小ケ谷・小室・上野田町の石仏

小ケ谷自治会館 川越市小ケ谷782南[地図]


入間川に架かる川越橋の南東、川越市保健所の西にある小ケ谷自治会館の南脇に石仏が集められていた。


ブロックでできた小堂の中に三基の石仏が、きれいなお揃いの頭巾と前掛けをして並んでいる。


右 如意輪観音坐像 寛政12(1800)高い角柱型の石塔の上、敷茄子に蓮台を重ねてその上に二臂の丸彫りの如意輪観音坐像が載っている。


石塔の正面中央に「如意輪觀世音菩薩」両脇に造立年月日。左側面に世話人二名の名前。右側面は全面的に剥落、銘は確認できなかった。


中央 地蔵菩薩立像 享保9(1724)丸彫りの地蔵像は宝珠を欠き、首に補修跡が残っている。頭部は本来のものではないのかもしれない。


厚い敷茄子の正面の彫り物は一部破損していてセメントで補修されていた。石塔の正面、右から造立年月日、小ケ谷村施主 邦譽一西。塔の両側面にも浮彫りが施されている。


左 地蔵菩薩立像 安永6(1777)宝珠と錫杖の先を欠き、やはり首に補修跡がある。
 

石塔の正面、梵字「キリーク」の下「念佛講」両脇に造立年月日。塔の右側面に施主 下小ケ谷村。左側面に願主一名の名前が刻まれていた。


小堂の左脇、ブロック塀の前に六基の馬頭観音塔が並んでいる。


右端 馬頭観音塔 天保12(1841)角柱型の石塔の正面 大きく独特な書体で「馬頭觀世音」左側面に小箇谷村内路中。


右側面に造立年月日。□保十二とあるから享保か天保。上の文字が天には見えず享保だと思ったが資料では確かめると天保になっていた。独特な書体のため読みにくい。


2番目 馬頭観音塔  慶応2(1866)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」個人の造立で馬の供養塔だろう。


3番目 馬頭観音塔 明治年間。角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」これも個人の造立で、日清戦争で軍馬として徴用された愛馬の供養塔だった。


残る三基も個人によって造立された馬頭観音塔。右は正面が破損しているが馬頭観音の文字塔と思われる。真ん中は像塔なのだが風化が著しく今一つはっきりしない。左は明治23年造立の文字塔、施主は個人名。江戸時代後期から明治時代に小ケ谷村のこの地域では多くの馬頭観音塔が立てられたようだ。

 

小ケ谷 成田山 川越市小ケ谷245[地図]


県道15号線、西川越駅を越え西に向かう。初雁橋の少し手前、斜め左に分かれる道に入り道なりにしばらく進むと、道路左側のコバルトブルーの建物が立つ同じ敷地の隅に多くの石仏が並んでいた。堂宇も墓地もないが、ここが「成田山」の跡地らしい。


雨除けの下に大きな丸彫りの地蔵菩薩立像 安永10(1781)二段の台に石塔。敷茄子、蓮台を重ねた上に丸彫りの地蔵立像。3mを超えようかという大きなお地蔵様。


錫杖宝珠も欠損なく風化もほとんど見られない。尊顔は穏やかで堂々としたたたずまい。


石塔の正面と右側面の銘は薄く読みにくいが願文のようだ。左側面中央に造立年月日。その両脇に乃至法界、一雨普潤と刻まれていた。


その左脇に三基の石仏が並ぶ。いずれも損傷が甚だしく、はじめて現場で見たときはその異様な姿に、これらの石仏は詳細不明とするしかないと考えた。


ところが「川越の石佛」ではこの三基の石仏についてもしっかりと記載されていた。右 地蔵菩薩立像。塔の上部が大きく破損、ちょうど頭部のあたりがそっくり欠落。カビも厚くこびりつく。改めてよく見ると、錫杖の柄らしきものがうっすらと残り、その衣装の様子からも「地蔵菩薩像と推測」という資料の判断は妥当と思われる。


塔の右側面に紀年銘が一部残っているが、肝心の年号が欠けていた。「四辛未年」で該当するのは元禄4(1691)寛延4(1751)明治4(1871)だが・・・


中央 資料では「馬頭観音立像と推測」となっている。体の中心部がかなり深く削られていて、顔のあたりも原型をとどめず、塔の表面はカビも厚くちょっと見にくいのだが、よく見てみると六臂の観音菩薩像のようだ。馬頭も銘も確認できないが、馬頭観音である可能性は高いように思われる。足元の部分の銘は施主 上下 小ケ谷村ではないだろうか。


