岩槻区笹久保

地蔵院 岩槻区笹久保1837


県道214号線の笹久保交差点から県道324号線に入り北へ200mほど行くと道路左側に地蔵院の入り口がある。奥に進むと右手にたくさんの石塔が並んでいた。


前列には五基の石塔。右から六地蔵塔 嘉永4(1851)大きな台の上、角柱型の石塔の正面を彫り窪めて六地蔵菩薩立像を浮き彫り。白カビが厚く覆っていて像の。様子はよくわからない。


下の台の四つの面に細かい文字がたくさん刻まれているのだが、その彫りは薄く読み取ることはできなかった。資料によると近隣の多くの村から合わせて200名近くの名前が刻まれているらしい。


塔の右側面に造立年月日。その下に笹久保邑 地蔵院 村々萬人講中と刻まれている。


左側面には「奉六地蔵半鐘門一宇造立」その脇に光秀十九代願主隆道叟敬白。


その隣 三界万霊塔 明治27(1894)角柱型の石塔の正面に「三界萬靈等」下の台の正面に文字が見えるが、これも彫りが薄いため読み取れない。


 塔の左側面に原 施主とあり、数人の名前が刻まれていた。右側面、六行ほどの銘文の後ろのほうに、年号に続いて南埼玉郡和土村大字笹久保、共有者惣代として二名の名前、さらに字新田とあり一名の名前が刻まれていた。


その左 三界万霊塔 天明2(1782)笠付の角柱型の石塔の正面に「三界萬霊等」右脇に天明2年の紀年銘に続き飯塚村有山仁右エ門妹おげん、左脇に宝暦5年(1755)の紀年銘に続き、おげん娘と刻まれている。いずれも命日とすると、幼くして娘さんを亡くされたということになるのだろう。


下の台の正面、右端に十三堂地蔵院とあり、続いて何人かの名前が見られる。左側に当院本尊出来人とあり、三名の名前が刻まれていた。


塔の右側面、上部中央に「富士」その両脇に天下泰平・日月晴明。その右に「吉田」下に「吉太」「大宮」この三つは地名だろうか?さらにその下に三名の名前が刻まれている。


続いて六地蔵塔 寛政10(1798)こちらも塔の正面を彫り窪めた中に六体の地蔵菩薩像が浮き彫り。塔全体に白カビが目立つ。


右側面「奉建立六地蔵尊」右脇に造立年月日。さらに施主上講中と刻まれていた。


塔の左側面 上部に「妙法」とありその下に二名の童子の戒名と命日。さらに下部に御斎講中願主二十人、世話人一名の名前が刻まれている。


左端 阿弥陀如来立像 元禄13(1700)舟形光背の上部に梵字「キリーク」その下に輪光背を頂いた阿弥陀如来立像を浮き彫り。


こちらも残念ながら白カビが多い。光背右脇「奉造立阿弥陀如来像為念佛供養二世安樂也」左脇に造立年月日。その下に笹久保村施主都合五十人と刻まれていた。


右端の六地蔵塔の裏に二基の石塔。左 大乗妙典供養塔 享保12(1727)塔の上部には首のもげた丸彫りの地蔵菩薩坐像が乗っている。塔の正面「大乗妙典講満供養塔」下の台の正面に十数名の名前が刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。その奥に「十方諸善男女等・・・」さらにその奥に「當院四世現住却外契春・・・」隣の塔との間が狭すぎて文字が一部読めなかった。


塔の左側面「上報四思下資三有」その横に「法界詳生同圓種智」下に「敬白」意味はよくわからない。


その右 庚申塔 正徳4(1714)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


足下にのっぺりとした邪鬼。その両脇は二鶏か?下に三猿を彫り、さらにその下の部分には施主とあり、六名の名前。左端に笹久保村と刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。その下に数人の名前。右側面「奉造立庚申像一躯為二世安樂也」その下には六名の名前が刻まれている。


資料に取り上げられていた石仏でどうしてもみつからなかった「普門品供養塔」二基の三界万霊塔の間からのぞいてやっと確認できた。塔の正面に「普門品供養塔」両脇に天下泰平・國土安穏。前後左右を石塔に囲まれていて台の側面は確認できない。


かろうじて塔の右側面を撮影できた。天保6(1835)の紀年銘。その下は見えないが、資料によると此方 いわつき廿五丁 じおんじ二り。塔の左側面には笹久保村とあり此方 はとがや三りと刻まれているという。

 

地蔵堂 岩槻区笹久保950付近


笹久保交差点から県道324号線を南へみちなりに進むと、道は一度左にゆるくカーブしてその先で今度は右に大きく曲がる。曲がってすぐ、道路右側に地蔵堂がある。石階段を上ると右手に笠付の石塔、左手の墓地の前に二基の像塔が立っていた。


右手 庚申塔 享保8(1723)唐破風笠付きの角柱型。笠の一部が破損しているが、塔全体に白カビなどはほとんど見られず美しい。


日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラをかかげる。邪鬼は正面向きM字型。その下に三猿と二鶏が彫られている。


塔の右側面中央に「奉供養庚申像為二世安樂也」両脇に造立年月日。


左側面上部に「自他増進佛道」右に笹久保村願主とあり、その下に得翁願入沙弥。続いて講中三拾四人、村中四拾六人と刻まれていた。


左手手前 阿弥陀如来立像 宝永8(1711)舟形の光背いっぱいに丸顔の阿弥陀如来立像を浮き彫り。ボリューム感がある。光背右脇に「奉造立阿弥陀如来像一躯念佛供養為二世安樂也」左脇に造立年月日。その下には笹久保村施主集う四十二人、さらに新田村三人と刻まれている。その隣に立っていた丸彫りの地蔵菩薩像は個人の供養塔だった。

光秀寺西路傍 岩槻区笹久保1付近


県道324号線をさらに美園方面に向かって進む。長い坂道を下りきったあたりで尾ヶ崎に出るが、そのすぐ手前、道路左側の空き地の中に小堂が立っている。写真左の道路は県道324号線。写真右上、高い所に光秀寺の墓地が見える。


左の二基は卵塔。続いて庚申塔 安永6(1777)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が進み、塔の表面全体に丸みを帯びていて、像の様子も今一つはっきりしない。ブルドッグのような邪鬼の下に三猿だが、中央の猿は正面向き、両側の猿は中を向いている?邪鬼と三猿の間、両脇が二鶏だろうか?


塔の右側面に造立年月日。左側面に尾ヶ崎村講中と刻まれていた。


右端 馬頭観音塔 昭和34年(1959)新しいものだが下部は崩落が見られる。塔の正面中央「南無妙法蓮華経馬頭観世・」お題目と馬頭観音の組み合わせは珍しい。右脇に造立年月日。塔の左側面に数人の名前が刻まれていた。