北後谷・西新井・長島の石仏

根郷自治会館 越谷市北後谷769東


国道463号線、通称「越谷街道」にある西新井の西教院の東の道を北へ入り、すぐ先の交差点を右に曲がると左手に墓地が見えてくる。廃寺になった「光明院」の跡地で同じ敷地内に根郷自治会館が立っていた。墓地のはずれ、自治会館前の広場の南に石塔が並んでいる。


左端 庚申塔 嘉永3(1850)塔全体に破損が見られ、二段の台もその置き方はかなり乱暴だ。上部破損の為断定はできないが駒型の石塔だろう。正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


江戸時代後期によく見られるタイプの青面金剛像。斜めに曲がった三角の髪形。重心のずれた立ち姿。彫りは比較的細かく、衣装の左裾がらせん状に跳ね上がる。二匹の邪鬼の頭を踏むのもこのタイプではそれほど珍しくはない。塔の右側面に造立年月日が刻まれていた。


上の台の正面に三猿。よく見ると右の見猿は親猿?に肩車された子猿?が親猿の目を手で覆っている。これは初めて見る形だ。台は半ばが土の中だが、中央に「講中」その両脇に数人の名前が刻まれている。


2番目 庚申塔 正徳4(1714)これも風化が進みカビがこびりついていて様子が今一つはっきりしない。角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型。


近づいて見て驚いた。青面金剛の腕は合掌する手を含めて五組。六臂が圧倒的に多く、十臂というのは相当珍しい。左に頭を垂れてうずくまる邪鬼。二鶏は見当たらない。


下部には正面向きの三猿を彫る。台は正面中央に大きな蓮の形、その両脇に造立年月日。


塔の右側面は無銘。左側面 梵字「ウーン」の下「奉造立庚申供養石塔講中現當二世安樂攸」下の台の左側面には根郷 講中だろうか。右側面にも文字があり、人の名前かと思われるがうまく読み取れなかった。


3番目 普門品供養塔 寛政12(1800)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下「普門品二万巻供養」台の正面には大きく講中とあり、その両脇に4人の名前が刻まれている。


塔の左側面に造立年月日。右側面に村内安全 五穀成就。その下に後谷村と刻まれていた。


右端 庚申塔 寛政12(1800)駒型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」下部に三猿。


下の台は二段。どちらも一枚の石ではなく、二枚の石を並べる形。正面に文字らしいものが見えるのだが風化が著しく解読はできなかった。

 

北前稲荷神社 越谷市北後谷


釣上新田付近から国道463号線とほぼ並行してまっすぐに東へ向かう道。越谷西特別支援学校の脇を通り、左手に石神井神社を見て、末田用水を越えたあたりで細い道を右に入ると、その先は見渡す限り田畑が広がる田園地帯で、そんな中にポツンと稲荷神社の鳥居が見えてくる。まわりに目印になるような建物もなく正しい住所がわからなかった。


石鳥居の先に大きな瓦屋根がやけに目立つ稲荷神社の社殿。参道右脇には祠が立っている。


小堂の中 不動明王坐像 嘉永4(1851)炎の光背の前にずんぐりした体形の不動明王。その下には矜羯羅童子と制多迦童子。中央に「成田山」と刻まれていた。


下の台の正面 小さな字で右端に願主、右上にセハ人とあり、続けて16人の名前。台の左側面に15人の名前。右側面には草加宿石工1名の名前があり、さらに2人の名前が刻まれている。


塔の左側面に埼玉郡越谷領後谷村、右側面には天下泰平 村内安全。その下に造立年月日が刻まれていた。


祠の向かい、参道の左側には二基の石塔が立っている。


手前 庚申塔 寛政4(1792)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛のももの両脇に小さな二鶏。塔の右側面に造立年月日が刻まれていた。


青面金剛の足元、頭を左にして平伏する邪鬼。さらにその下に両脇の猿が内側を向く構図の三猿を彫る。このあたりは白カビがこびりついていて文字も読みにくいが、台の正面には15名ほどの名前が刻まれているようだ。

奥 出羽三山供養塔 文化9(1812)角柱型の石塔の正面 日月雲「湯殿山 羽黒 月山 供養塔」


下の台の正面、右から世話人2名、次に講頭1名、続けて講中 神明下村とあり9名の名前。正面には都合12名の名前が刻まれている。右側面には四丁野村講中、西新井村講中とあり、左側面には12名の名前。台の三面合わせると三講中、24名の講員ということになるだろうか。


塔の左側面 埼玉郡越ケ谷領後谷村。その横に大先達 大乗院。


右側面に造立年月日。その横に天下泰平 五穀成就と刻まれていた。

 

