東せんげん台・間久里・大里の石仏

 

閻魔堂 越谷市千間台東3-1-15


せんげん台駅から国道4号線日光街道を南に向かい、陸橋入口交差点のすぐ先で左に入ると道路左側に閻魔堂の墓地がある。墓地の外、ブロック塀の前に多くの石塔が集められていた。その多くはもともとは近くの地蔵堂にあったものだという。道路拡張に伴って移動されたものらしい。


小堂の左に並ぶ石仏群。左から四基が庚申塔。その隣の如意輪観音塔以下の石塔は墓石だった。


左から庚申塔 寛政7(1795)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」台は二段で上の台の正面に三猿。下の台の正面に「講中」


塔の両側面に渡って造立年月日が刻まれている。


その隣 庚申塔 享保16(1731)唐破風笠付角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


足の両脇に二鶏。足下には番犬のような邪鬼がうずくまる。三猿は塔のほうではなく台の正面に彫られていた。


塔の左側面「天下泰平・國土安穏」さらに20文字の願文。右側面 右から「奉造立庚申待供養講中為現世安穏後世善果也」中央に造立年月日。左端に武州新方領上間久里村。下部は白カビの中に8名の名前が確認できる。


続いて 庚申塔 明治12(1879)駒形の石塔の正面に「庚申塔」左脇に造立年月日。


その奥 庚申塔 明和2(1765)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上部に白カビが多い。


下部は摩耗が著しく青面金剛の右足は欠損。邪鬼、三猿も漠然としていて、二鶏は見当たらない。


塔の左側面に造立年月日。右側面に上間久里村と刻まれていた。


小堂の中 左は不動三尊像 明治18(1885)自然石の正面に不動三尊を線刻。左脇に「村内為安全安置之」台の正面に「神風社」裏面に造立年月日が刻まれている。


燃え盛る炎の中に剣と羂索を持った不動明王が座る。下部には滝をはさんで同じように左上を見上げる矜羯羅童子と制多迦童子が線刻されていた。


右 阿弥陀如来立像 寛文4(1664)大きな舟形の光背は上部が一部欠けている。


螺髪の阿弥陀如来は親指と人差し指で輪を作る来迎印を結んでいた。光背に刻まれた文字は薄い。光背左上に造立年月日。右上、光背上部が欠けているためはじめの文字が確認できないが、「□念佛講中菩提也」とある。さらに両脇下部には合わせて50名ほどの名前が刻まれていた。


小堂の右には二基の石塔が並ぶ。右は僧侶の供養塔 明和5(1768)塔の正面中央、梵字「ア」の下に僧名。左脇に造立年月日。


左 六字名号塔 文久2(1862)塔の正面 素朴に「南無阿弥陀佛」右側面には「供養塔」その下に造立年月日が刻まれていた。

 

阿弥陀堂 越谷市下間久里1386北


東武線大袋駅の南の踏切から東に進むと次の交差点で日光街道の旧道に出る。この旧道は越谷の瓦曽根から東武線せんげん台駅付近まで、日光街道の西をほぼ平行して走る。信号を左折して100mほど先、道路左側に阿弥陀堂があった。


資料に取り上げられている二基の石塔はいずれも個人の墓地の中にあった。堂の正面あたりの墓地、ここには四基の石塔が並んでいる。


右手前の駒型の石塔、正面上部に阿弥陀如来坐像と如意輪観音坐像を浮き彫り。その下に信士と信女、二つの戒名が並ぶ。それぞれの両脇に命日、信士のほうは寛文13(1673)信女のほうは元禄元年(1688)となっている。石塔の造立は1690年頃だろうか。