こちらも右側面に銘が残っているが、残念ながら年号などは読み取れなかった。


左 資料では「馬頭観音立像と推定」こちらは肩から上の部分が溶けているのか、様子が全くうかがえないのだが、合掌手以外に二組の腕は確認でき、衣装の様子からもやはり馬頭観音と思われる。塔の右側面は無銘。左側面に小ケ谷村 施主とあり、個人名が刻まれていた。

 

法心寺 川越市小室494[地図]


川越線西川越駅の400mほど東の踏切を北へ渡ってすぐ、左側に法心寺の入口がある。目の前は広い駐車場になっていて、その右の奥のほうに山門が立っていた。


山門右側 地蔵菩薩立像 安永5(1776)二段の台、石塔部、敷茄子、蓮台の上に丸彫りの堂々たるお地蔵様。石塔の正面には偈文が刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。三尺九寸の地蔵菩薩尊像と記されていた。


左側面に造立比丘 蓮宗社多?謹誌。続いて武刕入間郡小室村 現住比丘大巖叟?代。造立比丘、現住比丘などあまり馴染みのない表現だが、講中などのかかわりはないようだ。


その右側に宝篋印塔様式の石塔が立っていた。三段の台。屋根式の笠を持つ。


円柱形の塔身部の正面に梵字「ア」。基礎の正面を彫りくぼめて、光明真言曼荼羅に囲まれた弘法大師坐像が浮き彫りされていた。


塔身部と基礎には蓮台、敷茄子と上の台の正面に彫り物を施し、とても凝った作りになっている。台の正面両脇に「上座」「法尼」二つの戒名が刻まれていた。


塔の右側面、奉巡拝とあり、観音霊場百ヶ所、四国霊場、全国神社仏閣まで、巡礼供養塔である。


左側面に五行にわたり願文。最後に刻まれているのは法心寺のご住職と思われる。


裏面に造立年月日。続いて川藩志儀町住とあり、二名の名前。左は同行行者妻與志となっていてどうやら二人はご夫婦のようだ。志儀町(志義町)は「川越十カ町」の一つ。時の鐘のある多賀町の南、穀物問屋が軒を連ねた町ということで、財を成したご夫婦が隠居して一緒に諸国巡礼を果たした記念の供養塔を造立したものだろうか。正面の「上座」「法尼」二つの戒名はこのご夫婦のものだろう。商工業が発展し、江戸を中心にはなやかな町人文化が栄えたとされるこの文化・文政期に、この川越の町でもこのような有力な商人たちが活躍していたということなのだろう。

 

野田町庚申塚 川越市上野田町31[地図]


県道15号線の今成交差点から南へ進むと県道160号線に入り脇田新町で国道16号線に合流する。今成交差点からすぐのところ、県道160号線から分かれて東のほうを県道とほぼ並行して走る道は「河岸街道」で、そのまま進むと川越街道方面にでる。こちらは重要な古道と思われる。今成交差点から300mほど南のT字路の角に小堂が立っていた。資料「川越の石佛」では「野田町庚申塚」と紹介されているが、庚申塔はなく、五基の地蔵塔が並んでいる。


資料「川越の石佛」は昭和48年刊行で、調査時には堂内に三基の地蔵塔が並び、うち一基は享保5年造立の立像、さらにやはり享保年間の半跏坐像があるということだったが、現在は五基の丸彫り立像となっていた。それぞれ本来の台を欠き銘が確認できずその詳細は全く分からない。この約50年間のあいだにあちこちに立っていたものが集められたのだろうか。


石質から見て中央のお地蔵さまが一番古そうで、こちらが資料にあった享保5年のお地蔵様かとも思うのだが、もちろん確証はない。


明治時代初頭に起こったという「廃仏毀釈」の跡だろうか、五体のお地蔵さまはいずれも首に補修跡があり顔はのっぺらぼうだった。

市立野田中学校北路傍 川越市上野田町20[地図]


県道160号線を今成から南へ進み、川越西郵便局のある信号交差点を越えて400mほど先の信号交差点を右折すると、道路右側に石塔が南向きに立っていた。石塔の前の道をそのまま西に進むと尚美学園大学の北を通って大田街道にでる。石塔の後ろ、白い柵の向こうには赤間川(下流は新河岸川)が流れている。


石橋供養塔 文政2(1819)重量感のある角柱型の石塔の正面、太い書体で「石橋供養塔」


塔の右側面に造立年月日。左側面には野田村中とあり、その下に世話人二名の名前が刻まれていた。

 

小室三差路 川越市小室612[地図]