山王神社 越谷市西新井173北


南荻島の末田用水に架かるひやみず橋のあたりから用水沿いの道を南へ下る。バイパスを越えて国道463号線に出る少し手前、左側に赤い鳥居の社があった。遠目に見ると社の中の石塔の両脇に狐がおり、稲荷神社かと思って近づいてみると・・・


庚申塔 延宝6(1678)社の中は暗い上に、文字は薄く写真ではほとんど銘を確認できない。駒型の石塔の正面中央「奉供養庚申二世安樂所」両脇に造立年月日。さらに西新井本村 同行九人と刻まれている。


下部に正面向きの三猿を彫る。その上には9人の名前が刻まれていた。江戸時代初期に多い「三猿庚申塔」には板碑型とこのような駒型の石塔が見られる。


社の左脇、植え込みの中に二基の石塔が並んでいた。さつきの枝が密生しているために、石塔の上部だけが見えていてその全体を確認することはできない。


左 庚申塔 文化9(1812)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。顔のあたりの損傷が著しい。三角に束ねられた髪が小さく右に倒れ、江戸時代後期の細密な彫りで衣装の裾が跳ね上がったタイプの青面金剛かと思われる。邪鬼、三猿は全く見ることができなかった。


塔の左側面 古(こ)の方のじま道。その横に西新井村。右側面は覗き見ることもできないが、資料によると造立年月日が刻まれ、両脇に此方東こしかや、か□□江戸道と刻まれているという。


右 石橋供養塔 明和3(1766)駒型の石塔の正面、上部に合掌型の地蔵菩薩坐像を浮き彫り。


塔の正面中央「奉供養石橋建立・・・・・」その両脇に造立年月日。下部は見えないが、資料によると岩附領西新井村とあり、願主は個人名が刻まれているらしい。

西教院 越谷市西新井478


国道463号線、末田用水に架かる大石橋から西へ300mほど、道路右側に西教院がある。山門手前に祠があり、その右脇に二基の石塔が並んでいた。


右 庚申塔? 宝暦13(1763)駒型の石塔の正面に馬頭観音立像を浮き彫り。塔の両側面に造立年月日。


三面六臂慈悲相、気品あふれる美しい馬頭観音。前手は独特の馬口印を結んでいる。


下の台の右端 甲申待同行十三人とあり、続いてひらがなで「おはつ」「おせん」など「お」のつく名前が並んでいた。女性の庚申講中による造塔と思われる。邪鬼を踏む青面金剛以外に、地蔵菩薩、阿弥陀如来などを主尊とする庚申塔をいくつか見てきたが、馬頭観音を主尊とする庚申塔はほとんど見たことがない。と言っても皆無というわけではなく、記憶している限りでは板橋区大原町の長徳寺に立派な馬頭観音庚申塔があった。(当ブログ2016年1月9日の記事)
資料の著者の加藤氏は「台石と石塔とは本来別物だったのだろう」という見解を取っているが、庚申塔、馬頭観音塔どちらの可能性もあると思う。


左 庚申塔 寛保3(1743)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の右側面に造立年月日。


顔をしかめた丸顔の青面金剛は骨太で力強い立ち姿。頭の上には蛇が顔を出している。


足元に狛犬のような邪鬼。その下に両脇が内を向く構図の三猿を彫る。台の正面 右端に志施入村々とあり、続いて後谷村、野嶋村、釣上村など近隣11ヶ村の名前が刻まれていた。


祠の中 不動三尊像 。四角い形の光背に不動明王坐像を浮き彫り。その下に「成田山」両脇に矜羯羅童子と制多迦童子。


台の正面 右に講中とあり、20名ほどの名前が刻まれている。側面は見ることができず、造立年はわからないが江戸時代後期のものと思われる。

 


山門を入ると正面に本堂があり、その左側に墓地が広がっている。墓地の入り口付近に六地蔵が並んでいた。


六地蔵菩薩立像 享保7(1722)丸彫りの像もその下の台もほぼ形がそろい統一感がある。


六つの台にはそれぞれの地蔵名があり、右端の台の両脇には造立年月日が、左端の台には西新井村中 念佛講八拾二人と刻まれていた。


六地蔵の向かい側に比較的背の高い四基の石塔が並んでいた。参道の左裏側あたりになる。


左から徳本名号塔 文化14(1817)四角い台の上、角柱型の石塔の正面に独特な書体で「南無阿弥陀佛」塔の右側面には造立年月日が刻まれている。


下の台の上の敷茄子の部分に「講中」とあり、台の正面には釣上村、釣上新田、長島村、小曾川村などの地名とともにたくさんの人々の名前が刻まれていた。右側面は小曽川村、末田村、長島村とあり、この面にはひらがな二文字の名前が圧倒的に多い。左側面は長島村、尾ヶ崎村、尾ヶ崎新田とあり、こちらもひらがな二文字の名前が比較的多い。


