平方の石仏

 

武里駅入口交差点東路傍 越谷市平方1762


国道4号線の武里駅入口交差点から東に入ると、小さな川を越しその先は三差路になる。ここを左に入ってすぐまた右に入る路地の空き地、大きな雨除けの下に三基の石塔が並んでいた。


右 地蔵菩薩立像 延宝元年(1673)舟形の光背の上部に梵字「ア」その下に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像を浮き彫り。表面はさすがに風化のために丸くなっている。


光背左上に造立年月日。続けて武州崎玉郡平方村。光背右には「奉造立地蔵菩薩念佛講行五十人為二世安穏敬白」と刻まれていた。


中央、庚申塔 正徳5(1715)大きな宝珠を持った唐破風笠付角柱型。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。三角形にとぐろを巻いた蛇を頭に置いた青面金剛。顔はつぶれている。


足下の邪鬼は正面向き、腕を張り身を乗り出す。その下に二鶏を薄く浮き彫り、続いて正面向きの三猿。こちらも顔が潰れていた。


塔の右側面中央に造立年月日。下部両脇に武州平方村 講中二拾人。左側面にはその20人の名前が大きな文字で刻まれている。


左 石橋供養塔 宝暦12(1762)角柱型の石塔の正面 大きく「石橋建立供養塔」と刻まれていた。国道4号線 日光街道から平方に入ってすぐ渡った小さな川に架けられていた石橋の供養塔らしい。表面は風化のためだろうか、遠目には文字がはっきりしない。


近づいて見ると上部中央を楕円形に彫り窪めた中に「南無阿弥陀佛」両脇に浅草観世音 四十八月参と刻まれている。


下部右下に願主 信譽意覚、この願主が浅草観音に48か月毎月お参りをしたという。左下には村々 江戸講中。古くなった土橋から石橋に架け替えるに際し、この橋を利用した近隣の村々、交流があった江戸の人びとの助力があったのだろう。塔の右側面に造立年月日。左側面には武州新方領平方村と刻まれていた

 

女帝神社 越谷市平方25-1


武里駅入口東の三差路を左に曲がり北へ向かうと、その先は古利根川のあたり、浄土宗の古寺林西寺に着く。三差路から100mほど、道路左側に女帝神社の入り口があり、細い参道の奥に石鳥居が立っていた。


鳥居をくぐって左に曲がり、二の鳥居の先が女帝神社の拝殿。手前はブランコなどもある広場?になっているが、その隅に10基ほどの石塔が並んでいた。


左端 不明塔。上部が大きく欠け、わずかに文字が見えるが銘の意味は分からない。



隣 金毘羅大神塔 明治26(1893)正面に「金毘羅大神」裏に造立年月日。台の正面は氏子中と刻まれていた。


3番目 普門品供養塔 弘化3(1846)自然石の正面「普門品供養塔」両脇に造立年月日。下部中央に「講中」右脇 平方村 横手組、左脇に南組と刻まれている。横手と南、二つの講中が協力して建立したということだろう。


続いて 庚申塔 文化5(1808)角柱型の石塔の正面に「青面金剛」その下に可愛らしい三猿が彫られている。塔の右側面に造立年月日。左側面には大きな文字で「講中」と刻まれていた。


5番目 庚申塔 天明4(1784)駒型。下部には12名の名前が刻まれている。


日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の髪の中にドクロの顔が見える。足の両脇に二鶏を薄く浮き彫り。下部には邪鬼が這いつくばり、その下には正面向きの三猿が彫られていた。


続いて 庚申塔 寛政8(1796)角柱型の石塔の正面「青面金剛」こちらは三猿がいない。塔の右側面に造立年月日。下の台の正面中央に「講中」右脇に横手、左脇に南。これも二つの講中で作られたものだ。


7番目 普門品供養塔 文政5(1822)角柱型の石塔の正面「普門品供養」塔の左側面に造立年月日。右側面には天下泰平、國土安穏と刻まれていた。


その奥8番目は庚申塔?日月雲 中央の矛のようなものは何だろう?その下は一部破損してしまっているが三猿と思われる。その下にいくつか人の名前らしい文字が見える。風化も激しく紀年銘などは確認できないが、これが庚申塔だとしたら初見になる。残念ながら加藤氏の資料にはこの石塔については記載がなかった。


続いて 天満宮 天保6(1835)石祠の正面に「天満宮」右側面に造立年月日。


右端 御嶽神社 明治14(1881)角柱型の石塔の正面を深く彫り窪めた中に「御嶽大神」左側面に造立年月日が刻まれている。



10基の石塔と向かい合うように、境内奥のブロック塀の前にも多くの石塔が並んでいた。卵塔はもちろん、地蔵菩薩像、如意輪観音像、大日如来像なども「不生位」などと刻まれていて、そのほとんどは僧侶の墓石である。奥のほうに資料に記載がある「六十六部供養塔」らしきものを見つけたが、白カビに覆われ文字を読むことができないような状況だった。20年の間に風化が進んだのだろうか?

