大泉町・大泉学園町・東大泉の石仏

別荘橋畔 練馬区大泉町2-59


笹目通りの土支田交差点と目白通りの比丘尼交差点をほぼまっすぐに結ぶ土支田通り。そのちょうど中間あたりの土支田通り交差点から北に向かい、長い下り坂を下ってゆくと白子川に架かる別荘橋のたもとに出る。橋の手前左側、大きな木の下に大小二つの小堂が立っていた。


左の小さな小堂の中 庚申塔 嘉永3(1850)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が進み像全体が摩耗の為はっきりしない。剣もショケラも原型をとどめず、足元の邪鬼も漠然としている。この風化は保存の良しあしというよりもその石質のせいだろう。いつ行っても庚申様には新しい花と飲み物などが供えられていた。


塔の側面は小堂の側板の為に見にくい。右側面に造立年月日。左側面には武州新座郡 中里村と刻まれている。


台は土の中に深く埋められていて、正面にちょこっと見えるのは三猿の頭らしくも思えるのだが、これもいまひとつ判然としない。


右の大きい小堂の中 地蔵菩薩立像 天明8(1788)鋭い舟形光背、梵字「カ」の下に錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩立像を浮き彫り。こちらもお花などのお供え物が新しい。


隣の庚申塔ほどではないが、やはり風化が進む。長い錫杖の頭の部分が外側に曲がっているのは珍しい。光背右脇に大きな字で「奉造立地蔵尊」その下に新座郡上白子村 講中拾八人。左脇に造立年月日。その下に願主二名の名前が刻まれていた。


お地蔵様の足元、右のほうに 南 江戸、中央に 左 □□、左のほうに 右 □□。道標になっていたようだ。

大泉インター入口西路傍 練馬区大泉町5-6


目白通りの大泉インター入口交差点のすぐ西の交差点を右折すると、道路左側、大きな木の下に小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 正徳5(1715)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。笠と石塔のバランスが悪く、笠は後から補修されたものかもしれない。


これも風化が著しい。青面金剛の顔は削れていて、これはたぶん人為的なものだろう。青面金剛は邪鬼の背中ではなく磐座の上に立つ。右脇に武州新倉郡上白子村講中。左脇に造立年月日。塔の両側面には大きな蓮が浮き彫りされている。


磐座の下に正面向きの三猿。はじめは気が付かなかったが、近づいてよく見ると三猿の下に小さな二鶏が線刻されていた。

 

教学院 練馬区大泉町6-24


大泉インター入口交差点と北園交差点の真ん中あたり、大泉水道橋交差点から南に入ると教学院の入口の前に出る。山門に続く参道の左側、寺標の先にお地蔵様が立っていた。


地蔵菩薩立像 宝暦3(1753)丸彫りだが損傷は少ない。像は厚みがあり重厚。苔がついて全体にくすんだ印象を受ける。


塔部正面「南無地蔵尊為二世安樂」下部に十名ほどの名前が刻まれていた。


右側面 武州豊島郡 土支田村講中廿人。


左側面に造立年月日。続けて江戸 新橋の石工名が刻まれている。


山門を入ると参道左側に手水舎があり、その先に鐘楼。その鐘楼の裏、墓地の塀の前に閻魔大王像と十王像が並んでいた。


十王像 元禄3(1690)のうち右の五体。小型ながら彫りは丁寧。首のところに補修跡が見られる。


左の五体。右の五体と合わせ十王が揃う姿は貴重だ。



中央の閻魔大王。資料によると背中に元禄3年の紀年銘があるというが、裏に回ることはできず確認はできない。


閻魔大王の右隣り、資料の中の指摘によると、頭部は間違いなく「王」と書かれた被り物もあり十王にふさわしいが、右立膝であばら骨をあらわにした姿は「奪衣婆」だという。


鐘楼の前、十王像に向き合うように奇妙な高坏型の石塔が立っていた。上部、蓮台の上に丸彫りの二個の仏頭。右の仏頭は大きな耳を持ち目を怒らせて凄みをきかせ、左の仏頭は憂い顔で目を閉じている。脇の案内板に「だんだ幢」(変換できない漢字)とある。蓮台の下の紀年銘は閻魔大王と同一で、調べてみると閻魔大王が人を裁くときに使う道具のようなものらしい。


十王像の左脇には小型の宝篋印塔 寛永11(1634)隅飾型の笠を持つ江戸時代初期の素朴な宝篋印塔である。


さらにその左、松の木の脇に馬頭観音塔 寛政9(1797)石塔の正面 梵字「ウン」の下「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。下部に三名の名前。左側面は空間が狭く写真は撮れないが、土支田村講中 拾九人などの銘が確認できた。


本堂の左側、墓地の塀の前にたくさんの石塔が集められていた。ほとんどが無縁仏で、江戸時代初期のものが多い。その一番奥、他とは別に二十基ほどの石塔が並んでいて、その中に庚申塔や比較的大きな像塔があった。


最前列の左端 庚申塔 明治37(1904)石塔の上部は欠けていて元の形はわからない。正面中央に「庚申塔」下部に造立年月日。脇に個人名が刻まれている。


最後列 右から 聖観音菩薩立像 元禄3(1690)舟形光背型。さすがに風化が進み損傷が激しい。こちらは個人の墓石らしい。


その隣 地蔵菩薩立像 享保15(1730)首に補修跡。とてもお地蔵様には思えない顔。妙に生々しい。衲衣の中央に「為法印権大僧都榮全菩提」両脇に造立年月日。


続いて地蔵菩薩坐像。台の正面の銘が確認できず詳細は不明。風化が著しい。これも首に補修跡。頭部は本来のものではないだろう。

 


