富士見市水子(城下、寺前、本郷、山崎)

浦和所沢バイパス岡の坂交差点東路傍 富士見市水谷東1-27

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水谷東は一件だけなので、こちらで一緒に紹介します。


志木市役所前交差点からから北西へ進み浦和所沢バイパスを越えてみずほ台駅方面に向かう県道266号線。浦和所沢バイパスにぶつかる手前、貝塚橋付近の道路左側に枝道がある。その出口辺りにある住宅のブロック塀の前に三基の石塔が並んでいた。隣には大きな病院がある。

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右 地蔵菩薩立像 元禄4(1691)舟形光背の右脇に「當橋奉供養為先祖菩提也 施主」とあり、この延命地蔵は橋供養塔でもあるようだ。左脇に造立年月日。続いて武州入間郡水子村と刻まれている。

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中央 庚申塔 寛延2(1749)正面中央に「奉建立庚申」右脇に造立年月日。左脇に講中三拾人。下部には三猿だけが彫られていた。

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左 地蔵菩薩立像 寛政5年(1793年)光背右「建立妙圓尼」その下に水子村。左脇に造立年月日。続いて施主 個人名を刻む。

城の下観音堂 富士見市水子3069

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県道266号線をさらに進み浦和所沢バイパスを越えて20mほど先を右折、坂道を登ってゆくと右側に城の下観音堂の入り口があった。

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お堂の左側には小堂があって八体の地蔵菩薩像が並んでいる。中の六体はほぼ同じサイズで両端のお地蔵さまは少し大きい。

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左 地蔵菩薩立像 正徳3(1713)丸彫りの延命地蔵。右手の錫杖の様子が見えないが上部は欠けているかもしれない。

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蓮台の下の台の正面中央 願文の後に造立年月日。右脇に武州入間郡水子村、左脇に願主名を刻む。さらにその下の台の正面に水子村、上南畑村という文字が見える。富士見市HPによると遠くは古市場、川越町など近隣14町村の名前が刻まれているらしい。

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続く六基は六地蔵菩薩立像だろう。像のサイズ、蓮台のの様子などが似通っている。

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左端の台の正面に造立年月日。次の台の中央に念佛講中三十人、脇には水子村 町谷上ノ下。ここにある他の石塔の銘を見てみると「上ノ下」=「上野下」、「町谷=町屋」のようだ。あとの四基の台には戒名だけが刻まれていた。

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六地蔵の奥、最後は地蔵菩薩立像 宝暦8(1758)こちらも丸彫りの延命地蔵。

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下の台の正面 梵字「カ」の下「奉造立地蔵菩薩有縁無縁為三界万霊也」右下には造立年月日が刻まれている。台の左側面に武州入間郡水子村 施主は個人名だった。

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小堂の外、左側に二基の石塔が立っている。手前 百ヶ所観音順礼供養塔 寛政8(1796)正面中央 梵字「サ」の下「奉順禮西國・秩父・坂東百箇所供養塔」両脇に天下和順・日月晴明。塔の右側面には造立年月日が刻まれていた。

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塔の左側面 武州入間郡水子村 その下に城下 窪新田とあり、三名の名前が刻まれている。

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その左に立つ石塔 文化3(1806)正面 梵字「キリーク」の下、一番上の文字が読めない。□多鋪供養塔。似たようなものを見たこともなく、これはなんの供養塔なのだろう?下のほうには水子村 願主 宗覺と刻まれていた。

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観音堂の右奥の一角に歴代住職の墓石などの多くの石塔が整然と並んでいる。

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東の列の左から2番目 地蔵菩薩立像 延宝3(1675)江戸初期のもので白カビは目立つが、舟形光背の前にたたずむ延命地蔵のその姿は大変美しい。光背右 念佛同行十五人 その下に武州入間郡水子村上野下。左脇には造立年月日が刻まれていた。

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南の列の中央付近 阿弥陀如来立像 延宝8(1680)こちらも古いもので白カビが目立つ。光背上部に梵字「キリーク」光背右脇「□造立阿弥陀尊二世安樂□念佛一結衆同行十四人」左脇に武州入間郡水子城之下村。その下には造立年月日が刻まれている。

