大泊の石仏

 

大泊観音堂 越谷市大泊104


国道4号線越谷春日部バイパスの大泊交差点から西に入ると100mほど先の右側に観音堂の入り口がある。長い参道を進むと正面に古ぼけているが大変立派な堂が立っていた。参道の両側に多くの石塔が並んでいる。


参道左側手前から六観音六面石幢 宝暦5(1755)笠付の大型の六面幢。正面に如意輪観音坐像、その左の面に十一面観音立像を浮き彫り。


次の面に三面六臂の馬頭観音立像、その隣に合掌する観音菩薩像、こちらは像容がはっきりしないが、他の五観音から考えると准胝観音だろうか?


さらに次の面には十二臂の千手観音立像、最後の面には聖観音立像が浮き彫りされていた。


台の正面 なかば土の中に埋まっているが右から為村中、為先祖、為越譽、為思明、宝暦五、五月、施主大、高崎三・・・などと文字が見える。


六観音塔の後ろに千手観音、あるいは十一面観音立像 享保10(1725)舟形の光背の一部が欠け持物は不明だが本面を加えて十一面、合掌手と腹の前で宝鉢を持つ手を合わせて十臂。光背右下に□圓大徳、光背左に造立年月日。顔が潰されていて痛々しい。


右隣 庚申塔 寛政9(1797)角柱型の石塔の正面に「青面金剛」その下に三猿を彫る。塔の右側面に造立年月日が刻まれていた。


続いて馬頭観音塔 昭和25(1950)駒形の石塔の正面に「馬頭觀世音」左側面に造立年月日。


大きな銀杏の木の前に庚申塔の像塔が二基並ぶ。左 庚申塔天明元年(1781)駒形の石塔の正面に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。下部に頭を左にして寝そべる邪鬼と三猿。二鶏は見当たらない。


塔の左側面に造立年月日。右側面に大泊村下講中願主とあり個人名が刻まれていた。


右 庚申塔 正徳元年(1711)大きな駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


光背下部両脇に造立年月日。三眼の青面金剛は近づいて見るとなかなか迫力のある表情をしている。


足下に大きな邪鬼。かなり厚めの彫りで、鬼というよりもいたずらな子供のようなユニークな邪鬼。その下に正面向きの三猿。さらに下の台の正面には大泊村とあり十数人の名前が刻まれていた。


その奥に普門品供養塔 嘉永7(1854)ほぼ正方形に近い形の自然石の表面に「普門品供養塔」その下の台の正面に17名の名前。裏面には造立年月日が刻まれている。


右端 地蔵菩薩立像 寛文9(1669)寛文期らしい大きな舟形の光背。梵字「カ」の下に静かな表情の地蔵菩薩立像を浮き彫り。台の正面に念佛講村仲と刻まれていた。


光背右脇に「念佛并庚之供養」左脇に造立年月日。地蔵菩薩を主尊とする庚申塔ということになろう。地蔵像の下腹部中央に四角く穴が開いている。


裏面を見ると輪廻車を設置するための大きな穴の部屋がある。「車地蔵」という呼び方で似たようなものを見かけることがあるが、その多くは地蔵像の下の塔の部分に輪廻車がもうけられていて、地蔵像そのものに車が付くというのは珍しいのではないだろうか。現在は輪廻車はないが一度見てみたいものだ。

 


前回の記事で入れ忘れた参道左側の石仏群全体の写真。2、3日後、前回の記事を編集しなおしてそちらに移動する予定です。


参道の右側には三基の石塔が並んでいた。


手水舎の手前に六地蔵菩薩塔 寛保元年(1741)笠付の六面幢のそれぞれの面に地蔵菩薩立像を浮き彫り。


台の正面に銘が刻まれている。中央に戒名、その両脇に造立年月日。または命日か?右端から為先祖一家、聖霊菩提、左へ武州崎玉郡大泊村とあり施主は個人名。これだけの立派な石仏が個人の墓石だとすると、江戸時代中期になって、それだけの経済的な力を持つに至ったということなのだろう。


手水舎の奥 地蔵菩薩坐像。角柱型の石塔の上に舟形の光背を持った地蔵菩薩坐像が乗っている。


塔の正面に「明譽見了墓」とあり、こちらも墓石だった。像のほうにも塔の他の面にも銘は見当たらず。造立年などはわからない。


その隣 聖霊供養塔?文化4(1807)大きな自然石の正面に歌が刻まれている。下の台の正面に大きな字で「一切精霊」


裏面に慈眼寺十二世 縁蓮社瑞譽辨隆 生年 造立墓。左脇に造立年月日。ご住職の墓石のようだ。


観音堂の西側に墓地があり、二基の六面石幢が並んでいた。


手前 六地蔵塔 享保8(1723)凝った形の笠を持った六面石幢に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。台は三段になっていていずれも六角形をしている。