2番目 地蔵菩薩立像 享保7(1722)二段の台の上、蓮台に丸彫りの地蔵菩薩像。面長でちょっと垂れ目で柔和な表情。造全体に白カビが多い。


像の正面中央付近に銘が見えるが読み取りにくい。梵字「カ」の下に「奉造立地蔵尊供養」と刻まれているようだ。


上のほうの台の正面、後谷村、西新井村、長嶋村、野嶋村さらに岩槻・川口の釣上村、立野村など、近隣の23ヶ村の名前が刻まれている。ずいぶん広い範囲の地域の人たちが力を合わせて建立したのだろう。右側面に十数名の名前が、左側面には数名の名前があり、続いて造立年月日、さらに越ケ谷新町の石工名が刻まれていた。


3番目 名号塔 享保18(1733)角柱型の石塔の正面中央「南無阿弥陀佛」その下に祐天とあり花押。続いてその下には「六十六部供養佛」と刻まれている。右上に天下泰平國土安全、左上に造立年月日。右下に武州長嶋村左下には願主 雲心と刻まれていた。


塔の左側面 上部は二行。万人講中 御詠歌同行、大峯講中 念佛同行。下部は三行。荻島村、釣上新田、尾ヶ崎村など八つの村の名前と最後に横山喜衛門と刻まれている。


塔の右側面 上部に二十五菩薩。その下に日照山 西教院。さらに江戸京橋柳町本材木町、本八町堀臺町目松屋町と地名が刻まれ、続いて四名の名前が刻まれていた。


右端 弘化2年の天神宮の石祠の後ろに 名号塔 享保12(1727)


角柱型の石塔の正面 梵字「キリーク」の下「南無阿弥陀佛」続いて日照山十二世とあり、その下に願主 鏡譽代、白譽専称。両脇に造立年月日。塔の左側面には後谷村、荻島村など7つの村名と7名の名前が刻まれている。


塔の右側面 上部に右村々 為菩提 一家精霊とあり、その下に釣上村、尾ヶ崎村など近隣12の村の名前が刻まれていた。


六地蔵の右側から墓地に入るとブロック塀の前、六地蔵とは逆の方向を向いて三体の石仏が立っていた。


左から 阿弥陀如来庚申塔 寛文3(1663)大きな舟形の光背に輪光背を持った阿弥陀如来立像を浮き彫り。光背右側上下に欠損があるのは惜しい。寛文期らしいふくよかで美しい表情が印象的だ。光背右脇「奉造立尊像者」とあり、その下に7名の名前。さらに右脇に造立年月日が刻まれている。


光背左脇には「為庚申待供養也」とあり、こちらもその下に8名の名前が刻まれていた。


中央 地蔵菩薩庚申塔 万治2(1659)緩やかにくぼみをつけた大きな舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。切れ長の目をした端正な顔立ちのお地蔵様。右手の錫杖は頭のかなり上のほうまであり、その杖の部分は中央部がやや太く、腕とともに光背から少し離れるようにして立体的な表現になっている。この錫杖の特徴は江戸時代初期に見られるもので、時代が進むにつれ長さも短くなってくるようだ。以前見た中ではさいたま市桜区の田島観音墓地 万治4年( 2014年6月5日の記事)さいたま市桜区町谷の慈眼寺墓地 慶長13年西暦1606年!(2013.11.24の記事)岩槻区加倉 浄国寺境内 明暦2年(2016年9月17日の記事)などを参照していただきたい。


光背の銘はやや薄くなっていて読みにくい部分があった。右脇「奉造立一□尊像者為庚申供養也□□□現當□□所也」邪鬼、三猿などは見られないが、隣の阿弥陀如来像とともにこちらも庚申塔ということになる。光背左脇に造立年月日。その下に「自他回□信心之檀主敬白」光背両脇の下部には合わせて十数人の名前が刻まれている。


右 聖観音菩薩立像 寛文6(1666)舟形光背の正面、未敷蓮華を持ち与願印の聖観音菩薩を浮き彫り。江戸時代初期の同じような舟形光背型の美しい石仏が三基もそろうのは素晴らしい。


光背右脇に造立年月日。像の両脇に刻まれた銘は一般の戒名とも違うが、今まで見たことがないような銘で意味はよく分からない。下部には六親眷属 七世父母とあり個人のものかもしれない。

 

西組自治会館 越谷市西新井810


国道463号線、西教院の入り口から西へ350mほど、道路南側の角地に西組自治会館が立っていた。建物の前は駐車場?になっていてその向こうに墓地が見える。現在の会館は廃寺となった旧正覚院の堂宇を昭和41年に改築したもので、墓地は西教院の末寺である旧正覚院の墓地だったのだろう。