「野田町の庚申塚」の少し北の交差点で県道160号線を横切り西に向かうと、道は住宅街の間を抜け、やがてT字路で大田街道に出る。その200mほど手前の三差路に小堂が西向きに立っていた。写真右の道は野田町方面、左の道は住宅街を抜けて法心寺付近に出る。


小堂の中、中央に地蔵菩薩塔。その両脇に小さな石塔が並んでいた。堂内にはブロックの壁に数枚の仏画が立てかけられ、いつ訪れてもきれいな花や団子が供えられている。


地蔵菩薩立像 延宝4(1676)舟形の光背は風化が進み、縁も表面もデコボコになっていた。錫杖も一部が欠け、顔もやはりのっぺらぼうだが、赤い前掛けは古いものの上に新しいものが重ねられていて、今でも地元の人たちに大事にされているもののようだ。


右脇に造立年月日。この状態なので銘の読み取りにはかなり苦労したが、ライトなどを使ってなんとか紀年銘は確認できた。


光背左脇には小室念佛講中と刻まれている。


資料には両脇に馬頭観音と書かれていたが、左脇に立つのは庚申塔ではないだろうか?風化が甚だしく像もその周りもはっきりしない。紀年銘も確認できないが、左下に嶋村氏と施主名だけが残っていた。


右脇の石塔は下半分が完全に欠けている。上部もかなりおおきく損傷。塔全体、表面は溶けてしまってあいまいで、普通には正体不明とするべきかもしれないが、合掌している様子などから、資料のいうようにこちらは馬頭観音立像かもしれない。

大田街道T字路 川越市小ケ谷89付近


上の地蔵塔の小堂から西に進み、大田街道にぶつかるT字路のブロック塀の中に小堂が立っていた。


庚申塔 享保6(1721)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


近づいてみるとかなり風化が進んでいて、顔はつぶされたものか、これものっぺらぼう。像の右脇に「奉造立青面金剛供養諸願成就所」その横に□衆六十人。左脇、上のほうに造立年月日。その下に講中十九人。願主 圓福寺住 覚如と刻まれている。


足の両脇に二鶏。足元には奇形児のような姿の邪鬼。その下に正面向きの三猿が彫られていた

 

最明寺 川越市小ケ谷61[地図]


川越水上公園のすぐ東に、鎌倉時代北条時頼によって創建されたと伝えられる最明寺がある。入口から奥に進み山門の前に立つと、門の向こう、参道の右側には石灯篭が並び、左側にはレリーフをはめ込んだ塀が続き、その先正面に大きな屋根の本堂が見えた。


本堂左手前には新しい「子育て地蔵」が立ち、その向こうに小堂が立っている。


小堂の中 六地蔵菩薩立像。紀年銘などは確認できなかったが、かなり新しいものと思われる。


小堂の左脇に三基の石仏が並んでいた。六地蔵同様、こちらも派手な頭巾と前掛けをしている。


右 如意輪観音坐像 安永9(1780)四角い台の上に角柱型の石塔。敷茄子・蓮台を重ねてその上に丸彫りの如意輪観音坐像だが、蓮台以下の部分と石質が違っていて、この二臂の如意輪観音像は当初からの物では無く、あとから再建されたものと思われる。


角柱型の石塔の正面 右脇に武州入間郡小ケ谷村、中央下のほうに「講中」左脇に造立年月日が刻まれていた。


中央 地蔵菩薩立像 寛政10(1798)角柱型の石塔の正面、上部に梵字「ア」、中央に安永2年(1773)、寛政10年の命日を持つ二つの戒名。「信女」「法尼」ふたりの女性の墓石ということになる。


塔の右側面に造立年月日。左側面に施主 地蔵堂のたよ と刻まれていた。この「たよ」という女性、正面に戒名を刻まれたふたりとどういう関係なのだろうか?なにか物語がありそうな気もする。


左 地蔵菩薩立像 享保9(1724)丸彫りだが欠損なく尊顔もクリア。ただ蓮台の中心から少しずれて立っていて、もしかしたら一度落ちたものかもしれない。


角柱型の石塔の正面に造立年月日。右側面に小ケ谷村中 施主。


左側面に願主だろうか、二人の僧の名前が刻まれていた。右の「邦譽一西」は3月21日の「小ケ谷自治会館の石仏」で紹介した小堂内中央の地蔵菩薩塔の施主と同一人物と思われる。今は東武東上線・川越線によって分断されているが、小ケ谷村は入間川近く、北は川越橋から南は最明寺付近まで、田園地帯に広がる大きな村落だったようだ。