左上 大きな光背を持った阿弥陀如来立像 寛文10(1670)が美しい。この墓地にはこの他にも江戸時代初期の石仏が多く見られる。


墓地の奥のほうに進む。お堂の前の個人の墓地の中 笠付き角柱型の墓塔。塔の正面に信士と信女、二つの戒名が並んでいる。


塔の左側面に二つの命日、天保9(1838)安政2が刻まれ、右側面には大きな字で「筆子五十五人」寺小屋の生徒55人が師匠夫妻のために建立した墓塔ということだ。


お堂の裏の個人の墓地の中にも古い石仏が並んでいた。個人のものなので詳しく見ることはできないが、左から阿弥陀如来立像 万治3(1660)、阿弥陀如来立像 延宝元年(1673)、如意輪観音坐像 寛文8(1668)いずれも立派な光背に浮き彫りされたもので、端正で優美な表情が印象的だ。


さらに阿弥陀如来立像 天和4(1684)と続く。ここではあわせて四基もの江戸時代初期の美しい石仏を拝見することができた。ざっと考えて350年ほど前の石仏たち、家の代替わりを30年として、十数代に渡ってご先祖様のご供養を続けてきたということになる。本当にすごいことだと思う。

 

不動 越谷市下間久里1386南


阿弥陀堂の南の住宅をはさんでそのすぐ先、道路右側に不動堂の入口がある。細い道を入ってゆくと畑の向こうに不動堂が見えた。お堂の左側に石仏が並んでいる。


一列に並ぶ七基の石塔。写真右に見える木の奥にも数基の石塔が並んでいた。


右端 出羽三山供養塔 安永元年(1771)大きな二段の台の上、角柱型の石塔の正面 日月雲に続き梵字「アーンク」その下に「月山・湯殿山・羽黒山 供養塔」上の台の正面には大きく「講中」と刻まれている。


塔の右側面 天下泰平・國土安全。左側面に造立年月日。さらに武州崎玉郡新方領下間久里村。下のほうの台の正面に薄く銘があって名前のようだが、うまく読めない。その両側面にも何人かの名前が刻まれていた。


その隣 十一面観音塔 文政8(1825)やはり二段の台の上 角柱型の石塔の正面 梵字「キャ」の下に「十一面觀世音」十一面観世音の文字塔というのは珍しい。塔の右側面に天下泰平・國土安全。左側面に造立年月日。その脇に下間久里村。下のほうの台の正面に「村中」と刻まれている。


3番目 庚申塔 文政8(1825)こちらも二段の台の上、角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」上のほうの台の正面に三猿、下の台の正面に「村中」とある。右隣の十一面観音塔と造立年も同じで塔の大きさ、構造もほぼ同じ、「村中」の文字も似ていて、同じ石工さんの仕事ではないだろうか。


塔の左側面に天下泰平・國土安全。右側面に造立年月日。その脇に下間久里村と刻まれていた。


続いて弁財天塔 延享4(1747)石祠の正面「辨財天」右側面に造立年月日。左側面に武州新方領下間久里邑 講中と刻まれていた。


5番目 庚申塔 寛文5(1665)江戸時代初期の板碑型三猿庚申塔。表面は摩耗が進んでいる。下部に三猿。その下の部分に大きな蓮が浮き彫りされている。


風化が進み彫りも薄くなっていて銘は読みにくい。右側「奉造立石佛者為庚申待講衆廿六人 二世安樂」左側に造立年月日。続いて武州下間久里村。


その隣 庚申塔 文政4(1821)角柱型の石塔の正面 日月雲「奉納千庚申供養」両脇に造立年月日。下部に三猿を彫る。以前、埼玉大学近くの路傍でも「千庚申供養塔」を見かけたことがある。その時に調べたが「百庚申」「千庚申」「三千庚申」などがあるらしい。一つの庚申塔より多数の庚申塔のほうがより御利益を得られると考えられ、一ヶ所に百基の庚申塔がつくられるようになったという。東浦和の清泰寺の境内には350基の文字庚申塔が並んでいた。しかし実際にそれだけの数の庚申塔を作るのは大変で、一つの石塔に「百庚申」「千庚申」と彫った石塔を供養することで同じようなご利益を期待するようになったものと考えられる。