 

女帝神社北路傍 越谷市平方131


女帝神社から林西寺へと向かう道を500mほど行くと、左手の路傍に二基の石塔が立っていた。


左 庚申塔 寛政7(1795)駒形の石塔の正面中央に大きく篆書体で「青面金剛」その両脇に造立年月日。下部には10名の名前が刻まれている。


塔の左側面 向 大どまり道。下部には5名の名前。右側面の下部にも5名の名前が刻まれていて、合わせて20名ほどの講中だろう。


右 地蔵菩薩立像 昭和46(1971)造立は極めて新しいが、「勝地蔵」とあり、古くから村に祀られていたものを再建したものかもしれない。

西林寺西路傍 越谷市平方343


さらに北へ進み次の信号交差点を左に曲がるとすぐ右手が林西寺の入口。その前を通り過ぎて少し行くと左手に大きな病院があり、その先の小さな用水路を越えると春日部市に入る。この市境路傍に6基の石塔が並んでいた。天草病院の北西角になる。


前列左 石橋供養塔 宝暦6(1756)塔全体を白カビが覆いつくしていて、ところどころかすかに文字が読める。正面中央上部に「南無阿弥陀佛」その下に「石橋供養塔」上部右脇に造立年月日、左脇に施入面々二世安樂。下部両脇には願主名があるらしいがこちらはうまく読み取れなかった。


塔の左側面に備後、粕壁、大枝、大泊など、春日部市、越谷市の18の周辺の村々の名前が刻まれている。石橋は当時市境を流れていた会野川にかけられ、平方村と対岸の備後村を結んでいたものらしい。この頃の平方村は越ケ谷宿よりも粕壁宿との関係が深かったようだ。


前列中央 馬頭観音坐像 文化5(1808)忿怒相の観音像の下に「馬頭観音」さらにその下に平方村馬持中とあり、7名の名前が刻まれている。


前列右 馬頭観音立像 造立年不明。舟形の光背に馬頭観音立像を浮き彫り。下部は土中に埋まっていた。立派な馬頭を頭上に乗せた観音様は静かな表情で佇んでいる。


後列左 馬頭観音坐像 寛政3(1791)像の下に「輿樂離三」これは初見だが仏教用語だろうか?その両脇に造立年月日が刻まれていた。


後列中央 地蔵菩薩立像 造立年月日不明。舟形の光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。カビなどのために顔ははっきりしないが全体のバランスはいい。光背右脇「設我得佛國有地獄餓鬼畜生者不取正覚」左脇は梵字で「南無阿弥陀仏」をあらわすものらしい。


後列右 馬頭観音塔 嘉永2(1849)小型の角柱型の石塔の正面に「馬頭観  」下部は土中にあり確認できない。その両脇に造立年月日が刻まれていた。

 

林西寺 越谷市平方249


越谷市の北端。お寺の裏は古利根川が流れ、西に歩くとすぐ春日部市に入る。信号交差点のすぐ西、寺標の立つ入口から静かな参道を歩いてゆくと、山門の手前左手に石塔が立っていた。


庚申塔 万延元年(1860)大きな山状角柱型の石塔の正面、日月雲の下に「庚申塔」台は二段になっていて、上の台の正面におどけた三猿が彫られている。下の台の正面には15名の名前、右側面に5名、左側面にも4名、合わせて24名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面には武州埼玉郡平方邨。正面に三猿が彫られた上のほうの台の両側面には小さく地名が刻まれている。右側面 左 赤沼渡シ場、左側面 右 粕壁道。赤沼渡シ場は古利根川の対岸、春日部市の赤沼の渡しのことだろう。


山門を入ってすぐ左、ブロック塀の前にも6基の石塔が並んでいた。

左端 庚申塔 嘉永元年(1848)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」山門手前の庚申塔と良く似ている。塔の右側面に造立年月日。左側面に武州埼玉郡平方村。


上のほうの台の正面に三猿。下の台の正面にはセハ人とあり、23名の名前が刻まれていた。


その隣 庚申塔 天保4(1833)やや小型の角柱型の石塔の正面「庚申塔」こちらは日月を持たないが、他の部分、上の台の三猿、その下のセハ人以下、21人の名前が刻まれている点などはまったく同じ内容で、山門前の庚申塔も含めて、3基の庚申塔の台には似たような名前を見ることができる。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡平方邨と刻まれていた。