一番上の台の六つの側面のうち四つの側面に銘が刻まれていた。右のほうから念佛講中、壹譽桑林、寶譽栄樹、次の面は中央に「奉造立」両脇に造立年月日、その左の面は慈眼寺、品譽代、願主方譽、専西、最後の面には「奉読誦三部妙典一千部」


奥に六地蔵塔 寛延4(1751)こちらも六地蔵菩薩立像を浮き彫りにした六面石幢。四角い台の上に蓮台を乗せ、その上に六地蔵塔という構成になっている。


台の正面 中央に「奉唱念佛十八億供養」右端に造立年月日。左端に大泊邑とあり施主個人名が刻まれているが、その名前は参道右の手水舎手前の六地蔵塔の施主と全く同じで、造立年は10年の隔たりがあるが同一人物と思われる。大泊村の有力者だったのだろう。

 

安國寺 越谷市大泊910


大泊観音堂の前の道をさらに西に進むと、やがて道なりに左にカーブして南に向かう。その先は念仏橋で新方川を渡り、国道4号線日光街道に出る。道が大きくカーブするあたり、道路右側に安国寺の入口があった。奥に進むと、寺導の立つ門の前からまっすぐ正面に本堂。その手前、参道左の緑の築山?に石塔が立っている。


新六阿弥陀標石 天明8(1788)角柱型の石塔の正面「六阿彌陀五番」右側面に造立年月日。左側面には武州崎玉郡新方領船渡邑とあり続いて願主 個人名が刻まれていた。


本堂の左側に墓地がある。入口付近、大きな基壇の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像が祀られている。明治26年建立で、安国寺の中興の祖、宏善上人の墓だという。越谷及びその周辺の村々の名前が見られ、多くの奉納者の名前が刻まれていた。その左脇、木の陰で見にくいが二基の石塔が並んでいる。


右 六字名号塔 安政6(1859)大きな長方形の自然石の表面に力強く「南無阿弥陀佛」左下に行譽とある。下の台の正面にはこれも大きな文字で「萬人講」


裏に回ると細かい字がびっしりと刻まれていた。白カビが多く読みにくい。資料によると安政5年に江戸でコレラが大流行した時のこの近辺の様子を記した貴重な碑文だという。


台の両側面と裏面に平方、船渡、大里、間久里など越谷から大枝、備後などの粕壁の村、末田、高曽根など岩槻の村まで多くの村とその世話人の名前などが刻まれていた。


左 六字名号塔 慶應3(1867)角柱型の石塔の正面に「南無阿弥陀佛」台の正面に「雨請」どうやら雨ごいの名号塔らしい。塔の右側面に造立年月日。左側面には歌が刻まれている。


塔の裏面下部に願主とあり、その下に大枝村、上間久里村、下間久里村、大泊村と刻まれていた。


墓地の南西の一番奥に六基の石塔が並んでいた。


右から 六地蔵塔 正徳5(1715)笠付の六面石幢のそれぞれの面に地蔵菩薩立像を浮き彫り。


蓮台の下の四角い台の正面に造立年月日が刻まれている。


隣 六字名号塔 宝暦3(1753)角柱型の石塔の正面に「南無阿弥陀佛」その下に百万遍講中上組、右脇に「奉唱念佛六億六百六十万六千遍」左脇に造立年月日。その下に願主とあり個人名を刻む。


3番目 庚申塔 享保6(1721)唐破風笠付角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の表面は摩耗が進み、青面金剛の顔もつぶれていた。細くなった足の両脇にかすかに二鶏。足下には形もはっきりしない邪鬼。頭を左にしてうつぶせになっているようだ。その下の三猿だけはきれいに残っている。


塔の右側面に造立年月日。左側面下部に講中男女四拾七人と刻まれていた。


隣は念仏供養塔 造立年不明。笠付角柱型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「奉誦念佛六一億四百万遍供養」左下に院号付きの長い戒名。塔の両側面にもそれぞれ十数個の戒名が刻まれている。戒名は「居士」「大姉」が多く見られ、有力な家の墓石と思われる。紀年銘などは見当たらないが下の台が深く埋まっているようなので、もしかしたら台のほうに銘が刻まれているのかもしれない。


左から2番目 庚申塔 天明8(1788)角柱型の石塔の正面 日月雲の下「青面金剛」塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。下の台の正面に丸い体形のかわいい三猿が彫られていた。


左端 三界万霊塔 弘化4(1847)塔の正面は一部剥落が見られひびも入っているが銘はなんとか確認できた。中央に「三界萬霊等」両脇に願文。塔の左側面は無銘。右側面はびっしりと白カビに覆われているが「弘化四」とこちらもかろうじて見ることができる。

資料を読んでいたら、この大泊・安国寺について次のように書いてあった。
「安国寺はもともと鎌倉時代初期、法然に帰依した熊谷直実の営む草庵であった。その後、1361年に紀伊の熊野の大泊村からやってきた熊野の安国寺住職・専故がここに村を開き、寺を開き、その折故郷の地名と寺名をとって「大泊村」「安国寺」と名付けたという」