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 富士見市HPによるとここには馬頭観音立像 寛文4(1664)があるということだったが、どこにもその姿は見当たらなかった。何度訪ねてみてもみつからず空しく帰ってきたのだが、今朝、本堂左手前にある「観音堂再建記念碑」の裏面に説明文があることにやっと気が付くことができた。この説明文によると探していた馬頭観音はこの観音堂の本尊のようで、おそらく観音堂の中に安置されているのだろう。丸彫りの立像だというのだが、富士見市内でもっとも古い馬頭観音像のひとつでもあり、いつか拝見したいものだ。

富士見江川右岸土手外 富士見市水子2881付近

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城の下観音堂の入り口の前の道を北に60mほど進み、まっすぐそのまま急な下り坂を降りてゆくと左側に富士見江川の土手が見えてくる。この細い道は浦和所沢バイパスの下をくぐり志木方面に抜けてゆく。浦和所沢バイパスに出る手前、左側路傍に小堂が立っていた。

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小堂の中 右 馬頭観音立像 享保5(1720)合掌六臂。後ろの四つの手のうち一つだけは蓮のつぼみを持つが、残る三つの手がなにも持たず空手なのは珍しい。光背上部に「歸空」両脇に渡って良縁善畜男 縁因善畜男。これも見たことがない。ちょっと不思議な馬頭観音だ。右に水子邑、続いて施主個人名を刻む。光背左下には造立年月日が刻まれていた。

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左 馬頭観音坐像 文化5(1808)粗削りだが力強く味がある。光背上部に梵字「カン」右脇「馬頭観世音菩薩」左脇に造立年月日。像の下の部分に久保新田施主とあり個人名が刻まれている。

 

大應寺 富士見市水子1765

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水子貝塚公園の道路をはさんだ向かい側に大應寺の入り口がある。道路からずっと奥まったところに赤い鐘楼門が、その向こうに大きな本堂が立っていた。

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鐘楼門の右手前角のところに六地蔵の小堂。その右にも石塔が見える。

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普門品供養塔 嘉永5(1852)塔の正面に大きな文字で「普門品供養」二段になった台に銘は見当たらない。

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塔の裏面 右脇に造立年月日。左脇は読みにくいが内容から考えると□□観音講中 三十一人だろうか。

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六地蔵菩薩立像 丸彫りだが損傷は少ない。それぞれの台に享保16(1731)から宝暦7(1757)までの命日と戒名、さらに施主名が刻まれていた。

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門を入ると正面が本堂で、その本堂の右側と裏の低地に墓地が広がっている。本堂右側の墓地の入り口に多くの石仏が集められていた。ひときわ高い聖観音立像は昭和55年造立の新しいものらしい。

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聖観音像の隣 地蔵菩薩坐像。大きな基壇、台、塔部、蓮台の上に丸彫りの延命地蔵。像もボリュームがあり堂々としている。

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台の正面に「講中」その両脇に小さく金二分とあり、その下にそれぞれ個人名が刻まれていた。塔部 上のほうに二色 開祖とあり、中央に「法印慧空塔」まわりに見えるカナ文字は和歌のようだ。塔の両側面には願文が刻まれているが紀年銘は見当たらなかった。

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地蔵菩薩像の右から石畳の坂道を登ってゆくと左側に庚申塔とお地蔵様の二つの小堂が立っている。

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庚申塔 宝暦5(1755)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。

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足の両脇に厚みのある二鶏。邪鬼は顎を突き出しムスっとしている。続いて三猿。その下の部分には右から、坂上引又道、江戸道、向藤久保道、右川越道と刻まれていて、道標になっていた。

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塔の側面は空間が狭くうまく全体を写せない。右側面「奉造立庚申像為二世安穏也」右脇に年号。その下に講中十四人と刻まれている。左側面には「天下泰平国土長久」続いて武州入間郡水子邑 願主 個人名が刻まれていた。

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後ろの小堂の中 地蔵菩薩立像 宝永2(1705)舟形光背型の延命地蔵。光背上部に梵字「カ」両脇に造立年月日。右下に施主 北水子中、左下 本願 個人名を刻む。

