大塚・南大塚の石仏

山王塚 川越市大塚1-21[地図]


入間川街道をさらに進み、関越自動車道の500mほど手前で左折して約100mほど行くと山王塚の入口に出る。入口付近に立てられた解説板によると、山王塚は南大塚古墳群18基の中でも最大の古墳で、上円下方墳としては関東最大のものだろうという。


鳥居をくぐり参道を登ってゆくと、塚上には一対の石灯籠の向こうに山王社の石祠が祀られていた。その左のほうに板碑型の石塔が立っている。


庚申塔 寛文12(1672)江戸時代初期の典型的な板碑型三猿庚申塔。下部には未敷蓮華が彫られていた。


石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉造立庚申塔」右脇に造立年月日。左脇に武州日東郡今福村。下部に正面向きの三猿が並んで彫られている。枠の部分に施主は個人名が刻まれていた。

大塚八坂神社 川越市大塚1-14[地図]


このあたり、入間川街道は国道16号線と平行して走っている。山王塚から16号線にでて狭山市方面に進み、関越自動車道の少し手前、道路右側に八坂神社があった。鳥居の横、参道右側の一角に小堂があり、小堂の中に地蔵塔、その右脇に駒型の石塔が立っている。神社の奥に見えているのは大塚新田公民館。


小堂の中 地蔵菩薩立像 享保6(1721)静かな表情でたたずむ丸彫りのお地蔵様。首に補修の跡はなく、錫杖・宝珠とも欠損なく驚くほど美しい。石塔はあるいは後から補われたものかもしれないが、蓮台から上は創建当時のものと思われる。


石塔の正面を彫りくぼめた中に「奉唱百萬遍供養」右に願主當村、左に善男善女。念仏供養塔である。


塔の右側面に造立年月日。左側面には入間郡大塚新田 施主 村中と刻まれていた。


小堂の右脇 馬頭観音立像 寛政8(1796)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。髪の中の馬頭はくっきり。


塔の右側面に造立年月日。こちらから見ると、正面の顔が三眼忿怒相なのに対して、側面の顔は慈悲相のように思われるのだがどうだろう?川越市西部地域ではこのような本格的な三面六臂の馬頭観音の像塔がかなり多く見られるが、その中のいくつかは同じように慈悲相を示すものがあった。この地域の特色と言えるのかもしれない。


左側面には武州入間郡大塚新田と刻まれていた。


下の台の正面に願主 講中拾六人と刻まれている。


台の右側面は無銘。左側面には十数名ほどの名前が刻まれていた。

 

西福寺 川越市南大塚2-3[地図]


国道16号線南大塚交差点の北東、交差点のすぐ近くに西福寺の入口がある。山門まで続く参道の両脇に多くの石塔が並んでいた。


参道右側、寛政元年建立の寺導に続いて六基の石塔がたっている。大きさも内容もまちまちだがいずれもかなり風化が進んでいた。


右端 庚申塔。駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。左右両脇に文字らしいものは見えるが、白カビも多くほとんどの部分は読み取りが難しい。右下にかすかに施主とだけ見える。他に紀年銘などは確認できなかった。


像の損傷も著しい。顔の真ん中には大きな穴が穿たれていた。石塔の台の上の面によくみられる「くぼみ穴」のように、石仏を打つことによって石仏の持つ霊力を自分のものとして分かちあう、そういった信仰心に基づくものなのか?それにしてもこれだけ深い穴はちょと珍しい。そういえば先日紹介した寿町の白山神社児童遊園前の馬頭観音塔の台のくぼみ穴も相当深く、ちょっと他に例を見ないほどだった。さらにこのあと紹介する西福寺の二基の地蔵塔も地蔵菩薩の顔の真ん中にこの青面金剛像と同じようにかなり深い穴があいている。入間川街道沿いのこの地域にそういう風習が色濃く残っていたのかもしれない。


足元に邪鬼と三猿。白カビにまみれてはっきりしないが、二鶏は見当たらなかった。


その隣 馬頭観音搭 文久2(1862)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。


一部に剥落が見られる左側面。願主は當寺 十二世 澄海。施主名が見当たらないが、もともとこの石塔は台の上に立っていて、その台のほうに銘が刻まれていたのかもしれない。


続いて順礼供養塔 明和5(1768)風化の為に銘がうすくなっていて一部は読み取れない。隅丸角柱型の石塔の正面、上のほうに横に「奉納」その下は3行。右に「地蔵大菩薩一万躰」中央に「秩父坂東西國四國」左に「□□□大日經八十八ヶ所」地蔵菩薩を1万体奉納し、観音霊場100ヶ所順礼をすまし、四国霊場88ヶ所に大日経を奉納したということだろうか。塔の左側面に紀年銘。右側面には施主とあり個人名、その隣に年 五十七才と刻まれていた。 


台の正面に入間郡 大塚村 施主 □□□と見える。塔の左側面の施主とこちらの施主、どういう関係になるのだろう?よく見るとどちらも姓は「山田」である。考えられるのは、右側面に57才とあるのは亡くなった時の年齢で、左側面の紀年銘(明和五年正月23日)は命日、息子さん?が信仰心厚かった故人の為に建てた供養塔なのかもしれない。財を成して、隠居されたあと全国順礼の旅にでたのだろうか。


その隣 地蔵菩薩立像。舟形の光背も像も風化が進み、全体に溶けかかっていてやはり銘の読み取りはかなり難しい。像の右脇、下のほうに薄く川越領大塚新田と刻まれていた。


よく見ると顔の真ん中が特に深く穴があいている。ここまで鋭角的な穴は珍しい。お地蔵様の顔に穴を穿つというのはどういうことだろうか?信仰心では説明できないような気がする。