3番目 庚申塔 完成10(1798)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の顔のあたりは削り取られ原形をとどめない。白カビ、苔も多い。


足の両脇に二鶏。足下に邪鬼。その下に三猿。さらに台の正面には平方村 上組 講中と刻まれていた。


続いて新六阿弥陀標塔 天明8(1788)角柱型の石塔の正面「新六阿弥陀四番」塔の右側面に造立年月日。左側面に願主 舟渡村 受道と刻まれている。


右から2番目 地蔵菩薩立像 宝永5(1708)舟形光背上部に梵字「カ」その下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。カビと苔のために顔などの表情がはっきりしない。


光背右脇「奉造立尊像一躯日参比丘   」下部は欠けていた。左脇に相誉妙頓、その下に造立年月日が刻まれている。


右端 地蔵菩薩立像 宝暦13(1763)舟形光背型、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像。江戸時代も中期になるにつれ光背の余白部分が少なくなる。

 
丸顔の地蔵菩薩。近づいてみてもカビ・苔が多く、文字の読み取りに苦労する。顔の両脇に天下泰平・日月清明。光背右脇「奉納大乗妙典日本廻國供養塔」左脇に造立年月日。その下に通譽圓心法師と刻まれている。下の台の正面と右側面に施主名などがあるらしいが、彫りが薄すぎて読み取ることはできなかった。

 


本堂へ向かう参道の左側に墓地がひろがっている。その入口に5基の大型の石塔が並んでいた。


右端 六字名号塔 造立年不明。宝珠付きの唐破風笠をもった円柱型の石塔。正面を窓状に彫り窪めた中に「南無阿弥陀佛」蓮台、請け台、基壇が付き、格調高い。


裏面に「三界萬霊六親眷属 七世父母 有無縁等」両脇に二つの戒名が刻まれている。


その隣 六字名号塔 享保11(1726)こちらも宝珠付き唐破風笠を持つ角柱型の石塔の正面に「南無阿弥陀佛」


正面下部に善光寺四十八度 参詣願成就とある。塔の左側面に「南無大勢至菩薩」両脇に造立年月日。下部に願主個人名が刻まれている。


塔の左側面に「南無観世音菩薩」三面合わせて阿弥陀三尊の文字塔になる。裏面に「法界萬霊有無兩縁等」両脇に四つの戒名。下部には中央に戒名を刻み、右脇 勧化村郷千五百人、左脇 報謝宿六十七人。大規模な造塔だったことがわかる。


続いて 六字名号塔 貞享4(1687)隣の石塔と比べるとやや規模は小さくなるがこちらのほうが40年ほど早い。唐破風笠付角柱型の石塔の正面、梵字「キリーク」の下に「南無阿弥陀佛」右脇に安浄福田遊心樂土、左脇に耕衆萬人願其往生と刻まれていた。


塔の右側面 梵字「サ」の下「南無観世音菩薩」右脇に武州崎玉郡平方村とあり個人名、左脇には林西寺仰譽代。


左側面 梵字「サク」の下「南無大勢至菩薩」こちらもやはり阿弥陀三尊の文字塔となっている。上部両脇に造立年月日。下部には願司 到譽直心。裏面には「三界萬霊六親眷属等」その両脇に六つの戒名。


左から2番目 六地蔵菩薩立像を浮き彫りにした唐破風笠付六面石幢 享保6(1721)


静かな表情で佇む六地蔵菩薩。正面とその右の面に四つの戒名、正面の左の面に造立年月日が刻まれていた。


左端 敷石供養塔 明和3(1766)二段の台の上に角柱型の石塔。その上に丸彫りの地蔵菩薩立像。大きな欠損もなくやわらかな笑みを浮かべている。


塔の正面に「敷石供養塔」右側面に「三界萬霊」左側面には10名の僧侶の名前が刻まれる。造立年月日は塔の裏面に刻まれていた。


台の正面 右端に寄進惣檀方中とあり数人の名前が刻まれるが、左のほうには江戸深川 甚助とあり、意外に広い範囲の人びとの助力があったようだ。


台の右側面には藤塚、赤沼、牛嶋など古利根川左岸の16の村の名前があり、最後に右勧化願主 藤塚 源内。いっぽう左側面には平方、備後、大枝、粕壁、間久里など古利根川右岸の村々の名前があり、右勧化願主 當村 東五良兵衛。やはりこの平方地区は江戸時代には粕壁の村々との交流が盛んだったのだろう。続いて最後に石工 江戸白金 小嶋藤左ェ門と刻まれていた。敷石供養塔としてはこれほど立派な造塔はあまり見かけたことはない。当時の林西寺の隆盛ぶりを示すものと言えるだろうか。

