南側の路傍、ブロック塀の前に三基の石塔が並んでいる。左側の地蔵菩薩立像は個人の墓石だった。


中央 馬頭観音坐像 寛政9(1797)駒型の石塔の正面に馬口印を結ぶ六臂の馬頭観世音菩薩坐像を浮き彫り。台の正面中央に「大悲馬頭觀世音」右脇に造立年月日。続いて岩附領恩間村。左脇に願主 世話人3名の名前が刻まれている。


右 馬頭観音塔 天保4(1833)駒型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇に個人名が刻まれていた。

 

薬師堂墓地 越谷市恩間598の南


資料の地図を見てこのあたりと見当をつけて探しまわったが、なかなか見つからずほぼあきらめかけていた。何度目のチャレンジになるだろうか、先日やっとここを探し当てることができた。埼玉県立大学あたりから須賀用水沿いに大袋駅方面に向かう道路から、北へ少し入ったところにあるのだが、その道はごく細い上に砂利道で、個人の住宅へのアプローチとしか思われなかった。墓地の場所は恩間香取神社から南西100mほどの位置になる。その南側の入り口に数基の石塔が並んでいた。


右から 庚申塔文化4(1807)小ぶりな角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」


塔の右側面に造立年月日。左側面に岩槻領恩間邑と刻まれている。


その隣に大きな角柱型の石塔が倒れたままになっていた。上部には笠があった跡があり、笠は隣の石塔の前に逆さに置かれていた。資料によると庚申塔 享保15(1730)正面に「大青面金剛」と刻まれているとのことだが、この状態では見ることはできない。塔の両側面に造立年月日。右側面にはさらに4人の名前があり、岩槻領西蔵院現住 觀超。左側面には恩間村とあり、5名の名前が刻まれていた。


その隣 庚申塔 嘉永元年(1848)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の台は二段になっている。その手前に見えているのは先ほどの文字庚申塔の笠である。


像の部分に白カビが多いが、彫りは細かく力強い。青面金剛の衣装の裾は左右ともに跳ね上がっていた。


青面金剛の足元に大型のユニークな邪鬼。上の台には烏帽子をかぶりハッピを着た三猿。左の言わ猿は左手に桃果を持ち、中央の聞か猿は小首をかしげ、右の見猿は右肩に御幣を担いで座る。下の台には細密なタッチで二鶏が彫られていた。


塔の左側面に造立年月日。続けて岩槻領恩間村。右側面には「天下泰平・國土安全」正面に二鶏の彫られた台の右側面には世話人とあり8人の名前、左側面には十名ほどの名前が刻まれている。



続いて 庚申塔 寛政10(1798)角柱型の石塔の正面 梵字「ウン」の下「大青面金剛」その下に両脇が内向きの三猿。


塔の両側面に渡って造立年月日。右側面には岩槻領願主とあり6名の名前。左側面には恩間村とあり7名の名前が刻まれていた。


その隣 庚申塔 文政4(1821)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」下の台はかなり深く埋まっているようで三猿はその一部だけが見えている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には岩槻領恩間村講中と刻まれていた。


左端 庚申塔 文化15(1818)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」これも深く埋まっていて、台の正面に丸く見えているのは三猿の頭だろうか。


塔の右側面に造立年月日。左側面には岩槻領 恩間村講中。


墓地に入ってすぐ、左側に無縁仏が集められている。その中央付近 地蔵菩薩立像 元文4(1739)丸彫りの石地蔵は顔がのっぺらぼうで、頭部だけあとから補われたものかもしれない。


台の正面「奉供養大乗妙典六十六部日本回國地蔵尊像」右側面に造立年月日。左側面に武蔵國崎玉郡恩間村と刻まれている。


資料に載っていた二つの六面石幢は、墓地の一番奥の個人の墓地の中、正面の大きな石塔の左右両脇に立っていた。


左 六観音石幢 明和4(1767)笠付きの六面石幢に美しい六観音菩薩の坐像を浮き彫り。蓮台の正面に造立年月日。台の正面に施主個人名が刻まれる。


正面から左回りに見てゆこう。正面は梵字「キリーク」の下に千手観世音。その左 梵字「カン」の下に三面六臂の馬頭観世音。


続いて梵字「キャ」の下に十一面観世音。その隣 梵字「サ」の下の聖観世音。


最後の二面、右 白カビの中 梵字「キリーク」の下に如意輪観世音。左 梵字「サ」の下に准胝観世音。


右 六地蔵石幢 延享元年(1744)凝った形の笠を持つ六面石幢のそれぞれの面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。こちらも比較的保存状態がいい。


蓮台の正面に施主は個人名。裏面に造立年月日が刻まれていた

 

恩間香取神社 越谷市恩間772


勢至堂から須賀用水沿いの道に向かう道路の途中、右手の奥に恩間香取神社の鳥居が見える。参道左側に角柱型の石塔が立っていた。


猿田彦大神塔 天保10(1839)正面 日月雲「猿田毘古大神」台は二段になっている。


上の台の正面に三猿。中央の聞か猿がやや大きく、左足を行儀悪く投げ出して座る。右の見猿は正面向き、左の言わ猿は右手をつき右足を伸ばして斜めに座っている。下の台の正面には十数人の名前が刻まれていた。

恩間地蔵堂墓地 越谷市恩間86の西隣


市立大袋保育所の西から南へ150mほどの交差点を左折すると、左手に墓地がある。正面、民家のような建物が地蔵堂。


境内に入って右側、墓地の前に六基の石塔が並んでいた。


右から 庚申塔 寛延4(1751)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


頂上が扁平な髪形、直角に折れ曲がった腕の付き方は「川口型」白カビの中、青面金剛は口をへの字に結んで立つ。


足の両脇に二鶏。邪鬼は正面向きM字に腕を張る「岩槻型」三猿は左右の猿が内を向き足を延ばして座る形で、これは「川口型」によくみられる。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉造立庚申供養」講中 敬白と刻まれていた。


続いて不動明王立像 元禄12(1699)越谷市を回ってみるといろいろなところで江戸時代後期以降建立の不動三尊像をよく目にしたが、こちらは江戸時代初期、だいぶ趣が違う。舟形の光背、梵字「カーン」の下、県と羂索を手にした不動明王立像を浮き彫り。凄みのある表情で正面をにらみ、足元に邪鬼がいれば青面金剛と間違えそうだ。光背右脇「阿遮羅護摩一千座攸」阿遮羅はサンスクリット語のアカラ の音写で不動明王を表す。光背左脇に造立年月日。その下に遠州法多山 深教 清運。静岡県袋井市にある高野山真言宗の別格本山 法多山 尊永寺のことだろうか?


間に二基の墓石があり、その奥に庚申塔 文化13(1816)角柱型の石塔の正面 部分的に剥落が見られるが 日月雲「青面金剛」台の正面に三猿が彫られる。


塔の右側面に造立年月日。左側面に岩槻領恩間村講中。


三猿が彫られた台の両側面に合わせて14名の名前が刻まれていた。」


一番左 地蔵菩薩立像 享保13(1728)丸彫りの石地蔵は錫杖の先を欠き、全身を白カビでおおわれている。



台の正面に五文字四行の願文。右側面に造立年月日。左側面には願主 個人名が刻まれていた。