会館のすぐ近く、名号塔 寛文9(1669)笠付きの大きな角柱型の石塔の正面上部に阿弥陀三尊種子。その下に大きく「南無阿弥陀佛」


塔の左側面と裏面は一見無銘かと思えたが、近寄って見ると細かい文字で膨大な数の戒名や俗名などがびっしりと刻まれていた。


右側面上部、こちらにも阿弥陀三尊種子を刻み、その下に四文字九行の願文。続いて中央に「千日惣廻向有無縁等」その両脇に渡って、五文字四行の願文。さらにその下に造立年月日が刻まれている。


塔の下部中央に「導師日照山西教院」その両脇に二名の上人の名前。さらにその両脇に「乃至法界 平等利益」最下部中央に願主とあり四名の名前。その両脇に施主敬白と刻まれていた。


墓地の入り口付近に六地蔵が祀られている。その左脇にも二基の石塔が並んでいた。


六地蔵菩薩立像 享保14(1729)丸彫りの像だが目立った欠損もなく美しい。石の色が違ったものがあるのはあとから補ったものかもしれない。


下の台の正面中央にぞれぞれの地蔵名。右端の台に造立年月日、右から4番目の台には西新井村 念佛講中と刻まれている。


脇に並ぶ二基の石塔。手前 庚申塔 文化4(1807)力石のような自然石の中央に「庚申」下の台の正面 右端に西新井村講中とあり13名の名前、台の左側面には15名の名前、右側面右端に願主1名、左端に造立年月日が刻まれていた。


奥には馬頭観音塔? 文久3(1863)角柱型の石塔の正面 上部は大きく破損。「□□觀世音」正体不明というべきだろうか。右側面の紀年銘だけがはっきりと残っている。

石神井神社 越谷市西新井314


国道463号線、西教院の入口の向かい側に「石神井神社入口」の看板が立っていて、ここから南へ400mほど進むと石神井神社の裏に出る。木立の中に二基の庚申塔が並んでいた。


左 庚申塔 嘉永3(1830)二段の台の上に駒型の石塔。白カビが多い上に周囲は薄暗くクリアな写真を撮るのは難しい。


日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。江戸時代後期によく見るタイプの青面金剛像。二匹の邪鬼の頭を踏み、その下には三猿を彫る。


塔の右側面に造立年月日。左側面には西新井村講中と刻まれていた。


右 庚申塔 万延元年(1822)二段の台の上に角柱型の石塔。上の台の正面に三猿を彫る。下の台の正面に銘らしいものが見えるが文字が薄くなっていて読み取れない。


日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。髪をつかまれたショケラは手を合わせて許しを乞うているのだろうか?


塔の右側面に造立年月日。左側面には天下泰平 邨中安全と刻まれていた。

 

長島自治会館 越谷市長島183


県道324号線、県民健康福祉村の北東の信号交差点から西へ向かい250mほど進むと、道路左側に長島自治会館がある。会館の脇、ブロック塀の前に石塔が並んでいた。


右から 六十六部供養塔 享保20(1735)四角い台の上に上隅を丸くした角柱型の石塔。最上部に阿弥陀三尊種子が刻まれている。


正面中央「奉造立六十六部納帳為二世安樂也」上部両脇に造立年月日。下部右脇 施主白譽雲心。左脇に武州崎玉郡長嶋村。


台の正面に大きな字で六つの村の名前。左側面には3名の名前が刻まれていた。


2番目 一石六地蔵塔 文化7(1810)駒型の石塔の正面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。塔全体に細かく白カビが付いている。


六体の地蔵像は円形の頭光背を負い、それぞれ蓮台の上に立つ。


塔の右側面に造立年月日。左側面には長嶋村講中と刻まれていた。


3番目 庚申塔 享保3(1718)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。下の台の正面には20人ほどの名前が刻まれている。


足の両脇に二鶏を半浮彫。足元に頭を左にした邪鬼。三猿は両脇が内を向く形で足を投げ出して座っていた。


塔の右側面 梵字「ウン」の下「奉造立青面金剛二世安樂祈所」


左側面に造立年月日。その下に武州長嶋村と刻まれていた。



4番目 地蔵菩薩立像 元禄9(1696)舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。


光背右脇「奉造立地蔵菩薩像二世安樂攸念佛講中」左脇に造立年月日。その下に敬白と刻まれている。最後の角柱型の石塔は下部に「不生位」とあり、住職の墓石と思われる。その奥には3個の力石が並んでいた。

綾瀬川左岸佐藤橋北西路傍 越谷市長島2-4西


東川口方面から綾瀬川に架かる佐藤橋を渡るとT字路で、ここを左折して道なりに200mほど進むと道路右側の空き地に小堂が立っている。


小堂の中 馬頭観音立像 文政8(1825)駒型の石塔の正面に馬頭観音を浮き彫り。下部には「講中」両側面は隙間が狭く写真は撮れなかったが、狭いところを頑張って覗いてみると、右側面に造立年月日、左側面には崎玉郡長島村と刻まれていた。