教学院の墓地は境内の南側に広がり、手水舎と鐘楼の間、十王像の脇にその入り口がある。墓地に入るとすぐ右手に石塔が並んでいた。像塔は全部で7基。講中仏ではなく墓石になるが、江戸時代初期のものがそろい、個人の墓地ではなく公共スペースに並んでいるものなので紹介することにした。


右から 地蔵菩薩立像。丸彫りで錫杖、宝珠ともに欠け、顔の前面もつぶされている。台もなく像のほうにも銘は見当たらず造立年などは不明。


その隣 地蔵菩薩立像 元禄14(1701)舟形光背に錫杖宝珠を持った地蔵菩薩像を浮き彫り。光背上部、梵字は「カ」ではなく「キリーク」


続いて地蔵菩薩立像 延宝7(1679)

その奥に二臂の如意輪観音坐像 元禄12(1699)舟形光背の上部を欠く。


続いて地蔵菩薩立像 宝永6(1709)


その隣は聖観音菩薩立像 延宝6(1678)


板碑型の墓石を挟んでその奥に如意輪観音坐像 天和3(1683)


中ほどまで進み右へ曲がると、墓地は奥に行くにしたがって高くなっている。途中右側、一対の石柱の向こうに個人の大きな墓地があった。右の石柱に「當山開基荘家墓所」とある。山門手前に立っていた解説板によると南北朝時代に児玉郡本庄城主の荘氏がこの地に土着して当寺を菩提寺としたらしい。


墓地の左側に比較的古い石仏が並んでいた。いくつか像塔を見てみよう。写真奥に写っているのが教学院の本堂になる。


丸彫りの地蔵菩薩立像 正徳3(1713)白カビにまみれて静かな表情で佇んでいる。


衲衣の中央に「為□□□□菩提也」袖の部分に造立年月日が刻まれていた。


丸彫りの聖観音菩薩立像。左手に蓮華、右手与願印。背中のほうに銘が刻まれているが確認はできず詳細は不明。


舟形光背に二臂の如意輪観音坐像 貞享5(1688)江戸時代初期に特徴的なふくよかで鷹揚なお姿が好ましい。


一番奥に阿弥陀如来立像 明暦4(1658)江戸時代初期の石仏は石質が良いために美しいものが多い。豊かな舟形の光背の上部に阿弥陀三尊種子。その下に丸彫りのように厚く阿弥陀如来像を浮き彫り。来迎印の阿弥陀如来はバランスもよく彫りも丁寧で細かい。


墓地の一番奥突き当りに歴代住職墓地があった。その中からいくつか像塔を見てゆこう。


胎蔵界大日如来坐像 寛文6(1666)舟形光背上部に梵字「ア」宝冠をかぶり定印を結ぶ胎蔵界大日如来。大きな円形の頭光背を持つ。


地蔵菩薩立像 元禄6(1693)舟形光背、梵字「カ」の下に真ん丸なお顔のお地蔵様。欠損もなく意外に美しい状態を保つ。

阿弥陀如来立像 承応3(1654)光背の一部は欠け、白カビも目立つ。舟形光背に来迎印の阿弥陀如来像。今回教学院で確認した中では最古の石仏。


地蔵菩薩立像 享保3(1718)舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。像全体に白カビがびっしりとこびりつき銘は読みにくい。ここでは一番新しい石仏なのだが・・・

 

大泉中島公園北路傍 練馬区大泉学園町2-27


大泉学園通り北園交差点から南西に入り保谷の北へ至る「したみち通り」中島橋の北の信号交差点のすぐ手前を右折、大泉中島公園の脇の道を北へ上った先、突き当りの角のところにたくさんの岩が積み上げられているが、遠目にはその正体がよくわからない。


岩組のてっぺんに馬頭観音塔 天保11(1840)自然石の中央に「馬頭観世音」と刻まれていた。


脇にあった解説板にこの馬頭観音塔の説明が書かれているのでこちらを見ていただきたい。丁寧かつ明快な解説はとてもありがたい。

妙延寺 練馬区東大泉3-16


大泉学園駅北口から一方通行の道を北東に進むと都道24号線に出る。この交差点の横断歩道を渡った向かい側に妙延寺の入口があった。境内に入ると本堂の左側のブロック塀の前に多くの石塔が並んでいる。ただ、妙延寺は日蓮宗のお寺であり、日蓮宗のお寺では宗義のためか石仏は極めて少なく、石塔と言えば題目塔が大半である。大泉には日蓮宗のお寺が多く、これもこの地域に石仏が少ない一因と言えるだろう。


題目塔が並ぶ中に庚申塔 大正9(1920)駒型の石塔の正面 青面金剛立像 合掌型六臂。江戸時代のものとはまったく違った印象を受ける個性的な青面金剛。足元には三猿だけが彫られていた。


塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。続いて施主だろう、個人名が刻まれている。それにしても大正時代造立の庚申塔はあまり記憶になく、もしかしたら初見かもしれない。