左端 勢至菩薩塔 宝暦9(1759)風化が進み銘はすこぶる読みにくい。駒形の石塔の正面 梵字「サク」の下「南無勢至大菩薩」両脇に造立年月日。左下に下間久里と刻まれている。勢至菩薩の文字塔もあまり見ない。ここには結構珍しい石塔が多い。


木の奥には無縫塔をはじめ僧侶の墓石など、数基の石塔が並んでいた。その中に舟形光背型の聖観音菩薩立像 寛文5(1665)が立っている。


気品ある顔立ちの聖観音菩薩。左手に蓮華を持ち右手は与願印。光背右脇「奉造立石佛者為百堂順礼衆中七十一人逆修也」百堂順礼供養塔、文字通り100のお堂にお参りしたことを記念して作られたものだろう。左脇に造立年月日。その下に武州西新方下間久里村。施主敬白と刻まれていた。

 

自治会館前墓地 越谷市大里742-2


下間久里から日光街道の旧道をさらに南に進み、国道4号線越谷春日部バイパスの高架の下を過ぎると大里に入る。しばらく行くと道路左手に大里自治会館があった。会館の前には大きな墓地。その北東の一角、写真の大きな木の左側にいくつか石塔が集められている。


左端にポツンと立っていた阿弥陀如来立像 寛文3(1663)舟形の光背に浮き彫りされた阿弥陀像には白カビがこびりついている。


光背右脇「奉造立石佛為念佛講衆中二十七人二世安穏」左脇に造立年月日。その下に新方大里村と刻まれていた。なお、この石仏については資料に記載されていない。寛文期の講中仏であり、加藤氏がこれを見落とすとは考えられないので、調査後にどこかから移動されてきたものだろう。


阿弥陀仏の少し南、角柱型の石塔が三基並んでいた。


手前 永代供養塔 文政10(1827)正面 梵字「アーンク」の下「永代施餓鬼供養塔」両脇に造立年月日。台の正面中央付近に願主 教圓、その両側に世話人5名の名前が刻まれている。


その後ろ、右に庚申塔 天保5(1834)風化が著しい。塔の正面 日月雲の下、大きな字で「青面金剛」


上の台の正面に三猿。カビも多く漠然としていて細部まではっきりしない。下の台を見ると側面を含め、いたるところに多くの穴が穿たれていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には正面に負けないくらいの大きな字で大里村 講中と刻まれている。


その左 庚申塔 享和2(1802)前に大きな石塔が立っていて正面からの写真が撮れなかった。角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」下に三猿が見えるがこれ以上は近づけない。


塔の右側面に造立年。下部には8名の名前。



左側面 中央に正月吉祥月。その右脇に新方領大里村。こちらの下部にも数名の名前が見られるが石などが邪魔していて正確なところは確認できなかった。

 


墓地の南東の隅に6基の石塔が並んでいた。


西向きに4基。右端は庚申塔 正徳4(1714)江戸時代初期の舟形光背型庚申塔。塔全体に白カビが多い。


日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。第2手左手にショケラを掲げる「岩槻型」光背右脇「奉造立供養青面金剛像二世安楽攸」左脇に造立年月日。


「岩槻型」らしくM字型に腕を張る邪鬼、正面向きの三猿、その横に二鶏。その下の部分に薄く文字らしい跡が見えるが読み取ることはできなかった。


その隣 普門品供養塔 文化11(1814)正面 梵字「サ」の下に「普門品三萬巻供養塔」塔の右側面 天下泰平・國土安全。左側面に造立年月日。台の正面と両側面にはそれぞれ十名ほどの名前が刻まれている。


続いて 庚申塔 寛政11(1799)駒形の石塔の正面 梵字「ウーン」の下「青面金剛」下の台に文字らしきものが見えるがカビも多く判別不能。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州崎玉郡新方領大里村と刻まれていた。