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小堂の隣 馬頭観音塔 明治44(1911)正面に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。左側面に祭主、行者二名の名前が刻まれている。

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その隣 庚申塔 天明3年(1783年)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。丸い邪鬼は静かな表情。三猿は左のいわ猿だけが中を向き、しかも正座しているのが面白い。

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塔の右側面 梵字「アーンク」の下「奉造立青面金剛供養成就所」左側面に造立年月日。その下に願主は個人名。脇に講中拾八人と刻まれている。

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墓地への道の右、庚申塔の小堂の逆の側の一角に石塔が並んでいた。中央に大きく不動明王塔が見える。

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不動明王立像 寛文10(1670)光背に炎を線刻。右手に剣、左手に羂索を持った不動明王は顔をしかめて立っていた。

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像の下、中央に「□体不動権大僧都法印祐宴」住職の供養塔のようだ。両脇に造立年月日。下のほうに施主 □位。

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本堂の裏、階段を下りてゆくと広い墓地になっている。墓地の奥、写真の石組みが見えるあたりは、湧き水だろう小さな池になっていて、その前に石祠が立っていた。

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石祠の中 弁才天坐像 安永4(1775)頭に蛇を乗せた二臂の弁財天が琵琶を弾いている。彫りは細かく美しいが、年代を考えると美しすぎるか?

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祠の左側面に願主 個人名、右側面中央に 「奉造立妙音辨才天一躰」その右脇に造立年月日。左脇に武州入間郡水子邑と刻まれていた。

 

本郷中学校北門向かい畦道 富士見市水子539中学校北

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本郷中学校の北にある門のところから富士見江川のほうに向かう道の左側、田んぼのあぜ道に二基の石塔が立っていた。写真上の緑の部分が遊歩道が続く富士見江川の土手。左上に見える大きな建物は旧富士見有料道路沿いの大きな総合病院になる。

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左 庚申塔 元禄14(1701)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。経年のため表面は摩耗し、文字は読みにくく全体にぼんやりしている。像の右脇「奉庚申待供養石橋成就処」左脇に一結施主二世安樂所。石橋供養塔を兼ねているようだ。

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足下には邪鬼・二鶏の姿は無く三猿だけが彫られていた。その下に文字が見えるが、半分は土の中で判読が難しい。資料によると十一名の名前が刻まれているという。

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塔の左側面に造立年月日。右側面 武州三好里水子村のように見えるが三好里はどこを意味するのか不明。三芳町(三芳村) は明治になってできた地名なので該当しないと思うがどうだろう?

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右 庚申塔 寛政4(1792)写真を見ていただければわかるように風化が進み剥落部分が多く原形をとどめていない。富士見市HPの写真を見ると正面上部に梵字、その下に薄く「庚申供養塔」と見えている。現在の状態で正面には最下部に「塔」左側面上部に「寛」だけが確認できた。あと何年かするとそれも見られなくなってしまうのだろう。

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右側面だけはしっかりと文字が残っている。武州入間郡水子村上組。他の石塔でも中組などの表記が散見される。その下に講中七名の名前が刻まれていた。

本郷中学校南路傍

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本郷中学校の南のT字路を入ると、左側のアパートと住宅の間に庚申塔が立っている。この道を登ってゆくとやがて高台の氷川神社のあたりに出ることになる。

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石塔の手前近くまでアパートの黒いフェンスが迫っていて斜め右からしか見ることができなかった。庚申塔 文化7(1810)正面 梵字「ウン」の下に開運とあり、続いて大きく「庚申塔」右脇に諸願成就、左脇に如意□□。塔の左側が破損していて文字が欠けている。□□は鋪と足または疋のように見えるが、どう組み合わせて考えても意味が通じない。塔の右側面には造立年月日が刻まれていた。

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台の正面に十人ほどの名前が、右側面には奥に他力講中とあり、やはり数人の名前が刻まれている。塔の左側面、台の左側面を見るにはフェンスを越える必要があり、今回はあきらめざるをえなかった。

 

