西区西大宮

中郷薬師堂 西区西大宮1-34[地図]


JR川越線西大宮駅から300mほど西、線路北の道を進んでゆくと薬師堂の入口があった。入口から正面に薬師堂。右に中郷自治会館。薬師堂の西から奥に墓地が広がっている。入口左には大きな二基の石碑が立っていた。


石碑の裏には多くの石塔がコの字に並んでいる、右側に比較的大きな石碑が三基。正面に卵塔を含む四基。左側に五基の石塔。正面の四基は墓石だった。右の石塔から見てみよう。


右の三基のうち 手前 無食供養塔 元禄13(1700)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に蓮台に座る金剛界大日如来像を浮き彫り。智拳印を結ぶ。


その下中央「奉造建大日如来石像毎月一日無食修行三年三月成就所」無食供養の内容について明記されていて、無食供養についての基本的な知識を得ることができる貴重な銘になっている。銘の両脇にたくさんの名前が何段かに分かれて刻まれているが薄くなっていてはっきりしない。ただ最上段の左端にははっきり願主十誉是心と刻まれていた。両脇の縁の部分に造立年月日。左縁の下部に無食十三人と刻まれている。旧華蔵寺墓地の地蔵菩薩塔に続いて西区で五基目の無食供養塔で、市の有形民俗文化財に指定されている。


その隣如意輪観音塔 天明7(1787)四角い台の上の角柱型の石塔に敷茄子と大きな蓮台を重ね、その上に丸彫りの如意輪観音坐像。総高は2m近い。

右足を立てた観音様は六臂。丸彫りにも関わらず欠損が無いのは奇跡的だ。上の手は右手は頬に、左手に法輪。中の手は右手に宝珠、左手に蓮華。下の手は数珠を持った右手は右足の裏に、左手は左ももの上に置かれていた。



角柱型の石塔の正面中央「奉建立講中」両脇に造立年月日。右下に大木戸村 六十五人。左下に臺村 二十人。


塔の右側面 大西村 五人、赤羽村 五人、増永村 二人、下江村 二十九人、別所村 十人。


左側面 法願寺村 二人、中釘村 一人。正面の二村も合わせると全部で九か村、139人になる。続いて當村 願主 一名、同所 世話人一名の名前が刻まれていた。


続いて 念佛供養塔 享保18(1733)大きな四角い台の上に角柱型の石塔、さらに敷茄子と蓮台を重ねた上に丸彫りの地蔵菩薩像。像は白カビが多いものの大きな欠損は見られない。


角柱型の石塔の正面中央「奉建立念佛講中」両脇に造立年月日。


塔の右側面 武刕足立郡 指扇領大木戸村 男女三拾八人、同領臺村 男女六人、同領大西村 男女六人。同領臺村の上に施主とあるが、施主は三ヶ村50人ということだろう。左側面に与野町石工の名前が刻まれている。


コの字の左側、西向きに並ぶ五基の石塔。左から二番目の頭部を失った丸彫りの地蔵菩薩塔と右端の舟形光背地蔵菩薩塔は墓石だった。


左端 回国供養塔 安永9(1780)角柱型の石塔の正面中央 梵字「キリーク」の下に「奉納日本囬國」両脇に天下泰平・國土安穏。塔の両側面は白カビが厚く写真は難しいが、右側面に造立年月日、左側面に臺村願主 浄念と刻まれている。


左から3番目 回国供養塔 宝暦8(1758)四角い台の上の角柱型の石塔の正面中央に大きく「日本回國供養」上部両脇に薄く天下泰平・國土安全。


塔の右側面に造立年月日。左側面 梵字「アーンク」の下に秀蓮浄誓大徳 霊位。両脇に大木戸村 願主。そのままに読めば高僧の墓石と思えるが、「大徳」と「霊位」が少し離れていて、ひょっとすると「霊位」はこの回国供養塔の願主だった僧が亡くなったあとに追刻されたものか?右側面の紀年銘の最後は吉祥日になっていて、他に命日らしいものも見当たらないし・・・ふとそんなことも考えた。