続いて八日講供養塔 天明3(1783)「八日講」は初見。調べてみると湯殿山信仰の講らしい。角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、上のほう、蓮台の上に「羽黒山 湯殿山 月山」その下に「八日講供養塔」右脇に「奉納羽黒山□本社□□金□諸願成就處」左脇に「羽黒山□□□當村講中□□施主」と、なぜか羽黒山関係の講のように思える。


塔の左側面に造立年月日。続いて武刕入間郡大塚新田、その奥、町土?近村之助力。その下に10人の名前。右側面下部にもやはり10人の前があり、講中20人だろうか。


左端 馬頭観音塔。こちらも風化の為に今一つはっきりしない。正面に「馬頭觀世音」塔の右側面に紀年銘があるがこちらは読み取れない。左側面には大塚新田とあり個人名が刻まれていた。

 


参道の左脇にも六基の石塔が並んでいた。


左端 地蔵菩薩立像 天明7(1787)二段の台の上に石塔、敷茄子・蓮台を重ねて大型の丸彫りの地蔵菩薩像を載せる。錫杖の先は欠けているがその他に大きな損傷はないようだ。


石塔の正面を彫りくぼめた中、「佛告帝釈一有菩薩・・・・」で始まる八文字四行、合わせて32文字の偈文。こちらは「延命地蔵菩薩経」の一部。右側面に五文字四行の願文、その最後に造立年月日が刻まれていた。


塔の左側面、右から講中とあり、その下に大塚村 同新田。中央に世話人二名の名前。左に武州入間郡大塚村西福寺 願主 現住慈全と刻まれている。


その隣 敷石供養塔 天保6(1835)角柱型の石塔の正面「敷石供養塔」右側面に造立年月日。左側面に施主は個人名が刻まれていた。


続いて 地蔵菩薩立像 元禄5(1692)舟形光背に浮き彫りされた顔の真ん中の穴が痛々しいお地蔵様。白カビも多い。光背右脇に入間郡大塚村、左脇に造立年月日。このあたりが最もカビが厚く銘の読み取りに苦労した。資料「川越の石仏」では造立年不明となっていたが、干支「壬申」も確認でき、光背の形状も江戸時代初期のものであり、造立年は元禄5年で間違いないと思う。


足元の部分、右に施主とあり、続けて数名の名前が刻まれている。



その隣 地蔵菩薩立像 元文元年(1736)こちらも白カビが多く顔はのっぺらぼう。舟形光背の左脇に造立年月日。右脇「入間郡大塚村念佛講中爲二世安樂」講中仏である。


その奥、順礼供養塔 寛政9(1797)角柱型の石塔の正面、上部右から左へ「奉納」その下、中央に「二世爲安樂」右脇に西國 四國、左脇に秩父 坂東。塔の右側面に造立年月日。左側面に僧の名前が刻まれているが、願主だろうか。


右端 普門品供養塔 明治15(1882)自然石の正面に「普門品供養塔」真ん中あたりに断裂跡が見える。裏面に造立年月日。その下に二十数名の名前が刻まれていた。

菅原神社入口 川越市南大塚2-4[地図]


国道16号線の南大塚交差点の北東の角、菅原神社入口脇に馬頭観音塔が立っていた。


馬頭観音塔 寛政7(1795)駒型の石塔の正面 三面六臂の馬頭観音像を浮き彫り。右側面に造立年月日。


髪の真ん中に馬頭はしっかり。尊顔は三面ともつぶれていて、忿怒相なのか慈悲相なのかはっきりしない。


足元の下の部分に大塚村とあり、願主一名、世話人一名、さらに同 惣村中と刻まれていた。


塔の下の四角い台には道標銘が刻まれている。正面に「江戸」左側面に「をごせ」右側面は土埃がこびりついていて残念ながら銘を確認することはできなかった。

 

南大塚三差路 川越市南大塚6-4[地図]


国道16号線の南大塚交差点から太田街道を南に向かい、西武新宿線南大塚駅の東の踏切を越えてさらに進むと、やがて道はゆるやかに右にカーブする。その100mほど先の三差路の角に二基の石塔が立っていた。右の小さな石塔はかなり風化が進み判然としないが像塔らしい。この三差路を左に入り1Kmほど進むと今福の明見院の交差点に出る。


左 馬頭観音塔 寛保2(1742)舟形光背に三面八臂の馬頭観音立像を浮き彫り。「川越の石佛」では市内最古の馬頭観音塔とされていたが、すでに見てきたように仙波町の長徳寺に貞享5年(1688)、今福の明見院に元文2年(1737)の馬頭観音塔を見てきた。そうなると市内三番目に古い馬頭観音塔ということになるのだろうが、それでも三面八臂のこの本格的な馬頭観音立像は貴重なものと言っていいだろう。白カビが多く、光背の一部は損傷、銘は読みにくい。頭上の馬頭は明確。その上に刻まれた梵字は観音菩薩を表す「サ」のように見える。


正面と右の顔はつぶれていてはっきりしない。この角度からは合掌手以外に三本の腕がはっきりと確認できた。


左の顔は比較的きれい。口はへの字で目をいからせ、どうやらこちらは忿怒相のようだ。


光背右脇 前掛けのひもの上あたりに「奉」と見えるがその下の部分は難読。


このあたりからなんとか読み取れる。「□□觀世音菩薩爲二世安穏」上のほうは「奉造立馬頭觀世音・・・」かもしれないと思って何度もみてみたがどうしてもうまくは読み取れなかった。


左脇に造立年月日。このあたりも若干破損しているが、ぎりぎりなんとか読み取れる。


光背の左下の部分には武刕入間郡大塚村と刻まれていた。