水子貝塚西住宅

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大應寺の前の道を、左手に水子貝塚公園を見ながら西に進む。左側にある氷川神社の先の細い道を左に折れて下ってゆくと、右手からくるやや広い道と合流するが、そのすぐ先の左側、少し奥まったところにある住宅のブロック塀のところに石の小堂があり、中には二基の馬頭観音塔が並んでいた。

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左 馬頭観音立像 元禄16(1703)光背の前に合掌六臂の馬頭観音像。彫りは厚く丁寧で足元の蓮台まで一つの石から彫り出している。光背右「奉造立馬頭觀音右志者為畜生菩提也」続いて武州入間郡水子村。左脇に造立年月日。その下に施主三名の名前が刻まれていた。

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馬口印を結ぶ丸顔の馬頭観音は三眼を持ち厳しい表情。年代の割に状態も悪くなく、人ならぬものの恐さが伝わってくる。

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右 馬頭観音塔 明和6(1769)梵字「カン」の下「馬頭觀自在菩薩」その両脇に造立年月日。右下に水子村、左下に施主名が刻まれていた。

水子貝塚西三叉路 富士見市水子2145

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さらに道を下ってゆくと左からまた細い道が合流してくる。この三差路の左手路傍に石塔が祀られていた。

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庚申塔 元文5(1740)正面に「庚申青面金剛」両脇に造立年月日。塔の下部には素朴な三猿が彫られている。

地蔵院東住宅 富士見市水子661 

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氷川神社からさらに西へ向かうと右手に地蔵院がありその先のT字路で広い道にぶつかることになる。地蔵院の手前30mほどの右手の住宅の角のブロック塀に庚申塔が立っていた。

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庚申塔 享保5(1720)唐破風笠付角柱型 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上部は紙垂のために様子が見えない。

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普通は弓矢を持つ下の手には何も持っていないようだ。足下の邪鬼、三猿はいずれも風化のために漠然としている。

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塔の左側面に造立年月日。続いて水子村 施主 九人と刻まれていた。

 

地蔵院 富士見市水子658

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水子貝塚公園から西に向かう道はやがて下り坂になりT字路で広い道にぶつかる。その少し手前の右手に地蔵院があった。

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左手入口近く、雨除けの下に二基の石仏が並んでいる。

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左 地蔵菩薩立像 元禄14(1701)右手に錫杖、左手に宝珠を持つ延命地蔵。風化のためか顔がはっきりしない。光背右脇「奉供養日待講石橋成就処」日待講による石橋供養塔のようだ。左脇に造立年月日。その下に武州入間郡水子村と刻まれていた。

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地蔵菩薩像から蓮台の下の部分までを一つの石から彫り出したものらしい。その一番下の部分の四面に渡って、合わせて十数名の名前が刻まれている。

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右 庚申塔 貞享2(1685)上部を欠いているが年代の割に銘も三猿も損傷は少ない。

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梵字「ウーン」の下「奉造立供養庚申塔現當二世安樂處」右脇に武州入間郡水子郷山崎村。左脇に造立年月日。左下に欽白と見える。ダイヤ型(手足のラインがダイヤの形)の三猿の下には右に地蔵院とあり、続いて七名の名前が刻まれていた。

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本堂の左脇の小堂の中に二組の六地蔵像、その奥にも二基の石地蔵が立っている。

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二組の六地蔵菩薩立像はおそろいの帽子と前掛けがメルヘンチックでかわいい。

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手前の六地蔵は右端の台に安政三年(1856)の銘があり、左端の台に「念佛講」と刻まれていた。像の様子、蓮台、敷茄子、台座などから見て、前列の六基の地蔵塔は一緒に建立されたものだろう。後列の六基の台には明和6(1769)から天明2(1782)までの命日とそれぞれの戒名が刻まれている。施主名は個人名が多く、造立年や講中などの銘は見当たらないが、その六基の文字はかなり似通っていて、やはりこちらも一組の六地蔵のように思われるがどうだろう。

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小堂の奥 地蔵菩薩立像 寛保元年(1741)舟形光背型。梵字「カ」の下に合掌する地蔵菩薩立像。光背上部両脇に「有縁無縁三界万靈」右下に造立年月日。続いて北水子村と刻まれていた。左下に施主 通眼。足下には平塚安兵永と見えるが願主だろうか?