その隣 庚申塔 正徳2(1712)四角い台の上、唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


顔のあたりは風化のためか一部削れている。頭上は蛇?持物は矛・法輪・弓・矢とノーマルな構成。


足の両脇に二鶏を半浮き彫り。左に雄鶏、右に牝鶏となっていて、これはあまり見ない組み合わせ。足元の邪鬼は厚い白カビのために顔の様子がうかがえない。その下に正面向きの三猿が彫られていた。


塔の左側面に蓮華が彫られている。右脇に造立年月日。右下 大西村、左下に赤羽村。


右側面にも蓮華が彫られていた。左脇に武刕足立群指扇内、左下に臺村、右下に大木戸村。裏面に「奉供養庚申待成就所」と刻まれている。


入口から入って右奥、敷地の東の隅に西向きに小堂が立っていた。小堂の中に六地蔵菩薩塔 寛保3(1743)


風化のために顔のはっきりしないもの、白カビが多いものもあるが、舟形光背に浮き彫りされた六体はよく揃っていて、銘もほぼ同じ内容。光背右脇に造立年月日。


光背右下に大木戸村 臺村。左脇に「無食供養塔」施主廿二人。六地蔵はまとめて一セットと考えると、こちらは西区六番目の無食供養塔になる。

 

十一面観音堂 西区西大宮1-49-14[地図]


中郷薬師堂から西に進むと右側に指扇小学校がある。その西隣に十一面観音堂があった。観音堂右奥小堂が立ち、周りに石塔が並んでいる。


小堂の中 念仏供養塔 寛政3(1791)四角い台の上の角柱型の石塔の上に敷茄子・蓮台を重ね、丸彫りの地蔵菩薩立像。総高150cmほど、享保期と比べるとひとまわり小さい。


宝珠・錫杖は損傷がないが、腰のあたりに大きな断裂跡があり、尊顔はつぶれていた。


石塔の正面中央に「念佛講中」両脇に造立年月日。


塔の左側面 足立郡差扇領大木戸村 願主 願心。


右側面には11の村の名前と講員数が刻まれていて、合わせると94人になる。大きな講だったようだ。


小堂の近く 不動明王塔 宝暦7(1757)炎の光背に右手に剣、左手に羂索を持った忿怒相の不動明王立像、口に牙が見える。全体に動きがあって力強い。


塔の右側面「寄峯?贈大阿闍梨法印義順大徳」下部を横切るように「霊□」高僧の墓石だろうか?羂索を持つ不動明王の左手は破損している。


左側面の紀年銘は最後が吉日ではなく命日だろう。その横に施主は個人名が刻まれていた。


その隣 不動明王塔 寛永7(1630)舟形光背に不動明王立像を浮き彫り。


剣と羂索を手にした不動明王。光背に火焔はなく、尊顔は忿怒相とは言え穏やかで、一見不動明王塔には見えない。光背右脇に権大僧都智清法印。これも墓石か?その下に大木戸村とあり個人の名前。左脇に命日?その下に同とありこちらも個人名が刻まれていた。

西大宮1丁目第一公園 西区西大宮1-5[地図]


JR川越線西大宮駅の北口から東へ向かう。スーパーの南にある公園の南西の隅に石塔が立っていた。写真右の道を東に進むと、突き当りに大塚古墳がある。


庚申塔 元文5(1740)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂


日月雲は線刻。さら法輪をのぞく持物、斧と弓矢も線刻されていた。これはめったにないと思う。上右手に矛ではなく斧を持つが、旧華蔵寺墓地西の小堂の中の青面金剛庚申塔で書いたようにこれもかなり珍しいはずだ。


足の両脇に二鶏を線刻。足元の大きな邪鬼は顔がつぶされていた。その下の部分に正面向きに座る三猿。


塔の左側面中央に武州足立郡指扇領大木戸村。その右脇に施主とあり二名の名前。


塔の右側面に造立年月日。その下に三名の名前が刻まれていた。

 

旧法願寺跡墓地 西区西大宮2-14-4[地図]


十一面観音堂の近くにある指扇小学校から北へ向かい、国道16号線の高架下をくぐった先に指扇公民館があった。公民館の右脇の道に入ってすぐ右折すると道路左手に墓地がある。脇の建物は高木末広自治会館。ここからずっと東に進むと指扇中学校があり、指扇小学校、指扇中学校、指扇公民館、いずれも現在の住居表示は西大宮。旧指扇のかなり広い地区が住所変更されたことがわかる。


墓地に入ってすぐ左手に六地蔵の小堂が立っていた。六地蔵じたいはかなり新しいもの、銘は確認できなない。


小堂の左脇 如意輪観音坐像。こちらも銘が見当たらなかった。彫りは細かく写実的で生き生きとしている。


薬師堂で見た天明7年の如意輪観音像によく似ている。丸彫りの六臂像で持物も同じ、同じころのものだろうか?