 

平方北通り路傍 越谷市平方373付近


林西寺の東の信号交差点から北へ向かい道なりにすぐ右に折れると平方北通りに入る。この通りは古利根川の南の地域を船渡方面に向かって南東にまっすぐに走っている。信号交差点から200mほど進むと南側路傍の消防団の小屋の脇に小堂があった。


不動明王坐像 文久4(1864)塔の左側面に平方村東組講中、右側面には造立年月日が刻まれている。


燃え盛る火焔を背に剣と羂索を持った不動明王が座る。下には蓮華を持った矜羯羅童子と半跏座で怖い顔をした制多迦童子が彫られていた。

鹿島神社 越谷市平方489


さらに200mほど進むと道路左側に鹿島神社の入り口がある。長い参道の先に石鳥居が立っていた。


鳥居をくぐってすぐ左側に普門品供養塔 安永8(1779)塔の正面、梵字「サ」の下に「普門品供養塔」両側面に造立年月日が刻まれている。


拝殿の右奥に三基の庚申塔が並んでいた。後ろの竹藪の向こうは古利根川の土手になっている。


右 庚申塔 安政2(1855)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」塔の右側面に造立年月日。左側面に武州崎玉郡平方村 東組講中。台の右側面に世話人とあり、16名の名前、左側面にも15名の名前が刻まれていた。


台の正面の三猿。中央の横座りの猿は左手を耳に当て右手はどうぞというふうに、なんだか人間臭いポーズをとっている。


その隣 庚申塔 天保9(1838)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」塔の左側面に造立年月日。右側面に平方村東組。台の右側面には世話人とあり、その下に6名の名前、続いてまた6名の名前、左側面にも13名の名前が刻まれていて、隣の安政2年の庚申塔とほぼ同じ構成になっていた。字の様子なども似ている。同じ石工、あるいは同じ工房の仕事だろうか。


台の正面の三猿。顔のあたりに白カビが多く表情がわからないのは残念だが、のんびりとした穏やかな雰囲気がただよっている。


左 庚申塔 寛政10(1798)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」塔の右側面に造立年月日。左側面に東組講中。台の両側面に合わせて19名の名前が刻まれていた。


台の正面の三猿。右の二基の庚申塔の三猿とは様子が異なるが、正面向きの三猿を見慣れている目には、ここの三基の庚申塔の三猿はいずれもちょっとユニークな印象を受ける。岩槻の「自由奔放な三猿」ほどではないが、地理的にも近く、その影響があるのかもしれない。



拝殿の左奥に 水神宮 嘉永4(1851)石祠の正面に「水神宮」右側面に造立年月日。左側面に平方村講中と刻まれていた。

砂間香取神社 越谷市平方685


鹿島神社の入口からさらに500mほど進むと、道路左側に香取神社がある。木の鳥居の向こう、参道両脇に向かい合うように二基の石塔が立っていた。


参道左 庚申塔 角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」台の正面に彫られた三猿がかわいい。


塔の右側面に造立年月日。左側面に平方村東組。台の両側面に合わせて27名の名前が刻まれている。


参道右 庚申塔 安永6(1777)駒型の石塔。日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。髪の中央に蛇。足の両脇に二鶏。足下には大きな邪鬼が横たわりその下に三猿。いずれもしっかりした彫りで風化も少ない。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉建立庚申供養」と刻まれていた。

 

外崎墓地 越谷市平方890向かい


平方北通りを進み、国道4号線のバイパスの平方北交差点を越えて少し行くと左手に墓地があった。入口近くに小堂が立っている。


堂の中 不動明王坐像 元治元年(1864)ガラス越しの撮影だが朱のはげた様子など妙に生々しい。不動明王の坐る岩座の下には矜羯羅童子と制多迦童子が彫られていた。蓮の持ち方、姿勢などが昨日見た林西寺の東の路傍の小堂の中の不動明王坐像と良く似ていて、年号は文久と元治と異なるが実は同年の造立である。


墓地に入ってすぐ右側、雨除けの下に三基の石塔が並んでいた。


右 六地蔵塔 文化2(1805)笠付角柱型の石塔の三面にぞれぞれ二体づつ地蔵菩薩立像を浮き彫り。裏面には造立年月日が刻まれている。正面の二体の地蔵菩薩像の下の部分に「三界萬霊」台の正面には戸崎組中と刻まれていた。