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その奥 地蔵菩薩立像 天明5(1785)丸彫りの延命地蔵。台の正面 梵字「カ」の下に眼光妙照近住尼。両脇に造立年月日。台の左側面には施主 水子邑本郷とあり個人の名前が刻まれていた。

 

山崎不動院 富士見市水子219

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富士見江川の土手上の遊歩道の終点が寿橋。そのまままっすぐ進むと山崎公園、右へ曲がると市役所方面になる。ここで左折して南へ進むとみずほ台方面へ出るが、左折してすぐ、右手に枝道がある。細い道に入って少し歩くと右手の住宅街の中に不動院があった。写真正面の目隠しのようなフェンスの右側、一般の住宅のように見えるがここが不動院の本堂らしい。近くに一目でわかる標識類も、目印になるような墓地もなく探しにくい。

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フェンスの向こう、敷地の左側の一角に大小さまざまな不動明王の石塔が集められていた。

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右端 大型の不動明王坐像。立派な炎の光背。右手に剣、左手に羂索を持った不動明王は眉をしかめ恐い顔をして坐っている。彫りは細かく、額のしわ、胸の飾りの細かい部分までしっかりと表現されていた。台にも像にも銘が見当たらず、造立年などの詳細はわからない。

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左端 矜羯羅童子立像と制吒迦童子坐像。大きさから考えて右端の不動明王とともに不動三尊像として作られたものと思われる。こちらも銘は見当たらない。

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両者に挟まれて、左に大日如来と彫られた駒形の石塔。その右に中型の不動明王立像。その手前左に小さな不動明王坐像、その隣が同じように小さな矜羯羅童子立像と制吒迦童子坐像。残念ながらこれらのすべての石塔において紀年銘、施主名などの文字を確認できなかった。

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庚申塔 日月雲 塔の正面に「大日如来」蓮台の下にさらに三猿が彫られている。50cm足らずの石塔だが、瑞雲も三猿も立体的で美しい。詳しいことはわからないが「庚申縁起」に大日如来にふれた部分がみられ、その流れでこういった大日如来を主尊とする庚申塔が作られたものだろう。実際には見かけることは少なく貴重なものだと思う。不動明王が大日如来の化身と言われることから、ここ不動院に大日如来塔があること自体はなんら不思議なことではない。

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隣 不動明王立像。そう大きな像ではないが、ダイナミックに燃え盛る炎を身にまとい、右手に独鈷杵、左手に羂索を持った不動明王像はなかなか迫力がある。

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前のほうに小さな不動明王座像。30cmもないような小さなものだが、これも驚くほど細部まで丁寧に彫られていた。

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その隣 やはり小さなサイズの矜羯羅童子立像と制吒迦童子坐像。小さいながらも中央に配された滝のしぶき、流れ落ちる水の中の泡まで彫り込まれていて見事なものだ。

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片手で持てるほどのものなので、失礼して不動明王を載せてみた。これが本来の不動三尊像の形だろう。光背上部を欠くものの、バランスがよく隙のない立派な作品だと思う。

地蔵院南路傍 富士見市水子217付近

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不動院のすぐ南、右側の路傍に小さな石塔が立っていた。

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弁財天塔 天保13(1842)願主名は個人名。水子は地名に「水」が付き湧き水や池・川などが多く、水神としての弁財天をあちらこちらで見かける。

江嶋神社 富士見市水子992

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さらに南に進み、広い道に出て100mほど行くとまた右手に細い枝道がある。入ってゆくと右側、小さな流れの先に鳥居があり、その先のコンクリートの壁の前に石祠が立っていた。

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弁財天塔 享保3(1718)祠の中琵琶を弾く弁財天座像。江戸時代のものと思えないほどきれいな状態で、あとから作られたものだろう。祠の左側面に造立年月日。その脇には講中 同行三十八人と刻まれている。

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祠の右側面に武州入間郡北水子村。弁財天像はともかく、この石祠のほうは江戸時代にできたものと思われる。