小堂の右脇に二基の地蔵菩薩塔。左は頭部が欠けていて詳細は不明。右は宝暦5(1755)造立。


角柱型の石塔の正面に28文字の偈文。塔の左側面に天下泰平 國土安穏。


右側面に造立年月日。続いて施主 北貝戸村と刻まれていた。


その右のコンクリートの台の上、丸彫りの地蔵菩薩立像がひとつの台の上に二基並び、前列に二セット、裏にもう一セット。前後合わせて六地蔵菩薩塔 寛政10(1798)


前列左の台の正面 右に造立年月日。中央に「念佛講中」両脇に天下泰平・國土安全。左に近郷助力とあり、法願寺村、願主 願心。大木戸村、大西村と刻まれていた。


墓地の右手に大小合わせて23基の板碑が集められている。


もっとも大きな板碑 貞和5(1349)南北朝時代のもの。上部に阿弥陀三尊種子。その下に造立年月日が刻まれている。

西区役所東墓地 西区西大宮3-14[地図]


国道16号線大塚古墳交差点から北へ進むと、150mほど先の交差点の北西の角に墓地があった。ブロック塀の隅に石塔が祀られている。


地蔵菩薩塔 宝永2(1705)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。風化のために顔ははっきりしない。光背両脇に造立年月日。左下に清河寺村。


足元の部分に施主 神田市兵衛 同十七人と刻まれていた。

 

阿弥陀寺 西区西大宮4-54[地図]


高木の氷川神社から東に向かい、大きな道を越えてさらに200mほど進むと阿弥陀寺の山門の前にでる。山門の右手前の駐車場の隅に小堂が立っていた。


庚申塔 宝暦12(1762)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


輪光背を負った釣り目三眼の青面金剛。頭上には蛇?持物は矛・法輪・弓・矢。


足元の邪鬼はうらめしそうに上目使い。その下に正面を向いて座る三猿。


塔の左側面に造立年月日。下部に十名の名前。


右側面に武刕足立郡阿弥陀寺村。その下に六名の名前が刻まれている。


山門を入ると左手、横長の小堂の中に石塔が並んでいた。その裏には墓地が広がっている、


左端 地蔵菩薩塔 享保18(1733)四角い台の上の角柱型の石塔に丸彫りの地蔵菩薩立像。像は欠損なく堂々としたたたずまい。


角柱型の石塔の正面「奉建立地蔵菩薩爲二世安樂」両脇に造立年月日。右下に阿弥陀寺、左下に願主 個人名が刻まれていた。


その隣 読誦供養塔 元禄11(1698)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉讀誦浄土經千部」その下に造立年月日。左脇に武州足立郡指扇阿弥陀寺 仰譽上人圑弓誌。浄土経の読誦供養塔は珍しい。足元の部分、中央に施主とあり、その右脇に北貝戸村から四名、左脇に清河寺村からも四名の名前が刻まれている。


続いて如意輪観音塔。大きな舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。立派な石塔なのだが全く銘が刻まれていない。この無銘塔をどう考えるのか?江戸で像まで仕上げた石塔が水運の発達で近県に流通、仕入れたお寺、講中が現地の石屋さんに依頼して刻字、墓石・供養塔として祀られる。例えばお寺で買い入れたまま売れ残った?そんなケースだろうか?いずれにしても全く無銘の石塔がそのまま祀られているのは珍しい。


小堂の右端 六地蔵菩薩塔 平成11(1999)台の左脇に造立年月日。続いて檀徒一同、阿弥陀寺21世と22世の名前が刻まれていた。