大沢・東大沢の石仏

 

照光院 越谷市大沢2-4-6


北越谷駅東口から東に向かいすぐの信号交差点を右折して300mほど南に進むと道路右側に照光院の入り口があった。参道の突き当りに山門、その付近にいくつか石塔が立っている。


山門左側、ブロック塀の前に新四国霊場標石。正面に「新四國第貳拾八番」左側面に阿弥陀如来 大澤 照光院。裏面には建立 大澤地蔵橋とあり、三人の名前が刻まれている。


山門左前 阿弥陀如来立像 天和2(1682)舟形光背に阿弥陀如来立像を浮き彫り。江戸時代初期らしく全体のバランスが良く上品なたたずまい。こちらは個人の墓石だった。


山門右前 如意輪観音菩薩坐像 寛文11(1671)舟形光背にボリュームのある二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。左の阿弥陀如来とほぼ同時期のもの。こちらも個人の墓石である。


山門を入って左側、弘法大師像の向こうに鐘楼があり、その周りには多くの石塔が並んでいた。


鐘楼に登る階段の左脇 庚申塔 享保6(1721)駒型の石塔の正面を凝った形に彫りくぼめた中、梵字「ウーン」の下に「奉供養庚申講中所願成就所」両脇に造立年月日。下部の別室の中に丸っこい三猿を彫る。


その左隣 光明真言供養塔 宝永3(1706)駒型の石塔の正面を丸みのある窓型に彫りくぼめて、その上部 蓮座の上の円の中に梵字で光明真言を表す。右脇「奉誦造立光明真言廻向法界」左脇に造立年月日。下部には大沢町施主 六十七人とあり、願主四名の名前が刻まれていた。


鐘楼の周りには古い石仏が多いが、ほとんどは個人の墓石で無縁仏。こちらは阿弥陀如来立像 元禄10(1697)舟形の光背に品のいい阿弥陀如来像を浮き彫り。ひときわ美しい。僧侶の墓石のようだ。


山門を入って右に進むと墓地になる。その入り口付近に二基の石塔が並んでいた。


右 六観音菩薩塔 万治元年(1658)舟形の石塔の正面上部を彫りくぼめた中に六体の観音菩薩像を浮き彫り。江戸時代初期のものだが、彫りはしっかりしている。


上段右から千手観音、如意輪観音、十一面観音。下段右から馬頭観音、聖観音、不空羂索観音?素朴な造形は温かみがあり美しい。


塔の下部中央「奉造立六觀音現世・・」両脇に造立年月日。右下 武州大沢町・・・。左下 惣結衆・・・。下のほうは土の中に埋まっていて読めない。


左 六地蔵菩薩塔 承応元年(1652)舟形の石塔の上部に六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。ここでは最古の石仏である。


下部中央「奉造立六地蔵菩薩為二世安樂也」両脇に造立年月日。右下 念佛講結衆、左下に□四拾九人と刻まれていた。


六地蔵塔のすぐ西のあたりに二基の筆子塔が並んでいる。ここ照光院は「大沢小学校発祥の地」とのこと、江戸時代は寺小屋があったのかもしれない。


左 筆子塔 天保12(1841)角柱型の石塔の正面に三つの戒名。左右両脇の戒名は字の大きさ、字体など一緒で、院号のついた居士、大姉戒名、夫婦だろう。中央の戒名は少し小さめで、しかも下のほうに明治2(1869)の紀年銘、さらに俗名、行年五十七歳となっていて、この部分は後刻されたものと思われる。塔の右側面に文政10年(1827)から天保12年(1841)の命日の六つの童子戒名、左側面に辞世の句?裏面に正面に刻まれた居士の命日(天保5年)その下に造立年月日。台の正面には大きな文字で「筆子中」と彫られていた。


右 筆子塔 文政3(1820)自然石の正面に居士、大姉二つの戒名が刻まれ、下の台の正面に「筆子」


裏面の平らな部分に二人の命日。他にいくつか銘が見えるが、これらは筆子の名前だろうか?

 

光明院 越谷市大沢3-16-15


北越谷駅東口から東に向かい国道4号線の北越谷駅入口交差点を右折、南へ200mほど進むと道路左側に光明院の入り口があった。山門から入って左の先に本堂がある。


本堂の左側、道路沿いのブロック塀の前の小堂が立っていた。右側の丸彫りの六地蔵は比較的新しい。


左に立つこの石塔。著しく風化が進み、元の形を全くとどめていない。資料によると「塩かけ地蔵」となっている。長い間かけられ続けた塩のために石地蔵は溶けてしまい、形もわからないような状態にたったものらしい。銘などは見当たらず造立年など詳細はわからない。


山門を入って右側、ブロック塀の前にたくさんの石塔が並んでいた。その中に舟形光背型の地蔵菩薩像が顔を出している。


地蔵菩薩立像 寛文10(1670)前の石塔の陰で下部はうまく写真におさまらなかった。光背左脇に造立年月日。右脇には「為念佛供養施主五拾人」とあり、念仏講中による念仏供養塔ということになるだろう。

鷺後香取神社 越谷市東大沢1-15


北越谷駅から東に向かうと700mほど先で斜めに逆川が流れている。ここから逆川右岸沿いの道を進み次の新内橋の所で左折すると、道路右側の角に鷺後香取神社の大きな看板が立っていた。入り口左の小堂の中に三基の石塔が並んでいる。


左 普門品供養塔 寛政9(1797)角柱型の石塔の正面上部に聖観音菩薩立像。その下に「普門品一万巻」塔の両側面に造立年月日。下の台の正面 大沢町とあり9名の名前。右側面に願主、高畑村などとあり5名、左側面にも5名の名前が刻まれていた。