中央 十三仏石塔 文化10(1812)駒形の石塔の正面に十三仏を浮き彫り。塔の右側面 上部に「諸願成就供養塔」その両脇に造立年月日。下部に二つの戒名と紀年銘。塔の左側面にも四つの戒名が刻まれていた。


十三仏を見てみよう。最上段に宝冠を戴き、剣と宝珠を持つ虚空蔵菩薩。二段目は右 智拳印を結ぶ金剛界大日如来、中央は右手降魔印の阿閦如来、左は定印を結ぶ阿弥陀如来。三段目右 左手に薬壺を乗せた薬師如来、中央 左手に蓮華を持つ観音菩薩、左は合掌する勢至菩薩。


続いて四段目は右 禅定印を結ぶ弥勒菩薩、中央は錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩、左 蓮華を左手に持ち蓮座に結跏趺坐する普賢菩薩。最下段 右 剣と羂索を持つ不動明王、中央 施無畏印 与願印を結ぶ釈迦如来、左はお経を乗せた蓮華と剣を持つ文殊菩薩、以上で十三仏になる。


左 六字名号塔 寛政4(1792)浄土宗開祖 法然上人の丸彫り坐像を乗せた角柱型の石塔の正面「南無阿弥陀仏 百万遍 三億 供養塔」その下に戸崎組中。塔の両側面に造立年月日が刻まれていた。

外崎稲荷神社 越谷市平方846


外崎墓地の奥に稲荷神社がある。赤い鳥居の左脇に石塔が立っていた。


庚申塔 文化4(1807)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」下の台の正面に右向き二匹、左向き一匹の構図の三猿を彫る。


塔の右側面に造立年月日。左側面には新方領平方村 戸崎講中と刻まれていた。

川久保旧道三差路 越谷市平方963


外崎墓地からさらに南東に進むと県道80号線に出る。これを越え少し先の交差点を左折すると、三差路のところに二基の石塔が祀られていた。左の道の先は古利根川の土手で、このあたりに赤沼の渡し場があったらしい。


左 馬頭観音塔 文政12(1829)正面 梵字「カン」の下「馬頭観音」その両脇に造立年月日。下部両脇には平方村 馬持中。左側面下部に世話人二名の名前が刻まれている。


右 馬頭観音塔 嘉永4(1851)下部はコンクリートの中に深く埋まり、ところどころ破損している。塔の正面「馬頭観世音」右側面に造立年月日が刻まれていた。

 

コスモタウン平方自治会館北T字路 越谷市平方1431


国道4号線越谷春日部バイパスの平方工業団地入口交差点から西に向かう道を進むと、500mほど先でT字路にぶつかる。その歩道の奥に石塔が立っていた。


大乗妙典供養塔 宝永6(1709)角柱型の石塔の正面、梵字「キリーク」の下「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」


左側面は梵字「サク」の下に武州新方領平方村司主惣旦那中。


右側面 梵字「サ」の下に造立年月日。さらに裏面には「三界萬霊六親眷属七世父母等」と刻まれていた。

覚山坊墓地 越谷市平方1403


バイパスの交差点から進んできてT字路の100mほど手前を右に曲がると道路右側に墓地がある。入口付近に小堂が立っていてその前に卵塔などの石塔が並んでいた。中でも舟形の光背を持った二基の像塔が目を引く。


左 千手観音立像 寛文12(1672)合掌する手と宝珠を持つ手を加えると十四臂。光背上部右脇に「奉造立念佛講供養」さらにその右に造立年月日。左脇に武州崎玉郡平方村。左下には道行八人 諸旦那敬白と刻まれている。



右 庚申塔 万治3(1660)大きな光背を持つ六臂の如意輪観音坐像。光背上部両脇に造立年月日。右下に「庚申之供養十二人」左下には武州葛飾郡新方荘平方村と刻まれている。江戸時代初期、青面金剛が庚申塔の主尊として定着する以前、阿弥陀如来、地蔵菩薩などを主尊とする庚申塔が見られるが、主尊を如意輪観音とする庚申塔は珍しい。


祠の中 不動明王坐像 明治13(1880)炎の光背の前に剣と羂索を持つ不動明王。岩座の下に矜羯羅童子と制多迦童子。平方北通り路傍、外崎墓地、二カ所で見かけた不動明王と良く似ている。

山谷香取神社 越谷市平方1275


墓地の前の道をさらに北へ進むとその突き当りに香取神社があった。


拝殿の左奥 庚申塔 寛政8(1796)角柱型の石塔の正面 日月雲の下、大きな字で「青面金剛」台は二段になっていて、上の台の正面に三猿が彫られている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には崎玉郡新方領平方邑 山谷組中と刻まれていた。