一番奥に大六天文字塔。石祠の正面に「大六天」とあるが、側面、台に銘は見当たらず詳細はわからない。


南向きの二基の石塔。右は名号塔 。土の中に深く埋まった自然石の正面に梵字「ア」続いて「南無阿・・・」南無阿弥陀佛だろう。他に紀年銘などは確認できず、これも詳細は不明である。


左 出羽三山供養塔 天保15(1844)塔の正面 梵字「アーンク」の下「湯殿山 月山 羽黒山」塔の右側面に造立年月日。二段の台の上のほうの台の正面に大里村講中。



上の台の両側面に合わせて十数名の名前。二段の台にはいずれも多くの窪み穴が穿たれていた。この窪み穴はどうも地域性があるようで、こういった風習がある地域ではかなり頻繁に見かけることになる。宗教的な動機によるものと思われるが定説はないようだ。

 

踏切北路傍 越谷市大里821北隣


大里自治会館から旧道を南に進むと東武線の踏切に出る。踏切の手前50mほど、道路右側のブロック塀の脇に四基の石塔が縦に重なるように並んでいた。


一番手前 勢至菩薩立像 元禄11(1698)形の良い舟形光背に合掌した勢至菩薩立像を浮き彫り。バランスもよく美しいが風化のため顔の表情などがうかがえないのは残念だ。光背にはカビがこびりつき、文字は薄くはっきりしないが、像の両脇に造立年月日だけはなんとか読むことができた。


その後ろ 板碑型の庚申塔 寛文9(1669)前の石塔との隙間が狭く、文字を読むのにも苦労する。


塔の正面中央「奉造立石佛庚講衆中拾三人為二世安穏也」中ほどの両脇に造立年月日。下部右脇 武州葛飾郡、左脇に新方領大里村。


さらにその下をのぞき込むと正面向きの三猿が彫られていた。江戸時代初期に多い板碑型三猿庚申塔。


続いて釈迦如来立像 天和2(1682)石塔の正面を舟形に彫り窪め、その中に釈迦如来立像を浮き彫り。頭上に造立年月日が刻まれていた。


蓮台の下の部分に十名ほどの名前が見える。多くはカナのようで、女人講中による造立かもしれない。


一番奥 庚申塔 寛政2(1790)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。前の石塔の陰になっていてまともに正面から見ることができない。この二枚の写真は左の駐車場の金網越しに撮った。


青面金剛の足の下の様子はこの角度でもわかりにくい。弓矢の下あたりに二鶏。足下に正面向きの邪鬼、その下は左右が内を向く形の三猿のようだ。


塔の右側面に造立年月日。その下に八名の名前。左側面に武州崎玉郡新方領大里村。その下にはやはり八名の名前が刻まれていた。

踏切南路傍 越谷市大里534南隣


東武線の踏切を越えて南へ100mほど、左側のコンクリート壁のエンド部分に小堂が立っている。電柱の陰で見逃しやすい。


庚申塔 宝永7(1710)舟形の光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背右脇「奉造立庚申供養二世安樂処」左脇に造立年月日。


正面向きに頭をのぞかせた邪鬼の両脇に二鶏。その下に三猿を彫る。三猿の下の部分に十人ほどの名前が刻まれていた。

桜井消防団小屋脇 越谷市大里722向かい


さらに南へ50mほど進み、右折して西に向かう。150mほど先の右側に越谷市消防団桜井分団第一部と書かれた消防小屋があった。小屋の右脇は駐車スペースになっていて、その片隅に石塔が立っている。


馬頭観音塔 寛政6(1794)駒形の石塔の上部に馬頭観音立像を浮き彫り。下部には大里村願主とあり、三人の名前。左脇に造立年月日が刻まれていた。


彫りは細かく、頭上の馬頭もくっきり。小さいながらもなかなか見ごたえがある。