蓮台の上に立つ聖観音菩薩が舟形光背の形に彫りくぼめた中に浮き彫りされている。


中央 庚申塔 嘉永3(1850)自然石の正面に「庚申塔」裏面に造立年月日。下の台の正面に三猿を彫る。その下の新しい台は昭和41年に新たに設置されたものらしい。


三猿の彫られた台の両側面に合わせて13名の名前が刻まれていた。


右 庚申塔 元文5(1740)駒型の石塔の正面 大きな日月雲の下 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


塔の表面は風化のために丸くなっていて今一つはっきりしない。青面金剛は蛇を頭上に乗せ、左手に大きなショケラの髪をむんずとつかむ。


足の両脇に平板な二鶏。足元の邪鬼は這いつくばりながら様子をうかがう。その下に正面向きの三猿。台の正面には18名の名前が刻まれていた。


塔の右側面 梵字「ウーン」の下に「奉建立庚申供養講中安全祈攸」両脇に施主敬白。左側面には造立年月日。その右下に大沢鷺後村講中と刻まれている。

 

稲荷神社 越谷市東大沢4-17


逆川沿いの道を大吉方面に向けて進み、新土橋の所で右折して南に100mほど、道路左側に東大沢高畑自治会館がある。同じ敷地内に稲荷神社と境内社があり、その裏に石塔が並んでいた。


敷地の北のフェンスの前に六基の石塔。写真後ろに見えているのが逆川にかかる新土橋。


右側の雨除けの下に頭部の欠けた丸彫りの聖観音菩薩立像とやはり丸彫りの地蔵菩薩立像。観音像のほうは銘が見当たらない。


地蔵菩薩像の下の台の正面に「奉造立地蔵尊」両脇に享保年間の紀年銘。左側面には同行十八人と刻まれているが、地蔵菩薩像の蓮台と下の台の色があまりにも違っていて、地蔵菩薩像の本来の台かどうか疑わしい。


残りの四基のうち 右端 千手観音立像 正徳4(1714)舟形の光背上部に梵字「キャ」その下に千手観音立像を浮き彫り。蓮台から下の丸い敷茄子、四角い台はあとからつけたものではなく、観音像と一緒に彫りだしたもので、これは珍しい。


十臂の千手観音。顔面の様子がはっきりしないのは削られたためだろうか?光背左脇に造立年月日。右脇には「奉供養観音経千部成就攸」施主敬白と刻まれていた。


その左隣 庚申塔 寛政12(1800)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」


台は二段になっていて、上の台の正面に聞か猿が彫られ、下の台の正面には願主を含め14名の名前が刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。上の台の右側面には見猿が彫られている。


塔の左側面 武州崎玉郡大沢内 高畑村。台の左側面に言わ猿。三面で三猿になる。


続いて庚申塔 享保15(1730)舟形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂。風化が激しく進み、塔の上部は欠損。剣もショケラもはっきりしないが合掌しているようには思えない。左上の部分に造立年月日が刻まれていた。


足の両脇に大きな二鶏。足元の邪鬼も顔のあたりの損傷がひどい。その下の三猿がユニーク。両脇の聞か猿も言わ猿もそっぽを向いて座り、中央の見猿は頭を抱えるようなポーズで正座のままうずくまる。台の正面には10名ほどの名前が刻まれていた。

左端 地蔵菩薩立像。丸彫りの石地蔵は頭が欠けたものが多いが、これも頭部は後から補ったもののようだ。本来の台を欠いているため造立年など詳細はわからない。

 

東大沢天満宮 越谷市東大沢3-10


逆川沿い右岸の道、新土橋のすぐ東のT字路の角の所に天満宮がある。


鳥居の先の左側、石造りの雨除けの中に二基の石塔が立っていた。


左 庚申塔 享保12(1726)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛はドクロの首輪をつけている。


足の両脇に厚みのある二鶏。邪鬼は青面金剛の重みにじっと耐える。その下にくっきりとした彫りの三猿。左の言わ猿は右手に桃果を持ち、中央の聞か猿とともに正面を向き、右の見猿だけが内を向く。下の台の正面には願主とあり続いて8名の名前。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉造立庚申供養」さらに大吉村と刻まれていた。


右 光明真言供養塔 享保13(1727)駒型の石塔の正面上部 一部剥落があり確定できないが大日如来坐像だろうか。その下、こちらも半ば剥落しているが円の中に光明真言曼荼羅。続けて「三百万遍」右脇に造立年月日。左脇に同行拾人と刻まれている。

定使野公園内水神宮 越谷市東大沢3


逆川沿いの道をさらに東に進むとやがて正面に定使野公園が見えてくる。公園の奥に水神宮があった。祠の向こうには新方川が流れ、さらに川の対岸のネットが張られたあたりが県道19号線定使野橋の北にあるキャンベルタウン野鳥の森になる。


鳥居の左脇に三基の石塔が並んでいた。左端は寛永年間の銘のある宝篋印塔。紀年銘以外は文字が読みにくく詳細は確認できない。


中央 地蔵菩薩立像 宝永8(1711)上部に屋根を施した石塔の正面に合掌型の地蔵菩薩像を浮き彫り。


白カビの中、銘はかろうじて見える。像の左脇に造立年月日。右脇「奉造立念佛同行三十二人」下部両脇に信心施主 敬白と刻まれていた。


右 巡礼供養塔 寛政5(1793)角柱型の石塔の正面は白カビが水玉模様のように広がっていて、これも文字が読みにくい。上部に梵字「ア」続いて「奉納秩父坂東西國四國巡礼供養寶塔」両脇に天下泰平 國家安全。


塔の左側面に造立年月日。右側面 越後國三嶋郡出雲崎 願主 個人名が刻まれている。